11 危機一髪
マヤの背中を見送ったジェシカは、耳を澄まし馬車の音を探した。
はるか遠くで、蹄の音がする。
(時間がないわ)
落ち着いて自分の姿を月明かりで見てみると、まだまだ目立つ。
白いシルクのアンダードレスが、暗闇に浮かび上がっていた。
ジェシカは急いで地べたにゴロゴロと寝転がり、 身体中に土をなすりつけた。
草原の青臭い匂いが、鼻腔に広がる。
(侯爵令嬢がこんなドロだらけなんて)と、ジェシカの口元が緩む。
(さて、どちらに逃げようか………)
キョロキョロと辺りを見回すが、どちらを向いても草原しか無く、身を隠す場所もなさそうだ。
そうとなれば………
(マヤとは逆の方だわね)
ジェシカは、草を掻き分け走り出す。
少し泥濘んだ地面に靴がめり込み、派手に転んだジェシカは靴を投げ捨てた。 身体中に痛みを感じながら、必死に脚を動かした。
何度も何度も転びながら、必死に走る。 マヤが助けを連れて戻るを信じて。
―――その頃マヤは、貴族街に続く門の近くで身を隠していた。
その門の辺りでは、松明が忙しげに行き交っている。
(たぶん、衛兵なのだろう)と、マヤはふんでいたが、念には念を入れ彼らの会話を盗み聞こうと、目を閉じ耳を澄ませていた。
だが、気持ちは焦る。早くお嬢様の元に駆けつけたい、と。
「………ブル………戻って………らしい」
「………馬車…………走り………」
「黒狼…………探し………」
(黒狼? 辺境伯家だわ!)
嬉しさのあまり何も考えず、マヤは彼らの前に飛び出した。
彼らからしてみれば、暗闇から怪し気な女が飛び出してきたのだ。
当たり前だが、瞬時にマヤは取り押さえられた。
「何だ?」
「お前も暴徒の一味なのか?」
地べたにギュウギュウと押さえつけられながら、マヤは叫んだ。
「助けて下さい! お嬢様が襲われてます。ブルムスト侯爵令嬢です!」
マヤを押さえつける手が緩んだ。
「ブルムスト侯爵と言ったか?」
「はい。ブルムスト侯爵令嬢、ジェシカ様です」
「今、どこに?」
「この先の………」と言いながらマヤは、緩んだ手の下で頭を動かし、門の先の暗闇を睨む。
「この先の街道で別れました。 お嬢様は私が助けを連れて戻るのを待っています。 お願いです。お嬢様を助けて下さい」
すると、何かに気付いた衛兵が、弾かれたようにマヤから離れ、頭を垂れた。
何事かと、恐る恐るマヤが立ち上がると、見るからに身分の高そうな騎士が馬上に見えた。
「今、ジェシカ………と言ったか?」
月明かりに照らされて銀色の髪が輝いて見えるが、その表情は影になって見えない。
見えないが、声色から怒っているように感じた。
「はい。お願いです。ジェシカ様をお助けください」
マヤは跪き手を合わせ懇願した。
ジェシカを助けたい。 その一心だった。
「チッ」
マヤの耳に舌打ちが聞こえた。
同時に、馬上の騎士は手綱を引いたようで、いななきと共に方向転換をしていた。
「ハノン。彼女を頼む」
そう、言い残すと銀髪の馬上の騎士は、単騎で暗闇へと駆けていってしまった。
ハノンと呼ばれた騎士は、大きく長いため息を付くと、数人の騎士に声をかけ、先程の騎士を追いかけるよう命令をしていた。
すぐさま、灯りを携えた騎馬数体が、暗闇へと駆け出した。
「あの………」
急に不安が押し寄せてきた。 マヤはハノンと呼ばれた騎士を見上げ、説明を求めるように、恐る恐る話しかけた。
その怯えたマヤの視線に気付いたハノンは、優しく微笑んだ。
「問題ありませんよ。 彼は、ブルーエ辺境伯子息で、あなたのお嬢様の婚約者候補ですよ」
マヤは、ドッと身体の力が抜けていくのを感じた。
「良かった………」とつぶやくと、その身体はユックリと崩れ落ちドサリと地面に倒れ込んだ。
安心したのだろうか。 意識を手放したマヤの顔は、薄っすらと微笑んでいるようにも見えた。
―――丁度その頃、ジェシカは追われていた。 正確には追い回されていた。
背丈ほどの草むらを見つけ、そっと身を隠し魔法で気配を消した。
このままマヤを待つつもりだった。 見つからないと、ふんでいた。
(さすがに馬車は、この草むらを走れない)
そう確信していたのだ。
ところが戻ってきたのは、馬に乗った何者か達だった。
一人は従者の声に似ていた………。
(―――どうして?)
不思議だった。 身を挺して自分を守ろうとする侍女と、自分を裏切り命を脅かす従者がいる事が。
詳しい事はわからないが、身元のしっかりした者を雇い入れているはずなのに。
(確か………)
ジェシカはマヤを紹介された時の事を思い出す。母の専属侍女の娘で学園を優秀な成績で卒業した。と、紹介された。
従者まではわからない。 名前さえも知らない。
(それが、裏切るかどうかの差なの? まさか………ねぇ?)
自問自答しても分からない。
今は先ず、この場を乗り切る事だ。全てはそこから………。
全神経を耳に集中する。 風に乗って、音が流れてくる。
(蹄の音は………、一頭分かしら。 声は………、やっぱり二人ね。 という事は、御者台にいた知らない声の持ち主とうちの従者なのね)
ジェシカの頭の上を、雲の影が流れていく。
暗闇と銀色の光が交差する。 見上げれば、月に照らされた薄雲が、淡く黄金に輝いていた。
一秒がとてつもなく長く感じる。
馬は街道をユックリと歩いているようで、カポカポと乾いた音が響いていた。
息を殺し聴き耳を立てるが、自分の心音がやけに大きく、足音が聞きとりにくい。
何度か街道を往復しているようで、馬の足音が近づいたり遠退いたりを繰り返す。
(このまま遠ざかって………)という祈りは届かず、足音は再び戻ってくる。
トサリ………。
馬から降りたのだろうか………。
カサ………ガサ………カサガサ………。
ジェシカは恐怖に囚われ、頭を抱え縮こまった。
ヤツは草を掻き分けやって来る。 だんだんと近づいてくる。
それも、躊躇なく自分に真っ直ぐに。
足音が直ぐそこに聞こえた。 ジェシカは思わず口を押さえた。
そうでもしないと悲鳴を上げ、駆け出しそうだった。 それほどの恐怖を感じていた。
ガサリ………ガサリ………。
ガサリ。
頭上の草が、掻き分けられた。
「みぃ~つけた」
口を押さえ見上げたジェシカの瞳に、月光に照らされ、ニタリと笑う男の歯が見えた。
弾かれたようにジェシカは駆け出した。
何度も、転び膝が痛い。 喉が焼け付くように痛い。 息が苦しい………。
それなのに、その男は高笑いをしながらユックリと近づいてくる。
どんなに懸命に脚を動かし走っても、その男はジェシカの真後ろで笑っていた。
(もう………動けないわ)
ジェシカは両手両膝をつき、肩で激しく息をする。
ジェシカの耳にはもう、自分の忙しない呼吸音しか聞こえない。
「なんだ。 もう、終わりかよ」
心底残念そうにその男は言い捨て、ヒョイとジェシカを担ぎ上げた。
ジェシカにはもう、抵抗するだけの力も、気力も残っていなかった。
ただ、ただ後悔していてた。
『騎士を持つように』その忠告を聞けば良かった。まさに自業自得。
「なぁ、そいつを渡すんだから妹は返してくれるんだろ?」
従者の声が聞こえてきた。
(そうか、妹がいたのね)
「バカか。 そんなんで、お前の家の借金が払えると思ってんのか?」
地響きのような男の笑い声が、ジェシカの頭に響き、彼女の身体も男の笑い声に合わせて上下する。
「話が違うじゃないかっ」
「うるせぇっ!」
ジェシカの耳に鈍い音と共にドサリと何かが倒れ込む音、それとうめき声が聞こえた。
男がジェシカを馬の背に乗せた。が、ジェシカは身動き一つ取れない。 だんだんと気が遠くなっていた。
朦朧とした意識の中で、ジェシカはマヤを心配していた。
(無事に、助けてくれる誰かに、会えただろうか………)
後は、マヤへの感謝。 こんな自分を守ろうとしてくれた彼女への感謝。
それと、もう会えないかもしれない母への懺悔。
こんな自分に親身に忠告してくれたのは、母だけだった。
「ごめんなさい………」
そう呟いて、ジェシカは意識を手離した。
―――どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ジェシカはまだ、馬の背に揺られていた。
「綺麗な綺麗なご貴族様のお嬢ちゃんが、こんな泥だらけになっちゃって。 しっかりキレイにしないとね。 隅々まで………」
野蛮な男が卑猥な言葉を吐きながら、馬の背に横たわるジェシカの剥き出しの背中を、ゴツゴツした指先で撫で回わす。
背骨に沿うように、何度も男の指先が往復する。 ジェシカは、鳥肌が立った。
だが、恐怖と緊張と駆け回った事による疲れと馬の揺れが、再びジェシカを眠りへと誘う。
(もう、どうでもいい………)
全てをあきらめていたジェシカの耳に、遠くから近付いてくる馬の蹄の音が聞こえてきた。
男の舌打の音が聞こえ、急に駆け出す馬。
ジェシカは「振り落とされて、死んでしまうのかしら?」と、ぼんやり考えていた。
そんなジェシカの耳に、唐突に「飛べっ!」という言葉が響いた。
反射的にジェシカは飛んだ。 馬の背を踏み台にして。
何処にそんな力が残っていたのか。何かに弾かれたようだった。
ジェシカに蹴られた馬はいななき、野蛮な男は声を荒げる。
馬から飛び降りたジェシカは、逃げようと必死に手足を動かすが、地べたを這いずる事しか出来ない。
どうにかこうにか立ち上がった時には、野蛮な男が必死の形相でジェシカに向かってきた。
正確には、その表情は見えないが気迫を感じた。
とたんジェシカの身体は宙に浮いた。
鬼のような形相の男が、どんどんジェシカから離れていく。
いつの間にかジェシカの身体は馬上にあり、しっかりとした腕に腰を支えられていた。
「これを着ろ」
そう言われると頭上から上着が落ちてきた。
月明かりに黒狼の紋章が見えた。
「黒狼………騎士団………」
見上げると色素の薄い、リーンハルトのアクアマリンの瞳が、細くジェシカを見つめた。
彼はジェシカの頭を、自分の胸にしっかりと、かき抱く。
「よく、頑張ったな………」
森林の香りがする彼の胸の中で、ジェシカは上着を両手に握りしめて泣いた。 声を上げて泣いた。
(助かった。助かったんだ)




