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第2話 魔法のことば

 不意に、意識が浮上する。意識が水の中を漂うような、眠りから目覚める直前の一瞬を、ころんは何よりも愛していた。


「――ころん」


 涙が出るような愛おしさと、切なさ。上手く言葉に置き換えることはできない安堵感は、全てこの声の持ち主のものだった。

「おはよう、サキ」

「おはよう」

 乾いていた体にゆっくりと水が染み渡るように、ころんの心に当たり前のように存在するサキに、ころんは微笑みかけながら起き上がった。

 見慣れたサキの濃紺の学生服。淡い水色で統一された部屋。サキの声で目覚める毎日の光景に、ころんは何にも変えがたい安堵を感じていた。



××××



 サキとの生活は、ころんが慣れてみれば単調で、単純で、そして何より穏やかだった。



 手作りのプリンを食べながら、ころんは首を傾げた。

「? 美味しくなかった、かな」

 マグカップを手にしながらころんが食べている様子を楽しげに見ていたサキが、どこか困惑げに訊いた。

 サキの言葉に否定の意味で首を横に振ったころんは、口に入っていたものをごくりと飲み込むとサキを見上げた。

「不思議だな、って思った」

「不思議?」

「ん……誰かと一緒にご飯を食べるの。サキが作ったからかもしれないけど、美味しい」


ふにゃり


 表情を崩して微笑んだころんに、サキは安堵したように笑った。

「ころんに気に入ってもらえたなら、良かった」


 都心のマンション。サキのものだというその部屋は、サキが高校入学と同時に贈られたものだという。一家四、五人で住むことに何の不都合も無い広さのその部屋に住んでいるのは、サキだけだった。

 ころんが知っている「サキ」のパーソナルは、それだけだった。

 学生服を着ているから、学生だと思う。ころんとの共同生活を始めたサキは、毎朝出かける。帰ってくるのは夕方だった。

 サキの家族についても何も知らない。サキの部屋にはインターホンはあっても電話はなかった。携帯電話があるから必要ないのかもしれない。けれどサキが携帯に触れるのはメールが来たときだけだった。

 けれど、ころんにとってサキは、それだけで良かった。


 たった一人、サキだけのテリトリーに躊躇いも無くころんを連れてきて、衣食住を(さすがに掃除と洗濯はころんが労働力とはなっているものの)提供してくれて、嫌な顔一つせずに面倒を見てくれる――


 誰も知らない、サキと二人きりの生活。


 サキの部屋に迎え入れられてから、ころんはこの部屋から一歩も外に出てはいない。サキがそう強要したわけではない。ころんは、自分の意思でそうした。


 この場所はころんにとってはサキ以外とは触れ合わなくても良い、どこまでも心地よく優しい「檻」だった。



 サキがあまり話したくないようだったから、サキのパーソナルについてはころんは深く追求しなかった。けれどサキが嫌な顔をしなかったので、ころんは自分のことを思いつくままに言葉にしていた。


 一年前に死んだ、弱く優しく、ころんが大好きだった病弱な母親。母親が死んで一年しか経っていないのに妻を迎えた父親。驚愕すべきはころんとは二歳しか離れていない異母妹――


 ころんは今年、九歳になる。異母妹は七歳。つまり父は、母が生きているときからずっと義母と不倫をしていた。

 義母と異母妹と引き合わされた日。それは、母親が死んで葬儀が終わってから一週間しか経っていなかった。たった、一週間。

 その時にそれを、不倫と異母妹の存在を初めて知ったころんは、あまりの衝撃に母を喪った悲しみの涙どころか、感情まで飛び去った気分だった。


 父に裏切られたと思ったこと。


 嘘ではなかったのかもしれない。けれど、真実でもなかった退屈なほど平凡で幸福なころんの「家族」の姿。


 サキは特別、何も言わなかった。ただ、ころんの心に溜まっていた不満を黙って聞いてくれた。

 誰にもいえない不満を、気持ちを吐露させてくれるサキは、それまで頑なに自分の心を閉ざしてきたころんにとって、とても楽に息をさせてくれる存在だった。



「――水槽の、中」

 白いレースのカーテンが優しい風に揺られていた。落ち着いたブルーグレーのソファに腰掛けて、床に座ってローテーブルに向かっているサキの横顔を眺める。

 いつものようにテーブルに教科書や資料のコピーを広げながらレポートに書き込んでいたサキの横顔を見つめていたころんは、思わず声をこぼしていた。

「水槽?」

 レポート用紙に視線を向けていたサキは、静かな空間にこぼされたころんの言葉に反応して、首をかしげながらころんを見つめた。

「ここはとても居心地が良くて、まるで管理された水槽の中にいるみたい……サキが側にいてくれると、楽に呼吸いきができる」

「……そうか。それは、良かった」

 目を閉じながら微笑みさえ浮かべたころんに、サキは僅かに間を空けてから、優しく柔らかにそれに気がついていないころんに微笑を向けた。

「宮澤の家は私を傷つけるし、苦しめるけど、サキと出会えたことで私は救われた。サキが、私を助けてくれた」

 ゆっくりと瞳を開いたころんは、サキに向かって微笑んだ。その瞳に浮かぶのは、一片の揺らぎも無い「信頼」と安らぎ。

「サキが、私の世界を変えてくれた。私は、サキに出会うためにあの場所に……ううん、この世界に生まれてきたのかもしれない」

あの頃の私は、あなたの言葉にすがり付いただけのただの子供だった。

あなたが伸ばしてくれた手を取っただけ。

何もできない子供だった。


でもね、あなたに言ったあの言葉だけは、どんなに歳月が経っても変わることのない、唯一の絶対だった。

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