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さようなら、こんばんは

 言われた通りに瞑った目を次に開いた時には、エリシアの身体は見慣れた薄闇の中にあった。


 すっかり馴染んだ、爽やかな香りが鼻腔を擽る。その匂いにほっと胸を撫で下ろして、エリシアは深呼吸とともに身体の力を抜く。目を閉じていたのは、ほんの一瞬だった。宙に浮いたような感覚がしたので、思わずラゼルの身体に腕を回してしがみついたところまでは、覚えている。その時はまだ、騒然とする教会の中にいたのは間違いない。けれども一呼吸する刹那の間に、空気はがらりと変わっていた。穏やかな風が頬を撫でたような気がするし、はたまた、冷たい掌で頬を包まれたような気もする。兎角、不思議な感覚だった。今までに経験したことのない、不思議な時間。


 その間に何が起こったのかなんて、エリシアにはまるで分からない。気付いた時には教会から遠く離れ、耳を劈くような悲鳴も怒声も、何もかも聞こえなくなっていた。


 棚の上に置かれたランプの灯りを点し、ぼんやりと広がる橙色の明かりの中で、エリシアはゆっくりと息を吐く。今頃教会は、騒然となっていることだろう。吸血鬼と人間が、一瞬にしてその場から消えたのだから。心臓は、まだ僅かばかり忙しない。


「何故王都へ戻らなかった」


 壁際のベッドにどさりと――半ば倒れるように――腰を下ろしたラゼルが、真剣な眼差しでエリシアを見据える。やはり真昼の教会は、彼の特殊な身体にとって大きな負担だったのだろう。形の良い唇の間から紡がれた声には、心做しか疲労が滲んでいた。


「私には、もう必要のない世界だからです」


 胸の前でそっと両手を組み、エリシアは僅かに目を伏せる。


「私にとって“聖女”とは、私が“私”である為の、“私”という存在を肯定する為の寄す処でした。聖導院に連れて行かれた六歳の頃から、ずっと。私は“聖女”という皮に、必死にしがみついていたのです」


 そうすることでしか、自分自身を認めることが出来なかった。そうすることでしか、あの辛く苦しい環境を耐え凌ぐことが出来なかった。“聖女”であることにしか、己の存在価値を見出すことが出来なかった。


「だから王都を追放された時、私は絶望しました。聖女でないただの“エリシア”には、何の価値もないからです。聖女という立場を奪われたら、私は“私”でなくなると……そう、思っていました」


 聖女の否定は、即ちエリシア自身への否定だった。彼女の存在も、そしてこれまでの過去も、何もかも引っ括めて。


 幼少の頃から聖導院に閉じ込められ、“エリシア”としてではなく“聖女”として何年も何年も扱われてきたせいで、彼女の認知はすっかり歪んでしまっていた。聖女の刻印を持った人間を、なるべく早い段階で――つまり幼い頃に――見つけようと神官たちが躍起になるのは、恐らくそれが目的だからだろう。今ならばそれが分かる。ある程度年齢を重ねた人間では、子どものようにそう上手く洗脳がゆかないからだ。


 王都から追放されなければ。この村へ逃げへ来なければ。――そしてあの夜、予感を頼りに家を出なければ。きっと今も、その歪んだ世界の中で生きていただろう。ずっと、ずっと。“聖女”というまやかしに縋り付いていたに違いない。


 けれど――。胸の前で組んだ両手をゆっくりと解き、エリシアは慈愛に満ちた眼差しで、ベッドに腰掛けるラゼルを見つめる。泣きたくてたまらなかった。悲しいからではなく、ただただ嬉しくて。


「でも、ラゼル様に出逢って、それは違うのだと知りました。貴方様は私を、私自身を認めてくれたのです。エリシアはエリシアだ、と。その言葉で、私は救われました」


 “聖女エリシア”ではなく、“エリシア”という一人の人間を認め、見つめ、そうして愛してくれたのは、彼ひとりだった。両親でもなく、大主教でもなく、国王でもなく、婚約者でもなく。人に仇をなす存在として畏怖されるはずの、月下の美しき住人ただひとりだった。


「ひとつ、訊いてもよろしいですか」

「なんだ」


 太ももに頬杖をつき、ラゼルは目を細める。そんな彼の赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、エリシアは小さく苦笑をこぼす。


「ラゼル様は、どうして私をお傍に置いて下さったのですか?」


 気にならなかったわけではない。けれど返ってくる言葉が怖くてずっと訊けずにいた疑問を、エリシアは漸く問いかける。


「私が、“本物の聖女”だからですか?」


 今でもエリシアは、“本物の聖女”というラゼルの言葉を信じていない。傷口に塗った軟膏で痛みが和らいだのだとしても、もしかしたらそれはただの偶然だったかもしれないからだ。あれ以降、聖女らしい何かをしてやれたことは一度もないと、エリシア自身は思っている。


 けれどもラゼルは、今もエリシアを“本物の聖女”だと事あるごとに言う。彼のその確信は、出会った頃から少しも揺るがない。


 だから、不安になる。エリシアはエリシアだと言ってくれたその言葉を、疑っているわけではないけれど。向けられる眼差しの真摯さも、抱き締めてくれる腕のぬくもりも、信じていないわけではないけれど。それでも不安になるのだ。彼が自分を傍に置いてくれているのは“本物の聖女”だからなのではないだろうか、と。傷を癒やしてくれる存在だからなのではないだろうか、と。


 傷が癒えたら、どうなるのだろう。やはり“本物の聖女”ではなかったと思われたら、どうなるのだろう。そう考えれば考えるほど不安だった。恐ろしくてたまらなかった。


「……お前は、俺達吸血鬼にとって“聖女”がどういうものなのか、知っているか」


 震える掌で、きゅっ、とスカートを握り締めるエリシアの、不安に満ちた双眸を優しく受け止めながら、ラゼルは自嘲のような笑みをこぼす。


「吸血鬼にとって“聖女”は、この世に存在する生物の中で、最も価値のある“獲物”だ」


 そう言いながら腰を上げ、彼はゆっくりとエリシアのもとへ歩み寄る。


「聖女を喰えば、どんな種族をも超越する強大な力を得ることが出来ると言われている。その力があれば、日光や教会なんてものはもう関係ない。無論、魔獣に負わされた怪我など秒で治るだろう」


 目の前で足をとめたラゼルを見上げ、エリシアはスカートを握る手に力を込める。


「私の手料理を食べたおかげで幾分耐性がついたと仰っていましたけど……だから、私を」

「馬鹿なことを言うな。料理から得られる聖女の力など微々たるものだ。それが目的なら、お前を喰ってしまった方が手っ取り早い」


 どきりとして、エリシアはゆるゆると口を噤む。彼の言葉は、確かに正しい。怪我が未だに完治していないのを見るに、軟膏や料理など、媒介を挟んで得る力は本当に微々たるものなのだろう。それならば、聖女本人を喰ってしまった方が断然早い。彼ほどの吸血鬼ならば、いくら怪我を負っていても、非力な聖女を喰い殺すことくらい容易だろう。そうするチャンスは、今までに幾度だってあったはずだ。

 けれどもエリシアは今、生きている。生きてラゼルの前に立っている。


「……何故、私を食べなかったのですか」


 少し間を置いて、エリシアは震える声で問いかける。そんな彼女を真っ赤な瞳で見つめ、ラゼルはそっと持ち上げた右手で、エリシアの柔らかな頬を優しく撫ぜた。


「確かに聖女を喰えば、この傷は癒える。より超越した力も手に入る。……だが聖女を喰えば、お前は俺の傍からいなくなってしまうだろう?」


 一瞬、時が止まったような気がした。彼の紡いだ言葉によって。世界の全てが、一瞬だけ止まったような気がした。


 ――お前は俺の傍からいなくなってしまうだろう?


 ラゼルの言葉を何度も何度も反芻し、そうしてゆっくりと、エリシアはひとつひとつの言葉を呑み込んでゆく。そうすればそうするほど、堪えていた涙が、目の端からぽつりぽつりと溢れ出す。とめどなく、次から次へと。溢れ出す想いの分だけ、たっぷりと。


 もっとちゃんと彼の顔を見ていたいのに。彼の美しい赤色を見つめていたいのに。涙のせいで視界がぼやけて、全てが滲んでしまっている。


「ラゼル様……お願いが、あります」


 涙を拭おうとするあたたかな手の上に、エリシアはそっと自身の手を重ねて、優しく包み込む。愛おしくて、幸せで、嬉しくて。何をどう表現すればいいのか、分からなかった。あまりにも幸福すぎて、それを伝えられる言葉が見つからない。


 だから、今出来うる限りの満面の笑みを咲かせ、エリシアはラゼルの手をぎゅっと握り締める。人間よりも幾分体温は低いのに、それでも身体が、心がぽかぽかとする、まるで太陽のような掌に頬を擦り寄せて。


「どうかこれからも、貴方様のお傍にいさせてください。ずっとずっと、永遠に」


 その望みは、ある意味で人の世との決別に対する確たる決意でもあった。吸血鬼と人間では、その生涯の長さは遥かに違う。彼との永遠を望むのであれば、人間としての生命を捨てなければついてゆけない。


 けれども吸血鬼に転化してしまえば最後、人間にはもう二度と戻ることは出来ない。日光や教会や、人間の身であれば平気だったものが全て、吸血鬼の身だと致命傷に成りうる。真昼に出かけることは、もう出来ない。大好きだった花を育てることも難しくなるだろう。陽の光には別れを告げ、神には背を向けて生きてゆかねばならない。


 だからだろう。ラゼルは真剣な面持ちでエリシアを見つめ返し、僅かに眉根を寄せた。


「よく考えろ、エリシア。吸血鬼の一生は長い。それこそ生に飽くほど、途方もない時間だぞ」


 彼の言いたいことも、分からなくはない。大事に想ってくれているからこそ、エリシアの一生を慮ってくれているのだろう。


 けれどもエリシアに迷いはなかった。未練も心残りも、何もかも。ラゼルの傍を選ぶことに、躊躇いは微塵もなかった。なんと言われようとも、その決意は少しも揺るがない。生半可な気持ちで人の世を捨てるわけではないのだ。


「それでも良いのです。ラゼル様がお傍にいてくだされば。私はどこまでも、貴方様についてゆきます。私を……私自身を見てくださった貴方様に、いつまでも」


 ラゼルのぬくもりを噛み締めるようにゆっくりと瞬いたエリシアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それでも彼女は、笑っていた。幸福に満ち満ちた、とびきりの笑顔で。

 そんなエリシアを、ラゼルは暫しの間無言で見下ろしていたものの、やがてふっと顔を綻ばすと、か弱い小さな身体をきつく抱き竦めた。


「怖いか」


 耳元で囁かれた優しい気遣いに、エリシアは逞しい胸板に顔を寄せたまま、ゆるゆるとかぶりを振る。


「いいえ、怖くなどありません。貴方様の牙を、怖いなどと思うはずがありません」


 もし、彼に喰わることになったとしても――。ラゼルの大きな背中にそっと腕を回しながら、エリシアは密かに思う。もし彼に喰われることになったとしても、きっと怖いなどと思うことは微塵もないだろう。それよりも、彼のいない世界で生きていく方がよほど恐ろしく、ひどく辛い。


「ラゼル様」

「なんだ」

「私、今とても幸せです」


 ゆっくりと身体を離し、どちらからともなく微笑みながら、じっと見つめ合う。鼻先が触れ合うほどの近さで。互いの瞳を、しっかりと眼へ焼き付けるように。


 瞬きをする間さえ、惜しいと思った。もっともっと、彼の赤い瞳を見ていたい、と。けれども、徐ろに近づいてきた唇に気付いて、エリシアはそっと瞼を閉ざす。彼の口付けは、いつもとても甘美だ。甘美だけれど、今日のそれはいつにも増して甘く、エリシアの頭を、身体を、やさしく蕩けさす。それがとても、心地良かった。春の木漏れ日よりも、もっとずっと。胸の中が、あたたかい。


「……本当に良いんだな?」


 優しい手つきで首筋を撫でられ、その擽ったさにエリシアはくすくすと笑う。

 何度問われたって。何度同じ岐路に立たされたって――。首筋に寄せられた白い頭をそっと抱き締めながら、エリシアはにっこりと目を細める。何度問われたって。何度同じ岐路に立たされたって。選ぶ答えは変わらない。選ぶ未来は、変わらない。ラゼルという、美しい吸血鬼が存在する限り。絶対に。


「愛しています、ラゼル様」

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