第五章:旅立ちと優しさと雨の中で
「おにいちゃん、うちに来る?」
少年はナゴミの手を引きながら、小さな道を進んでいく。
村の中は素朴で静かだった。家の作りはどれも似ていて、木と石でできた簡素なもの。
歩きながら、ナゴミは時折、周囲を観察していた。
やがて、一つの家の前で少年が立ち止まる。
「ここ、僕んち。」
扉を開けて中に入ると、ほのかに湿った空気と木の香りが鼻をくすぐった。
そのとき、奥の部屋から微かな咳と、かすれた声が聞こえた。
「……リーノ?」
少年――リーノは、声が聞こえた瞬間、ぱっと駆け出した。
「ただいま、ママ!」
奥の部屋からは、さらに咳混じりの声が返ってきた。
「……また、あの崖に行ったんじゃないでしょうね……薬草なんて……」
ナゴミは少し距離をとりながら、その会話を静かに聞いていた。
リーノの声が少し明るくなる。
「行ってないよ!約束したし!……でも、代わりに助けてくれる人を連れてきた!」
「……助けてくれる?誰の話を……?」
次の瞬間、リーノがナゴミの手を引いて部屋へ連れて行く。
そこには、疲れ切った顔をした女性がベッドに横たわっていた。布団に深く沈み、頬は痩せている。
ナゴミは軽く頭を下げた。
「突然お邪魔して、すみません。」
リーノが興奮気味に言う。
「この人!この人が手伝ってくれるって言った!」
(……何も、言わなかった。)
女性はナゴミを見つめ、弱々しく笑った。
「あなた、旅の人でしょう……うちの子が勝手なことを言って、ごめんなさいね。」
「気にしてません。特に予定もないので。」
リーノは口を尖らせた。
「だって……ママ、もうずっと寝たままだし、ごはんも食べてないし……畑の仕事だって……」
声が震えてくる。
「村にはもうお年寄りしかいないし……若い人はみんな町に行っちゃって……お父さんも、ママが妊娠してるってわかったときに……捨てたんだって……!」
女性の目が見開かれる。だが、何も言えなかった。
リーノはそのまま駆け出して部屋を飛び出した。
残されたナゴミは、静かに立っていた。女性の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……私、母親失格ですね……あの子に、あんな思いをさせて……」
ナゴミは、静かな声で言った。
「心配しなくていいですよ。僕、薬草を探しに行きます。どうせ暇ですし。」
女性は驚きと申し訳なさの混じった顔で、うなずいた。
「……ありがとう。でも、本当にごめんなさい。」
◇ ◇ ◇
家を出ると،リーノが玄関先に座っていた。膝を抱え、顔を腕にうずめている。
ナゴミは彼の隣にしゃがみ、そっと頭に手を置いた。
「薬草の場所、教えてくれる?」
リーノは顔を上げ、涙を拭きながら聞いた。
「……助けてくれるの?」
ナゴミは微笑む。
「もちろん。」
リーノは立ち上がり、「こっち!」と元気な声を出した。
◇ ◇ ◇
薬草のある場所は、森の奥にある崖の上だった。
最初はナゴミも崖を登ろうとしたが、足をかける場所が見つからなかった。
「……まわってみよう。」
ナゴミは周囲を見回し、樹々の間に小道のようなものを見つけた。
それをたどると、崖の上に出られた。
崖の端に生えていた、小さな紫の花草。それが目的の薬草だった。
ナゴミは手を伸ばし、指の先でようやく掴んだ。
空はオレンジ色に染まり、日が傾いていた。
◇ ◇ ◇
帰り道、ナゴミとリーノは並んで歩いた。
家に戻ると、リーノは母の元へ走り、頭を下げて謝った。
「ごめんね、ママ……さっき、怒鳴っちゃって……」
女性は、彼の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「いいの……大丈夫よ……ありがとうね。」
ナゴミが帰ろうとしたその時、背中から声が飛んできた。
「……あなた、名前は?」
振り返ってナゴミは答えた。
「ナゴミです。」
女性は微笑んだ。
「今夜、泊まっていって。お礼のつもりよ。」
「じゃあ、遠慮なく。」
「……それと、夕飯は私が……」
「無理しないでください。僕が作ります。ちょっとしたスープならできますよ。」
女性は、驚きながらも感謝の気持ちを込めて頷いた。
◇ ◇ ◇
その晩、ナゴミは薬草を使った簡単なスープを作り、皆で食卓を囲んだ。
夜、彼は用意された空き部屋で横になり、深く眠りについた。
◇ ◇ ◇
翌朝、香ばしい香りで目を覚ましたナゴミは、台所に立つ女性の姿を見つけた。
「もう起きたの?」
「ええ……体、大丈夫ですか?」
「ええ、薬草のおかげよ。ありがとう。」
ナゴミはテーブルにつき、三人で朝食を取った。
食事のあと、ナゴミは静かに言った。
「僕、町へ向かいます。」
女性は頷き、白と黒の旅装束を渡した。しっかりとした生地で、よく手入れされていた。
「これ……使って。お礼の気持ち。」
「ありがとうございます。大切にします。」
◇ ◇ ◇
村を離れてしばらくすると、草原に出た。
そこで、ぴょんぴょんと跳ねる青い生き物が目に入る。
「……スライム?」
ナゴミは立ち止まり、少しだけそれらを眺めたが、干渉せずに歩き続けた。
空はどんよりとしていた。やがて雨が落ちてくる。
そのとき、後ろから馬車がやってきた。
ナゴミは手を挙げて声をかけた。
「すみません、町まで乗せてもらえますか?」
御者は頷き、ナゴミは荷台に乗り込んだ。
雨の音。揺れる馬車。
ナゴミは横になり、目を閉じる。
「……雨の匂い、好きなんだ。」
彼の声は、誰にも聞こえなかった。
しばらくして、御者の声で目が覚める。
「着いたぞ、町だ。」
ナゴミは荷台を降り、静かに頭を下げた。
目の前には、石造りの門と、その向こうに広がる賑やかな街並みがあった。
人々の声、屋台の香り、活気ある音。
ナゴミは少し迷いながらも、尋ねて、そして歩いた。
ようやく――「ギルド」と書かれた建物の前に立つ。
扉の前で、ナゴミは少し息を整える。
新しい日が、また始まろうとしていた。
――つづく。