32 マヤの事情
ジェシカが大急ぎで私室に戻ると、応接セットの横にマヤが不貞腐れて立っていた。
その態度もどうかと思ったジェシカだったが、マヤに座るよう促した。
「それで、体調はどうなの? 休みがちだと聞いていたけど」
それとなくジェシカは話題をふる。
「………」
マヤは俯いたまま、何も話さない。 リヴがそっと促すが、それにも応えない。
「ねぇ、マヤに聞きたいんだけど、私が、ブルーエ家との婚姻を嫌がっているって噂を流したのはあなた?」
ジェシカは単刀直入に尋ねた。回りくどいのは苦手だった。
そっぽを向いていたマヤが、キッとジェシカを睨みつける。
「えぇ、そうですよ。 謹慎している間に腹ペコ亭で散々言ってやりましたよ。 それなのに、何も変わらないし、お嬢様は懲りずに、騎士団に通っているし。 仕方がないから直接言いに行きました」
「何を言ったの?」
ジェシカは怒りを抑え、努めて冷静に尋ねた。 リヴは驚いているのか、紅茶を注ぐ手が止まっていた。
「お嬢様を解放してあげてください。 魔法も使えないのに可哀想ですって。私を囮にして結構ですからって」
何かに取り憑かれたかのように、高らかに笑うマヤには、恐怖すら感じる。
「どうして、そんな事を………」
思わず口を出してしまったリヴに、マヤは言い放つ。
「だって、みんなで責めたじゃない。私を。なんで、お嬢様を止めなかったんだって!」
急に泣き始めたマヤに、ジェシカはどうして良いのか分からなくなった。 それに、話がつながらない。
「私はお嬢様をお止めしました。それなのに、行くと言い張ったのはお嬢様です。それなのに、その責めを負わされて、一ヶ月もの間謹慎させられて………、おかしくないですか? 私はちゃんとお嬢様をお止めしたのにっ!」
ジェシカはハッと息を呑む。目の前が真っ暗になる。
(私のせいだわ。夕刻に『ブルーエ家に行く』と言ったあの時の事だわ。私が暴徒に襲われた、あの日だわ)
ジェシカはようやく合点がいったが、納得いかないマヤは泣き叫ぶ。
「お嬢様はいいですよ。結婚してこの家から出ていけるんだから。でも、私はどうです? お嬢様を諌める事が出来なかった侍女。お嬢様を危険な目に合わせた侍女として、ずっと、そう言われ続けるんです。 マリベル様も、そう言ってます。だったら、お嬢様が結婚できないように、この家から出られないようにしてやろうって思っても、仕方ないじゃないですか。」
―――マリベル。ここにきて、またマリベルだ。 いったい彼女は何を企んでいるのだろうか。
ジェシカはゾクリとする。
「私が婚家にマヤを連れて行かないって、いつ言った? 私はマヤとリヴを連れて行くつもりだったけど」
「母が言ってました。 マリベル様も。 謹慎を受けるような侍女を婚家に連れて行くわけが無いって」
ジェシカはもう我慢の限界だった。 なんと勝手な理論だろうか。
自分に尋ねる事もなく、マリベルの口車に乗って他家にまで迷惑をかけて。
(一言、私に尋ねれば良いものの)
しかし、我儘を通してブルーエ家に行ったのは、確かにジェシカ自身だ。
マヤをこんなに思い詰めさせ、こんな状態に陥れたのは、紛れもなくジェシカ自身なのだ。
自分の身勝手な行動が、マヤの人生を狂わせたのだ。
その事にジェシカは恐怖を感じていた。
と、同時にマヤの言葉が、思いが、鋭く尖ったナイフの様に、ジェシカの胸に突き刺さった。 二度と抜けないトゲのように深く深く………。
*******
ブルムスト家の別棟に、マリベルの笑い声が響き渡った。
「こんなに上手くいくなんて」
マリベルは可笑しくて仕方がない。 自分の思い通りに事が進んでいく。
ジェシカの専属侍女マヤが、専属を外され、ただの使用人になった。 ジェシカの味方が一人減った。
信用して命まで預けた、部屋付きの侍女が裏切ったのだ。 お義姉様の落胆ぶりといったら、ないだろう。
「だから、お義姉様は、お家で引きこもっていた方がいいのよ」
義姉を悪者にする事で、自分の立ち位置を上げてきたマリベルにとって、社交を始める義姉は邪魔でしかない。
自室の中央付近でクルクルと回り、天井に手のひらを向ける。
「もう少し、もう少しで全て、手に入るの」
グッと宙を掴んだマリベルは、またクスクスと笑い出す。
聖女候補となったマリベルは、三年間婚約者を決める事が出来なくなったが、それも楽しみが増えた代償と思えば苦でもない。と思っていた。
「後三年間は『お可哀想な、お義姉様』が見られるのね」
マリベルは、笑いが止まらなかった。
―――物心ついた頃から、マリベルはいつも影の存在だった。
『向こうの人たちの前に出てはいけません』
そう、教えられていた。
外に出た時はいつも、父の隣には見知らぬ女性。 そして、歳の近そうな女の子がいた。
彼らが『向こうの人たち』だと教えられた。
マリベルは、その女の子と遊びたかった。
ある日マリベルは、その女の子が住むと聞いた『むこうの家』に行ってみた。
父も住むその家に、まさか自分が立ち入る事が出来ないとは知らなかった。
別の日にマリベルは、父に抱かれるその女の子に駆け寄ろうとした。 自分も抱き上げて欲しい。と、考えて。 一緒に遊びたい。と、伝えたくて。
ところがマリベルは、側に控えていた使用人に行く手を阻まれてしまった。
泣き叫び暴れるマリベルを、使用人が抱きかかえ連れ去ろうとしていた、まさにその時、マリベルは父と目があった気がした。
しかし、父は目を伏せた。 マリベルを見なかったかのように。
マリベルの時が止まった。
伸ばした手は動きを止め、叫び声を上げていた喉は閉じた。
そして、女の子への執着は憎しみへと変化していった。
「あの子さえいなければ」
しかし、マリベルに出来る事はなかった。
ブルムスト侯爵の手を取る事は出来なくとも、ブルガリス家の令嬢としての教育は受けさせられた。
マリベルは不服だった。 ブルムスト侯爵令嬢として紹介されるのは義姉だけで、自分はブルガリス家の令嬢として紹介される。 同じブルムスト侯爵の娘なのに。 母親が違うだけで。
(何のために、こんな厳しい作法を叩き込まれるのか)
ところが、そんなマリベルに転機がやってきた。
王立学園に通い始めてから知り合った令嬢たちが、マリベルを『可哀想』と言ってくれるのだ。
『あんなワガママなジェシカ様より、マリベル様の方がブルガリス家に相応しい』と。
マリベルは考えた。 確かに、あの女の子は使用人たちに、ワガママだと言われていた。
でも、マリベルもワガママだ。と、言われているのだが、それは今、関係ない。
「そう言えば、この間侍女たちが大慌てしていたわ。 お義姉様が、アルベルト様とのお出かけ前に、急に『ドレスの色が気に入らない』って言い出して………」
「やだ。ひどいわね。せっかく用意してくれたものを………」
マリベルの話を聞いていた令嬢たちがみな、ジェシカの悪口を言い始めた。
マリベルにとって、初めての出来事だった。
みんながマリベルを見てくれる。マリベルの話を聞いてくれる。
マリベルが優越感を感じている時、一人の令嬢がボソリと口にした。
「ジェシカ様より、マリベル様の方がアルベルト様の婚約者に相応しいんじゃないかしら………」
その言葉がきっかけなのかどうか、それ以来マリベルは変わった。
時に嘘を交えながら、ジェシカの悪評を流し始めたのだ。




