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第3話 魔法がとける時

「……“どうして”……」

 忘却することのなかった一番大切な記憶は、繰り返し繰り返し、思い返すたびにはっきりと記憶に刻まれる。


 その部屋の印象は、純粋な白とどこまでも広がる蒼穹の青。記憶の中の“彼”は、いつも微笑んでいた。

 白と青を好み、拒絶ではなく柔らかく包み込んでくれる蒼をまとう彼。彼の、最後の記憶だけはなぜかセピア色に染まっていた。



××××



 水と光のコントラスト。暗く深い海の底でしか生きることのできない深海魚を展示するスペースには、相変わらず人気がなかった。

 目の前を通り過ぎた深海魚に手を伸ばし、冷たいガラスに阻まれた指を見つめながら“彼女”は苦笑した。女性と呼ぶにはまだ幼い、けれど少女と呼ぶにはどこか大人びた雰囲気を持つ“彼女”は、ガラスに阻まれた指先で緩くカールした長い髪に指を絡めて軽く髪を引いた。

「……」

 反対の手でガラスに触れ、髪の毛に指先を絡めたまま、どこか愛おしそうに、切なそうに“少女”は口を開いてから声には出さずに唇を震わせた。

 しばらくそうしてぼんやりと深海魚を眺めていた少女は、一度キツク瞳を閉じるとゆるゆると愁いを帯びた瞳を開いた。

「この場所も、私の気持ちも変わらないのに……」

 殊更ゆっくりと振り返った少女の背後には、誰も立ってはいなかった。

「あなたが、いない……」

 もう一度水槽に視線を向けた少女は、すがり付くかのように水槽に額を預けた。

「サキ……」



××××



 目が覚めると、サキがいる。そんな生活が当たり前のようになってから、一週間が過ぎていた。


「~~♪」

 よく聞くクラシックのメロディーを口ずさみながら洗濯物を干していたころんは、たまたま付けたままになっていたテレビに自分の名前が呼ばれた気がして振り返った。


『現在、行方が分からなくなっているのは宮澤ころんちゃん、9歳です』


 緩くカールした薄茶色の長い髪、琥珀に近い蜜色の瞳。実年齢よりやや大人びた雰囲気で写っている写真は、同姓同名などではない。今、ここで洗濯物を片手にテレビから視線を離せずにいる“ころん”そのものだった。


『ころんちゃんは先週の金曜日、授業を終えて学校を出たところからの足取りが掴めなくなっており、何らかの事件に巻き込まれたとみられて捜査が続けられています』


「……なんで……」

 無意識のうちに零れていた言葉に、どれほどの意味があったのか。思わず零していた疑問の声に気づいたころんは、反射的に眉を寄せていた。

「……どうして、捜したりなんてするの……」

 唇を噛みしめながら零した言葉は「父親」に対する問いかけでしかなかった。その声音に滲むのは苦痛。父親に対する思慕などではなく、サキに迷惑をかけてしまうかもしれないという困惑と不安だった。

「サキが、私の声に気づいてくれたのに……ずっとサキと一緒に、いたいのに……」

 無意識のうちに、手にしていた洗濯物を握りしめていた。


 ころんには「学校」という名の“イレモノ”など何の意味もない。それは「家族」の存在する家でも全く同じこと。

 ころんにとって“学ばなければならないこと”など、パズルを解くより簡単にできた。ころんに「必要」なのは、サキと過ごす穏やかな時間だった。サキに与えられるもの、サキと過ごすことで心に生まれてくるもの。

 ころんがころんとして存在することに「必要」で意味のあるものは、それだけだった。


『ころんちゃんは学習大学付属学院の初等部に在籍しており、誘拐なども視野に入れて捜索されています』


「どうして世間体なんて気にするの? ……私を、捜したりするの? 私は邪魔なんてしなかったのに……邪魔なんて、して欲しくないのに」



××××



「……? ……ん……ろん……ころん」

「!?」

 軽く体が揺れる感覚と耳に飛び込んできた声に、ころんは驚いて目を瞬かせた。

「サキ……?」

 呼ばれていることでようやく“現在”に意識を戻したころんは、唐突とも思えるサキの存在に目を瞬かせていた。

「……何か、あったのかな? 声も届かないくらい固まっていたようだったけれど……」

 ころんの頬に触れるのは、仄かに暖かいサキの手のひら。眉を寄せてころんに視線を合わせていたサキは、困ったように息を吐いた。

「テレビが付いているし、洗濯物を取り込もうとしたのかな? それにしても……ずいぶんここに立っていたみたいだね。大分体が冷えている」

 心配そうなサキの表情を見て、ころんはやっと“自分”を取り戻した。足元にあった籠の中は空っぽ。握りしめていたはずの洗濯物も、全部ハンガーにかかって風に揺れていた。

 無意識のうちでも洗濯物を干し切ってしまっていたことに安堵したころんは、サキを見上げて呆然と呟いていた。

「……サキ……」

 呆然とサキを見上げて名前を口にしたころんに、サキは詰め襟の学生服姿のまま、ころんを見つめて首を傾げた。

「? ころん……?」

 意識的にか、無意識にか。ころんに判断することはできなかったけれど、サキに比べると小さな手で、ころんはサキにすがり付くかのようにしがみ付いた。

「サキ……」

 ギュッと、意思を込めてサキの制服の裾を握りしめる。サキ以外、何も感じなくていいように。サキ以外の全てを、まるで拒絶するかのように。

「……何か、あったのかな? ころん、大丈夫だよ」

「……サキ……」

 サキはそれが当たり前であるかのように、ころんの身長に合わせるかのように膝を付き、包み込むように抱きしめる。

 サキはころんと出会ってからずっと、大切なことを話すときや、ころんにとって大切で重要な時には、必ずころんと視線の高さを合わせてくれる。

 そんなサキの行動に心を温めながらも、ころんは涙の滲む目で視線を伏せたままサキの胸に頭を預けた。

「……サキ、ごめんなさい……」

「え……」

 唐突ともいえるころんの謝罪の言葉に、驚いたのはサキだった。

「ごめんなさい――わた」



――ピンポーン――



 息を整え、震える唇で告げようとした言葉は、インターホンの音で遮られて声になる前に呑み込まれていった。

「? ――誰だろう」

 訝しげに玄関の方へ向けられたサキの瞳を追うように、ころんもつられて玄関の方へ視線を向けていた。

 ころんを支えるように抱きしめていた腕を放して立ち上がる。サキの行動を邪魔しないように、ころんも名残惜しげにサキから手を放した。それでもころんは今まで起こらなかった「変化」に、サキの後ろについて一緒に玄関に向かった。


「――はい」


 玄関のノブに触れて、返事をしながら扉を開く――

「どちら」

「いた! ――加藤佐紀、未成年者略取誘拐罪で逮捕する」

 サキの言葉を遮るように、スーツ姿の男が扉を開いたサキの腕を拘束するように後ろ手に手錠をかけた。男の横にいたやはりスーツ姿の女性がころんを抱き寄せ、体に視線を走らせている。

「サキ……?」

 何が起こっているのかが理解できなくて、呆然とサキの名前を呟いたころんに視線を向けたサキは、どこか困ったように、それでも微笑んでみせた。

何もかもが、唐突だった。目の前で起きたことが理解できなかった。

けれどそうして、たった一週間のサキとの共同生活は“第三者”の登場によって幕を下ろした。


あなたといられたのはたった一週間。

あなたを知ってしまった私は、今までの孤独よりも、これから先の人生を孤独に生きるという現実が、何よりも怖ろしい。

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