第1話 ガラス越しのゆりかご
無理やりではなくても「誘拐・監禁」ものなのでそういうのがダメな方はBACKでお願いします。
R指定のつもりだったのですが、うまくできませんでした。すみません。
茜色に染まる空を見上げながら“ころん”は鞄を背負いなおし、年齢に似合わない溜息を吐いた。
それでもエスカレーターに乗っている体は、ころんの気持ちなどお構い無しにころんの住むマンションに向かって進んでいた。
不意に、茜色の空を遮るかのようにころんの視界に入ったのは、新しく開発されたこの地区でもひときわ目立つ高層マンション。
マンションの玄関脇にあるタッチパネルで指紋認証を行い、さらに個人で決めた暗証番号を打ち込んでからスリットにカードを通し、網膜照合を行う。防犯のため、徹底的な管理を行っている昨今では特別珍しくないマンション。
そのマンションの一室に、ころんの家である宮澤(みやざわ)家があった。
高層マンションというだけあり、最上階にある宮澤家のベランダから見下ろす景色は美しかったが、ただそれだけだった。
外面はどこまでも幸福に見えたが、ころんが渇望していたものはその部屋には、その場所には存在してはいなかった。
「……」
マンションの玄関前でしばらくカードを手に持ちながらうつむいていたころんは、顔を上げてカードを鞄にしまうとくるりと体の向きを変え、マンションに背を向けて歩き出した。
「……お父様の、バカ」
誰にも聞き取れない程度の声音で呟くと、ころんは宮澤家のある方を睨み付けた。それで、何が変わるわけでもないということを知っているのに、それでもころんは睨み付けずにはいられなかった。
××××
深い青のグラデーション。
零れる空気の音を聞きながら、ころんは閉じていた目をゆっくりと開いた。暗いライトの光に照らされて反射する、どこまでも深い青。
目の前を通り過ぎた深海魚に手を伸ばし、冷たいガラスに阻まれてころんは僅かに眉尻を下げた。
水槽の中で空気が零れだす音だけが響き渡る青の世界で、ころんは冷たいガラスに触れながらそこに佇んでいた。
「魚、好きなの?」
唐突に、静寂の世界に入り込んできた音に、ころんは音の発生源に視線を向けた。
「ここ最近、毎日この夕方近くによく一人で来ているよね」
「……」
細い銀フレームの眼鏡をかけた学生服の青年の問いかけに、ころんはいぶかしみながらも首を縦に振ることで肯定した。
「あ、突然ごめんね……でもこっちのコーナーまで来る人なんていないから」
「そうね」
ポツリ、返した言葉は端的で冷たく、およそ幼いころんの外見には合ってはいなかったが、青年はどこか安堵したように微笑んだ。
近代的な水族館。平日の黄昏時。
水族館の奥まった場所。日が当たらない場所でしか生きることができない魚たちは、お世辞にも綺麗とは言いがたい。
深海魚を展示するこのスペースに、ころんと青年以外の人の姿は無かった。
「僕と同じようにいつも一人で、深海魚のスペースに来ているから……何を見ているのか聞いても良い?」
「別に……」
水槽に視線を戻して興味なさ気に呟いたころんは、毎日この場所で学生服姿の青年を視界の端に捉えていたことを思い出した。
「魚……」
「魚?」
消えそうな微かな声だったにも関わらず、首をかしげて問い返してきた青年にころんはくすり、と口元に微かな笑みを浮かべた。
「お魚、好きだから……」
ポツリ、と零した言葉に青年は特に何も言葉にせずに頷いた。しばらくの沈黙の後、ころんはゆっくりと口を開いた。
「ここ、他の場所より静か……それに、私にとても似ている」
「深海魚が?」
「……私と同じ」
「そっか」
言葉少なく返したころんに、青年も深くは訊ねずに相槌を打った。
ころんにとってその青年の反応が、その距離感が、驚くほど心地よかった。
しばらくの間、青年と話すことも無くぼんやりと深海魚を見つめていたころんは、不意に微かに響いた携帯電話のバイブレーションに不快感を露にした。
「出ないの?」
青年の言葉に促されるように携帯電話を取り出したころんは、ディスプレイに表示される名前を見つめて苦々しげな表情を浮かべた。
「いいの」
息を吐き出して表情を消したころんは、そのまま携帯電話の電源を落とすと鞄の奥底に放り込んだ。
「電話は、嫌いだから」
聞かれてもいないのに零した言葉は気まぐれか、それとも青年だったからか。関わりたくもない人間からかけられてきた電話で心を奪われていたころんは、無意識のうちに告げていた。
「そう。僕と同じだね。僕も電話は嫌いだよ」
そういって差し出された携帯電話は、サイレントモードに設定されていて、何件もの着信不在が表示されていた。
やわらかく微笑みながら告げる青年を見ていたころんは、青年の瞳をじっと見つめながら口を開いていた。
「お父様が再婚したの……新しいお義母様は、私にすごく遠慮している。妹は二歳年下で、半分だけ血の繋がりがある。私だけ、部外者……家にいるのが、これほど苦しいとは思わなかった」
ポツリ、泣き出すような直前の弱々しい声で、それでも吐露したころんの想いに、苦しみに、青年は膝を付いてころんと視線を合わせ、その頬に優しく触れた。
「……家にいるのが苦痛なら、僕の家へ来る?」
「え……?」
ただ躊躇っているのか、どことなく困惑気味に告げた青年の言葉に、ころんは目を瞬かせて目の前にある青年の瞳を見つめていた。
ころんが見つめた青年の漆黒の瞳は、水槽の青が反射して揺らめき、ひどく澄み渡っているように思えた。そこに一片の嘘も、厭らしさも存在しない。
だから、だろうか――
「連れて、いってくれるの?」
「え」
「連れて行って」
ころんは頬に触れている青年の手に自分の手を重ねて、青年に縋りつくように学生服を握り締めた。
「連れて行って。解き放って、あの場所から」
「……うん。いいよ」
青年の手に添えた手を握られて、青年は立ち上がってころんに微笑んだ。
「私はころん。宮澤ころん……お兄さんは、なんて呼べばいい?」
「サキ――加藤佐紀だよ」
何も知らない私を受け入れてくれたのは、あなただけだった。
ありのままの私を受け入れてくれたのは、あなただけだった。
私を子ども扱いしない、唯一の人。
どれだけ時間が経っても、あなたと過ごした日々は私の心に今もまだ根付いている。
例えほかの何を忘れたとしても、あなたと過ごした日々だけは絶対に忘れない。