34 波紋
母の身体を拭き終わり着替えも終え、満足気なジェシカには、なんとなく母の顔色が良くなっている様に見えてきた。
そんな事はあるはずがないのだが、微笑んでいる様にも見えてくる。
「ありがとう。 二人とも………」
ジェシカには珍しく、感謝の気持ちを表していた。
少し驚いた洗濯メイドだったが、頭を下げイソイソと自分の仕事に戻っていった。
ホッと一息ついたところで、ジェシカは本来の目的を思い出した。
真夏の夜会様に、母のアクセサリーを借りる為に、訪室したのだった。
リヴと衣装部屋に入り、小物の棚を見てみるが、あれ程あった宝石類が、数える程しかない。
母の寝室のサイドテーブルかとも思い、見てみるが、そこにもない。
嫌な予感がするが、それを口にするのは憚られた。
『おいっ、母様が目を開けたぞ!』
ジェシカの頭に、母の傍らで横になっていたカロンの声が聞こえてきた。
もちろん、リヴには聞こえない。
急に引き返すジェシカの後を、リヴは急いで追いかけた。
「お母様?」
「―――ジェシカ」
ベットサイドで母の手を握り、声をかけるジェシカに、母は力なく微笑む。
「あなた、夜会に着けていくアクセサリーを探しているですって?」
「えっ………!? なんで、知っているのですか?」
フフフッと細やかに笑う母は、チラリとカロンを見やった。
『企業秘密だ』
フンッとでも言うように、カロンはそっぽを向く。
「まったく、人が寝ていると思って好き勝手やってくれちゃって………。 でも、貴女の探しているものは………」と言いながら、寝室の壁にかかる母は一枚の絵を見つめた。
違和感を感じながらもジェシカは立ち上がり、その絵に近付いた。
湖の絵だった。 森の中なのだろうか、木々に囲まれていた。
額に手を掛け浮かせてみると、壁に裏に埋め込まれた、不思議な紋様が彫られた小さな扉を見つけた。
何の考えもなしに、ジェシカが扉に手をかけると、その扉がぼんやりと光出した。
「お母様………これ」と言ってる間に、ゆっくりと扉が開き、中にアクセサリーが入っていると一目でわかる、幾つかのビロードのケースが目に映る。
「それはね、実家の魔法使いに作ってもらった仕掛けで、私の血縁にしか反応しないようになっているの。 あなたに残したいものは全て、そこに入っているわ………」
ジェシカはビロードのケースを取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。と、記憶の中の母が着けていたネックレスのセットだった。
母とジェシカの瞳の色、漆黒のブラックダイヤモンド。 所々に大粒のダイヤも組み込まれて、色味の割にはゴージャスに見えていた。
「その奥の小箱に鍵が入っているのだけど、ムルテにある私名義の別邸の物よ。 それと、大切な物は、その扉の中に閉まっておきなさい。 理由は言えないけど、その内にわかるわ………」
そう言い終えると、母は再び穏やかな寝息を立て始めた。
「リヴ。『ムルテの別邸』が何処にあるのか調べて。 それと、今日中に父に面会の予定を入れて。 この状況は看過できないわ。 それとカロン。 悪いんだけど、お母様をお願いできるかしら」
ジェシカは取り出した『別邸の鍵』を元に戻しながらカロンに頼んだ。
見た目の怖いカロンが母の部屋にいれば、これ以上、母の私物を荒らされる事はないだろう。
カロンは了承したようで、再び、母の隣にゴロンと横たわった。
******
―――夕刻、父であるブルムスト侯爵の執務室に、ジェシカは呼ばれた。
夕暮れの陽射しのせいか、侯爵の顔色がくすんで見えた。
ぼんやりした様子の侯爵は、虚ろな瞳をジェシカに向ける。
「どうした。 何かあったか?」
その声に覇気はなく、疲れがみえた。
そのくせに、どこか落ち着きがなくソワソワしている。視線が揺れる。
ジェシカは話した。できるだけ感情的にならないように、事実のみを淡々と。
母アンネの専属侍女の姿がないこと、お世話をされている様子がないこと、母のドレスやアクセサリーがなくなっていること………。
「それは、リリベルの指示だ」
抑揚のない声で、当たり前の事のように、侯爵は言う。
が、ジェシカにはわからない。 リリベルが分からない。別棟の侍女長の名前だろうか。
いや、当主がわざわざ侍女長の名前を呼ぶはずがない。
「リリベルって?」
「あぁ、そうか………。 第二夫人だ」
ジェシカは衝撃を受けた。 彼女の名前を初めて知った。
なぜなら、今まで侯爵は、ジェシカの前ではずっと第二夫人と呼んでいた。 母アンネへの気遣いだったのだろう。
それが、今、崩れた。
ジェシカは言いようの無い不安に襲われた。
父はもう、母を見限ったという事なのだろうか。
言葉の出ないジェシカに、侯爵が追い討ちを掛ける。
「アンネがこういう状態なので、リリベルが代理で侯爵夫人の仕事をしているのだが………、なにせ慣れない仕事なので、勝手を知っているアンネの侍女が、その手伝いをしているんだ。 だから、今、アンネの側に侍女はいない」
当たり前の事の様に侯爵は言う。
だが、ジェシカにとっては許せない事だった。
「だからといって、お母様の身の回りのことをやらないってのは、おかしいです。 カーテンも開いていないし、着替えだって………」
「でも、アンネは寝たままだろ? もう、長い間」
「長い間って………、専属侍女がいない理由は分かりますが、誰一人、お母様のお世話をしないのは、おかしいです」
「だから、ずっと寝ているのに、何の世話をするんだ? それなら、次期侯爵夫人の侍女としての仕事を覚えた方が合理的じゃないか?」
「でも、お母様は………」
涙ぐみながら異を唱えるジェシカに、侯爵はトドメを刺す。
「だったらジェシカ。 なぜ、お前が指示しなかった? 本邸の業務が滞っていたのに何もしなかったお前に責任があると思わないか? 来客の接待、ブルガリス領の慈善事業、食事や衣類などの生活必需品の管理決済、それに、使用人の給与の支払い………。数えればきりが無い。それを、この数週間、誰がしていたと?」
ジェシカは反論できない。
何も知らず考えず、ただ、自分の事だけを考えていた。 そもそも、本邸の仕事なんて、侯爵夫人の役割なんて考えた事もない。
「見かねたリリベルとアンネの侍女が、私に相談し私が決定した。 本来ならジェシカ、お前が気付き相談にくるべきではなかったか? 頻繁にアンネを見舞っていたのだろう? 本邸の業務が
滞る事は、明らかだったのではないか?」
ぐうの音も出ないジェシカは黙り込む。 が、思い出した。とても、大切な事を。
「でっ、では、お母様のアクセサリーやドレスが減っている事は?」
あえて減っている。と伝えた。無くなっている、ではなく。 ジェシカの細やかな心遣いだ。
「あぁ、それは侯爵夫人の品位保持の為に購入したもので、アンネの物ではない。という、解釈だが?」
―――ダメだ。 父に何を言ってもダメだ。
ジェシカは悟った。
お母様は、もう侯爵夫人として、認められていないのだ。―――と。
執務室に入ってきた時の勢いは何処へやら。 消え入るような足取りで、トボトボと出ていったジェシカを見送ったブルムスト家の執事は、何とも言えない気持ちになる。
やっと社交を始めたばかりで、忙しく過ごしていたジェシカに、家政の事まで気を回す余裕があるはずもない。
それは、侯爵も重々承知していた。はずだ。
家政が滞る事が分かっていたので、執事と侍女長が適時、対応していた。
なんの問題も起きていなかったのだ。
それなのに、第二夫人と第一夫人付きの侍女が最もらしい理由をつけて、ブルムスト侯爵夫人の仕事を引き継いでしまったのだ。
そして、それを許してしまう侯爵の弱さがを見た………。




