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いつかどこかの世界で

 紅茶には必ずはちみつを入れる。ティースプーン一杯分のはちみつを。

 そうするようになったのがいつからだったのか、エリシアはあまり憶えていない。真っ青な海が売りの南方の大国にいた頃だったか。はたまた、年中雪ばかりが降ってどこもかしこも白で埋め尽くされていた東方の小国にいた頃だったか。或いは、歴史的建造物と無数の水路で彩られた経済大国にいた頃だろうか。


 そういえば東方の島国にいた頃だったかもしれない、と、そんな他愛もないことを思い出しながら、エリシアは持ち上げたティーカップに唇を寄せる。口内にふわりと広がる仄かな甘みと、独特の豊かな香り。それをじっくりと堪能し、エリシアは満足げに笑みをこぼして、つけっぱなしのテレビに目を向けた。ソファの真向かいの壁に沿って置かれたテレビには、眼鏡をかけた生真面目そうな男と、アナウンサー然とした清楚な出で立ちの女が映っている。


「なるほど。ではやはり、この国は“聖女”を失ったことが原因で滅んでしまったのですね」

「ええ。発見された多数の文献には、当時の悲惨な状況がありありと記されています」


 二人が歩いているのは、瓦礫だらけの荒んだ広場だった。苔や雑草に覆い隠された石畳。所々亀裂が入ってがたついた道。その両脇には大きな――人の背丈をゆうに超える大きさの――岩が幾つも転がり、中には柱と思しき面影を残したものも見受けられる。 


 その光景だけを見れば、ただの岩場にしか思えない。或いは野原というべきか。人が住んでいるような気配は無論なく、動物の姿さえまるでない。随分と荒涼とした場所だった。右も左も、前も後ろも。どこを見渡しても、そこにはただ荒廃しかない。


 そんな場所に、嘗ては巨大な王国が――しかも王国の中心部が――栄えていたなんて、果たして誰が信じるだろう。


「この国にとって“聖女”の存在は、とても重要なものでした。彼女の存在如何で、国の行く末が左右されるのですから」


 はちみつ入りの紅茶をもう一口含み、エリシアはテレビを――その中に映るたくさんの瓦礫を――見つめながら、ゆっくりと瞬く。


 今も時折、夢に見る。聖導院の静謐な大聖堂を。白い髭をたっぷりと蓄えた大主教の顔を。婚約者であった王太子の怜悧な瞳を。敬虔な信徒だった老婆の声を。青いカーネーションとお菓子の入った小袋を。もう遠い昔のことだというのに。今も明瞭な輪郭を保ち、それは夢となって蘇ってくる。忘れることは許さない、とでも言うかのように。


「しかし、そんなに大事な“聖女”が、どうしていなくなってしまったのでしょうか?」


 インタビュアーの問いに、眼鏡の男――恐らくは大学教授か考古学者だろう――が咳払いをし、一層深刻な顔つきになって荒涼とした広場を見回す。彫り込みのある四本の円柱、微かに模様の残った敷石、窓のような穴の空いた大きな煉瓦塀。


 あそこは確か、王都の中央部にあった――。そう思いながら、鮮明な記憶を頭の奥底から引っ張り出し、すっかり廃れてしまった画面の中の映像と重ね合わせていた、その時。ふと傍らに気配を感じて、エリシアはぱちりと目を瞬かせた。


「今更そんなつまらないものを見て何になる」


 不意に聞こえた声を辿って横を向けば、そこにはシャツにジーパンというラフな格好をしたラゼルが、首にかけたタオルで白髪を拭いながら立っていた。


「やはり後悔しているのか」


 隣に腰を下ろしたラゼルの横顔が、心做しか不貞腐れているように見え、エリシアはくすりと小さく笑う。シャワーを浴びたばかりの色白の肌から、石鹸の爽やかで優しい香りが漂ってくる。


「後悔なんてしていませんよ。彼らにとって“エリシア”が不要だったように、私にとってあの世界は必要がなかったのですから」


 ちらりと向けられた赤い瞳に微笑みかけ、エリシアは彼の逞しい身体にそっと寄り掛かる。

 あれから、もう何年――何百年が過ぎただろう。テレビのテロップには凡そ二百年前と記されているけれど、王国が滅亡したのはもっと以前だったような気もする。


 なんとも呆気ない終焉だった。一時は、近隣諸国を呑み込むほどの勢いがあり、軍事大国と謳われ、恐れられてもいたというのに。国王が死に、王太子が死に、そして制御不能となった王国が他国からの侵略を受け、支配されるまでに、そう時間はかからなかった。ひと月さえも要さなかっただろう。一度罅が入ってしまえば、そこからはもう、ただ瓦解してゆくだけ。それを食い止めるだけの力は、彼らには少しも残されていなかった。


 それら全ての原因が“聖女”にある、と、眼鏡をかけた生真面目な男は結論付けていたけれど――。紅茶の水面を見つめ、エリシアは自嘲じみた笑みを口元に湛えながら思う。たとえそれが本当のことであったとしても。それでもラゼルの傍を選び、人の世を捨てたことに、後悔はない。


「ねぇ、ラゼル様」


 ゆっくりと腰を上げ、手にしていたティーカップをテーブルの上に置いたエリシアは、片足を軸にまるで踊るかのようにして、くるりと振り返る。


 長く濃い睫毛に囲まれた赤い瞳は、あれから何百年も経った今でも、やはり澄んだ宝石のように美しい。エリシアが彼と同じ色を手に入れるには、まだまだ気の長くなるような途方もない時間が必要になるだろう。けれども、光の加減で僅かに赤く見える自身の黒い瞳を、エリシアはとても気に入っていた。少しだけ――ほんの少しだけ、彼に近づけたような気がして。彼の傍にいることを、ちゃんと許されたような気がして。


「私、今とても幸せです。……ううん、今だけじゃないわ。だって、ずっとずっと昔から幸せだったんですもの。過去も今も、そしてこれから先の未来も。きっとそれは、変わりません」


 もし王都を追放されていなかったら。もしエデル村に逃げ込んでいなかったら。もしあの夜、予感を頼りに外へ出ていなかったら。何か一つでもピースが欠けていたら、ラゼルに出逢うことはなかっただろう。そして、エリシアは“エリシア(自分自身)”を知らぬまま生き続けてもいただろう。


 気を緩めれば泣いてしまいそうで、エリシアはふふっと笑みをこぼすことでそれを誤魔化しながら、ラゼルの赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。たくさんの愛情を、たくさんの喜びを、たくさんの感謝を、その眼差しにたっぷりと込めて。


「愛しています、ラゼル様」


 ――私を見つけてくれて、ありがとう。

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