5 第一夫人の決意
ジェシカが帰宅してしばらくすると、ブルーエ辺境伯家から連絡が入った。
明日、迎え馬車を寄越すという。
今日、辺境伯子息との顔合わせが出来なかった事については、一言も触れていない。 もちろん、説明も詫びもない。
(まぁ、いいか)
基本、自分に害が無いのなら、ジェシカにとってはどうでもいい事だ。
その日の夜、ジェシカの母親である第一夫人の体調が急変した。
熱にうなされながら夫人は、今後の事を心配していた。
侯爵が「そろそろノアを紹介していこうと思う」と、言い出したのだ。
ノアは第二夫人の長男で、もちろん侯爵の嫡男にあたる。
そして、ジェシカの1つ下の年齢………。
(とうとう、その時が来たか………)
第二夫人は第一夫人に遠慮して、公の場には顔を出していなかった。
彼女自身はとても奥ゆかしく、第一夫人は彼女に好感さえ持っていた。
だが、今後、自分たちの関係は、少しずつ変わっていくだろう。と、第一夫人は感じていた。
今までも、病弱で公の場を欠席しがちな第一夫人に変わって、第二夫人の彼女が参加する事があった。
それが頻繁になれば、回りが彼女を見る目も、変化するだろう。
第二夫人の彼女が、侯爵夫人として認識されるようになるかもしれない。
熱に浮かれている頭で考えているせいか、第一夫人は、悪い事ばかりが思い浮かぶ。
(もう、ジェシカを庇いきれなくなるかもしれない)
ジェシカの傲慢な態度は、時に本邸の使用人たちを怒らせた。 彼らの不満の元になっていた。
それらの不満を、なんとか上手く収めていたのだが、それももう、出来なくなるだろう。
それが、彼女の、第一夫人の不安の種だった。
第一夫人は、覚悟を決めた。
もう、自分が采配を振れる時間は、長くないかもしれない。
その前に、なんとかトラブルメーカーのジェシカの心根を正したい。
そう考えた夫人は震える声で、ジェシカを呼ぶよう侍女に伝えた。
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ジェシカが夫人の寝室に入ると、薬品の匂いがツンと鼻に付いた。
薄暗い室内の、天蓋の向こうに母がいる事に気が付いたジェシカは、その近くにある椅子に腰掛けた。
寝台で軽く身体を起こしている夫人は、弱々しい声でジェシカの名前呼んでから、意を決したように話し始めた………。
「あなたは自分勝手すぎる」
「少しは我慢を覚えなさい」
「回りの人たちが、あなたの振る舞いをどう思うか、を考えて行動なさい。 自分がされて不快に思う言動をしてはいけません」
矢継ぎ早に繰り出される母の話に、ジェシカはキョトンとする。 いきなり何を言い出すのか。
それに、彼女の言っている意味がわからない。
「あれは嫌、これは嫌い。違うものを持ってきなさい。 やっぱり、さっきのにして。 あなたは回りを振り回しています」
ジェシカは、母の顔を無表情に見つめる。
嫌なものを嫌と言って、何が悪い。 なぜ、私が我慢をしないといけないのか。
なぜ今、そんな事を言い出すのか。 今まで何も言わなかったのに。
ジェシカは不思議で仕方がない。
(そうだわ。また、婚約話が流れると思って妙な心配をしているんだわ)と、ジェシカは考えた。
「お母様、心配しないで。今度の相手にはちゃんと、猫をかぶるから」
「そういう問題じゃないのよ………」
夫人は頭を抱え、溜息をつく。
「あなたは何もわかっていない。 あなたに友人はいるの? そろそろ真面目に社交にも取り組みなさい」
「社交なら大丈夫よ。 義妹の茶会に出たけど、問題なかったと思うわ」
夫人は、こめかみを細い指先で押さえ、眉間に皺を寄せる。
「別棟の使用人が、あなたが義妹にグラスを投げつけた。と、苦言を言いに来たわ」
「そんな事はしてないわっ!」
「本邸の使用人たちの中にも、その話を信じる者がいたわ。 普段のあなたの行動からして、グラスを投げそうだもの」
「………」
ジェシカは黙りこむ。
「分からないの? 普段の行動を改めない限り、悪い噂が独り歩きをしている限り………、どんなに猫をかぶったとしても、直ぐ相手に解ってしまうでしょう。 最低でも、本邸の使用人たちの信頼を得る努力をしなさい。 さもないと、防御専門の魔法使いとして従事する未来しかないわ。 あなたには」
尚もジェシカは黙り込む。
彼女の心には、どの一言も響いていない事を察した夫人は、長めの溜息をつく。
胃痛も出てきたのか、前かがみになりお腹をさすりだす。
夫人の想像通り、ジェシカには何一つ伝わっていなかった。
どちらかというと、本邸の使用人に対しての怒りが湧いていた。
使用人の分際で、私を侮辱するなんて。 そう、考えていた。
「ジェシカ。 あなた、今回の紹介話は上手くいく。って言ったわよね」
「―――はい」
憮然とした表情で、ボソリとジェシカは言う。
「あちらの家に入った時、あなたはどうするの?」
再びジェシカはポカンとする。
「誰も味方の居ないあちらの家で、誰があなたを気にかけてくれる?」
「侍女を連れて行くわ」
「その侍女は、あなたを敬愛している? ただ、怯えてかしずいてるだけでしょ?」
夫人が激しく咳き込んだ。
直ぐさま、夫人付きの侍女が駆け寄り彼女の背を擦る。
「ジェシカ様。 申し訳ありませんが、奥様にお休み頂きたく思います。 今日は、もう………」
「もう、何? 使用人の分際で、私に指示するの?」
「ジェシカ。 こういう事よ。 あなたを思って叱責を受ける覚悟を持つ侍女が、あなたの側にいますか? あなたを守る覚悟のある者が」
「奥様………」
「なによっ! 侍女なんて言う事を聞いていればいいのよ。 私は、誰の指示も聞かないわっ!」
(もう何を言っても無駄だわ)と悟った夫人は、荒治療をすることを決意した………。
「ジェシカ。 あなたは、常に『私は完璧な令嬢』だと言ってたわよね」
「―――えぇ、そうね」
不穏な空気を感じたジェシカは、少し控えめな返事をした。
「それなら、私の代理として『ガーデンパーティー』に参加して欲しいのだけど。 もう、出席の返信をしてしまったので、困っているのよ」
「嫌よ。いつものように、第二夫人に頼めばいいじゃない」
「あら………」
夫人はジェシカのプライドを揺さぶる。
「社交は問題ない。と、言ったばかりよね?」
「………」
確かに言った。ジェシカは言い訳を考える。
「無理よ。パートナーがいないわ」
母が参加するならば、パートナーは父親なのだろうが、ここは一か八かだ。
「明日、彼に会うのでしょ? お願いしてみたら?」
「………」
「猫を被るから、大丈夫なのでしょ?」
「………」
「まさか、自信がないのかしら?」
「そんな事ないわっ! 手違いがあって、まだ、お会いしていないのよっ!」
「まぁ………」
第一夫人であるジェシカの母は、心の中でほくそ笑む。
「じゃぁ、明日いらした時に、私からお願いしてみましょう」
ジェシカは何も言えなかった。
「フフッ、ジェシカまた明日ね」
笑いながら夫人はジェシカに背を向け、光沢のある掛け布団を頭までかぶってしまった。
体力、気力の限界だったのだろう。 大きく布団が上下していた。 苦しそうだ。
ジェシカは不満げに立ち上がり、お見舞いの言葉を残し、夫人の侍女に誘導されるままに彼女の寝室を後にした。
(………なんとかなるだろう)
月明かりに照らされる薄暗い廊下を歩きながら、ジェシカは考えるのを止めた。
ブルーエ辺境伯の三男に断られた所で、父親の侯爵と参加すればいいだけの事だ。
そう思い直すと、ジェシカは気が楽になった。