第一話:灯(ともり)と忘却茶
東京23区の外れ、地図にも載っていない路地の奥。夕暮れになると、赤い提灯がふわりと灯り、そこに茶屋が現れる。
「狐火の茶屋」――それは、心に火を灯すための場所。
店主は、灯という少女。人間と妖怪の間に生まれた彼女は、感情を茶に込める力を持っていた。
耳を隠すように髪を垂らし、静かな瞳で客を迎える。
その日、茶屋に現れたのは、スーツ姿の若い男性だった。
目の下に深いクマ、手には折れた万年筆。名前は「佐久間」。
「……忘れたいことがあるんです。できれば、全部。」
灯は黙って頷き、棚から一つの茶葉を取り出した。
それは“忘却茶”――記憶を薄める力を持つ、特別な茶。
囲炉裏の火が揺れる中、灯は茶を淹れながら静かに言った。
「忘れることは、楽になること。でも、失うことでもあります。よろしいですか?」
佐久間は、少しだけ笑った。
「失ってもいいんです。あの人のことを思い出すたびに、胸が痛くなるから。」
灯は茶碗を差し出した。湯気は、どこか懐かしい香りがした。
佐久間は一口飲み、目を閉じた。
――その瞬間、彼の記憶の中に、ある風景が広がった。
雨の日の駅。傘を差し出してくれた女性。
「ありがとう」と言えなかった後悔。
涙が一筋、頬を伝った。
「……忘れたくないことも、あったみたいです。」
灯は、静かに微笑んだ。
「忘却茶は、すべてを消すわけではありません。心が選んだものだけが、残ります。」
佐久間は、茶碗を見つめながら呟いた。
「ありがとう。少しだけ、呼吸がしやすくなった気がします。」
灯は、茶碗を受け取り、そっと言った。
「また、灯しに来てください。あなたの心の火が消えそうなときに。」
佐久間は深く頭を下げ、茶屋を後にした。
外に出ると、提灯の灯りは消えていた。
狐火の茶屋は、また静かに、夕闇に溶けていった。




