第三話:狐の約束
茶屋の奥には、誰も入ってはいけない部屋がある。
灯だけが鍵を持ち、そこには古い巻物と、ひとつの面がしまわれている。
その夜、灯は夢を見た。
――赤い鳥居の並ぶ山道。
――白い毛並みの狐が、彼女の前に立っていた。
「お前は人でも、狐でもない。だからこそ、灯をともせる。」
それは、灯が幼い頃に交わした“約束”だった。
狐は、彼女に言った。
「悲しみを飲み込む者には、火を。迷いを抱える者には、茶を。
だが、決して自分の心を茶にしてはならぬ。」
灯はその言葉を胸に、茶屋を守ってきた。
しかし、最近――彼女の茶に、微かな“揺らぎ”が生まれていた。
夢見茶を淹れると、自分の記憶が混ざる。
忘却茶を淹れると、自分の痛みが滲む。
その夜、茶屋に現れたのは、狐面をつけた男だった。
「久しいな、灯。約束を、忘れてはおらぬか?」
灯は、静かに言った。
「忘れていません。でも、私は――自分の心も、灯したいと思うようになりました。」
男は面を外した。そこには、かつて灯に“約束”を授けた白狐の姿があった。
「それは、禁忌だ。お前が茶に自分を注げば、茶屋は崩れる。」
灯は、囲炉裏の火を見つめながら答えた。
「それでも、私は人の悲しみに寄り添いたい。自分の痛みを知っているからこそ、誰かを救える気がするんです。」
白狐は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「ならば、もう一つの約束を授けよう。
“灯が消えそうなときは、誰かが火を継ぐ”――それが、茶屋の新しい掟だ。」
灯は、深く頭を下げた。
その瞬間、茶屋の提灯がふわりと揺れ、火が強く灯った。
狐火の茶屋は、またひとつ、秘密を抱えながら夜を越えていく。




