御神木の下の三賢者と、迷子の少女
秋の陽が、西に傾き始めていた。
古びた石段を登りきった先にある小さな神社。その境内は、この時間になると黄金色の光に包まれる。
樹齢数百年と言われる大楠の御神木。その根本の太く盛り上がった根の上に、奇妙なトリオがいた。
一人は、神社の管理をしている老人、源造。八十を超えて背中は丸くなったが、眼差しは穏やかだ。
一匹は、三毛猫のタマ。人間で言えば百歳に近い老猫で、今は源造の膝の上で液体のようにとろけている。
そして一羽は、灰色と紫の羽毛が少し色褪せた、年老いた鳩のポッポ。飛ぶよりも歩くのを好み、源造の足元でコツコツと地面をつついている。
三人(正確には一人と二匹)合わせて、二百歳は優に超えるだろうか。彼らはこの神社の「主」であり、同時に動くことのない風景の一部でもあった。
そこへ、じゃり、じゃりと、重たい足音が近づいてきた。
「……ふぅ」
現れたのは、制服姿の女子高生だった。
肩に食い込むような重そうな鞄。スカートの裾は少し乱れ、うつむいた顔は長い前髪に隠れて表情が見えない。彼女は手水舎を使うことも、賽銭箱に立ち寄ることもしなかった。
ふらふらと吸い寄せられるように御神木の前まで来ると、彼女はその場にドサリと座り込んだ。
源造たちのすぐ近くだが、彼女の目には彼らの姿が映っていないようだった。ただ、自分の足元の砂利を見つめている。
ポタリ、と砂利に黒い染みができた。一つ、また一つ。
源造は、膝の上のタマを撫でる手を止めた。
タマが「んあ?」と小さく鳴き、薄目を開ける。
足元のポッポも、動きを止めて小首をかしげた。
三つの「老い」の視線が、静かに少女に注がれる。
「……お嬢さん」
源造が声をかけた。風が木の葉を揺らすような、枯れた優しい声だった。
少女の肩がビクリと震えた。慌てて袖で顔を拭い、顔を上げる。目は赤く腫れていた。
「あ、すみません……邪魔でしたか」
「いやいや。ここは誰の場所でもない。神様の庭だからな」
源造は微笑むと、懐からキャラメルの包みを取り出した。
「糖分は、涙の代わりになるよ。一つ、どうだい」
少女は躊躇したが、源造のあまりに無害な笑顔と、その膝の上で豪快にあくびをしたタマの気の抜けように、少しだけ警戒を解いたようだった。
おずおずとキャラメルを受け取り、口に入れる。
「……甘いです」
「そうだろう。甘いものは、偉大だ」
しばらくの間、沈黙が流れた。聞こえるのは風の音と、ポッポが羽を繕う音だけ。
その静寂が居心地よかったのか、少女がぽつりと口を開いた。
「……もう、全部嫌になっちゃって」
それは独り言のような呟きだった。
「部活も、勉強も、友達関係も。頑張ってるつもりなのに空回りして。今日、先生に『お前ならもっとできると思ってた』って言われて……プツンって、何かが切れちゃって」
少女は膝を抱えた。
「私、何のために頑張ってるのか分からなくなっちゃったんです。このまま消えちゃいたいなって」
重い言葉だった。
しかし、源造は驚きもせず、説教もしなかった。ただ、足元の鳩を指差した。
「あそこにいるポッポな、もう目も悪いし、翼も痛めてるんだ。他の若い鳩みたいに高く飛べないし、餌取り競争にも勝てん」
少女が視線を落とす。ポッポは、よろよろと歩きながら、小さな木の実を一生懸命ついばんでいた。
「そして、このタマ婆さんだ。もうネズミ一匹捕まえられん。一日中寝てばかりで、わしの膝を湯たんぽ代わりにしておる」
タマは名前を呼ばれたのが分かったのか、少女の方へのそりと移動すると、その頬を尻尾でペシりと撫でた。
「……ふふ」
少女が小さく笑った。
「でもな、お嬢さん」
源造は御神木の幹に背中を預け、空を見上げた。
「こいつらは『消えたい』なんて思ってないよ。今日もいい陽気だ、風が気持ちいい、飯がうまい。それだけで満点だと思っとる」
「……満点?」
「そうさ。生きているだけで、今日もここにいるだけで、満点だ。誰かの期待に応えられなくても、高く飛べなくても、日向ぼっこはできる」
源造の言葉に、タマが同意するように「にゃあ」と低く鳴いた。ポッポもクルックーと喉を鳴らす。
「わしもな、昔は色々あった。でも今は、こうしてこいつらと風に吹かれている時間が、一番幸せだ。……若い時は『もっとできる』と自分を追い込むものだが、時には『今日はこれでよし』と自分を許してやっても、バチは当たらんよ」
自分を許す。
その言葉が、少女の中で張り詰めていた糸を、ぷつん、ではなく、ふわりと緩めたようだった。
タマが少女の膝に乗り移った。重たくて、温かい。その体温が、制服越しに冷え切った心に染み渡っていく。
少女はタマの背中に顔を埋めた。
「……あったかい」
「猫はな、悲しみを吸い取るスポンジみたいなもんじゃよ」
少女はしばらくそのまま動かなかった。時折、鼻をすする音が聞こえたが、最初の絶望的な響きはもうなかった。
やがて、境内に夕方のチャイムが遠く響いた。
少女は顔を上げ、タマを丁寧に源造の膝に戻した。その瞳には、夕焼けの光が宿っていた。
「おじいさん、猫さん、鳩さん。……ありがとうございました」
立ち上がった彼女は、スカートの砂を払い、深々と頭を下げた。
「私、帰ります。お腹が空いてきちゃった」
「それがいい。飯を食えば、元気が出る」
少女は鞄を持ち直した。来た時よりも、その背中は幾分軽く見えた。
石段を降りる手前で、彼女は一度だけ振り返り、大きく手を振った。
「また、来てもいいですか?」
「いつでもおいで。ここは暇人ばかりだからな」
少女が駆け下りていく足音が、軽快なリズムを刻んで遠ざかっていく。
あとには再び、静寂が戻った。
太陽が沈みかけ、影が長くなる。
「さて、わしらも帰るとするか」
源造が呟くと、タマが大きく伸びをし、ポッポがバサリと低い枝に飛び乗った。
御神木が、ざわざわと葉を揺らして彼らを見守っている。
明日もきっと、良い日になる。
三人の老賢者たちは、そんな確信と共に、ゆっくりと家路につくのだった。




