愛する男と
「――相変わらず愚かな生き物だな」
えっ、と思った時には、身体が浮いているような不思議な感覚がした。腰に回された腕が、きつくしっかりとエリシアを抱いている。爽やかな香りが鼻腔を擽り、そのよく知った匂いに、エリシアはたまらず息を呑んだ。
どうして、どうして。どうして彼が――。混乱する頭のままゆっくりと瞼を上げると、驚愕に見開かれた小ぶりな目とかち合った。オリーブ色の瞳が、恐怖で揺れている。引き攣った唇の合間からは掠れた吐息がまろび出て、そしてそのまま、息を継ぐことなく喉をひくつかせた。
怖い――そうか、怖いのか。恐ろしいのか。彼等にとっては。
どこか他人事のようにそう思いながら、エリシアはゆっくりと瞬く。巨躯の男の背後で、あの暗鬱な男もまた目を瞠っていた。白い肌を、一層青白くさせて。時間が、まるで止まっているようだった。誰も身動きひとつせず、ただその場に立ち尽くし、いつの間にか階段の上に移ったエリシアを――その後ろに立つ男を凝視している。
どれくらい時が止まっていただろう。数秒だったかもしれない。数分だったかもしれない。或いは、途方もなく長い時間だったかもしれない。
真昼の陽光に彩られた教会内に満ちる沈黙を、甲高い悲鳴が引き裂いた。それを引き金に、群衆がたちまち騒ぎ出す。我先にと逃げ出す者、腰を抜かして崩折れる者、気を失って倒れ込む者、まるで子どものように泣き喚く者。恐怖が、辺り一面を覆っている。誰も彼もがそれに呑まれ、震えていた。純白のローブを纏った、あの男たちでさえ。
それも致し方のないことだ、と、腰に回された腕にそっと指先を触れさせながら、エリシアは思う。赤い瞳は、人に仇をなす者の印だ。それが赤ければ赤いほど、悠久の時を生きた最上級の吸血鬼であることを示す。彼は――ラゼルは正に、そうだった。ただでさえ人知を超えた力を持つというのに、彼ほどの存在となれば、人間に太刀打ち出来る術などまるでない。
そんな彼が今、ここにいる。エリシアの背後に立ち、逞しい腕で彼女の腰を抱き寄せている。そのことが、エリシアは未だに信じられなかった。心臓が、どくどくと激しく鳴っている。恐怖からではなく、溢れんばかりの嬉しさで。
「きゅ、吸血、鬼ッ……!?」
悲鳴に似た声を上げた男の太く頑強な手から、鋭く尖った剣が滑り落ちる。音を立てて身廊の上に転がった唯一の武器を、しかし男は拾い上げることはせず、一歩、また一歩と後退ってゆく。唇を恐怖に戦慄かせながら。よろよろと、覚束ない足取りで。
「な、何でこんな真っ昼間に、吸血鬼がッ……!?」
畏怖に震えた男の叫びで、エリシアはハッとする。その声に弾かれて肩越しにラゼルの顔を見上げれば、その視線を感じ取ったのか、彼はふっと口角を上げながらエリシアを見つめ返した。真っ赤な――透き通った宝石のような、美しい赤い瞳で。
「ど、どうしてこんなところに来たのですか!」
「お前が危険な目に遭っていると、花の妖精が報せに来た。お前が大事に育てていた花から産まれた妖精だ」
「そういうことではありません! こんな時間に外へ出たらっ――」
「大丈夫だ。お前の手料理を食ったからか、幾分耐性がついたらしい」
今は真昼だ。太陽は天高いところから大地を見下ろし、まばゆい陽光を燦々と降らせている。それは鮮やかなステンドグラスを通って、教会の中を明るく照らしている。灯りが不要なくらい、煌々と。
それなのに――。言葉を詰まらせ、エリシアはくしゃりと顔を歪める。太陽光は、最も知られた吸血鬼の弱点の一つだ。いくら長い時を生きた彼であっても、それは変わらない。現にラゼルの白い頬には、薄っすらと脂汗が浮かんでいる。幾分耐性がついた、と彼は言っていたけれど。しかし、だからといって大丈夫なはずはないのだ。今は真昼で、しかもここは教会なのだから。
「どうしてっ……」
込み上げてきそうになる涙を必死に堪えながら、エリシアは唇を噛み締める。そんな彼女の頬を、まるで涙を拭うように親指の腹でやさしくひと撫でし、そうしてラゼルは群衆へと視線を移す。そこにはエリシアへ向けたような優しさは、欠片もない。ただただ冷たく嘲笑っている。
「皆殺しにしてやろうか」
向けられた物騒な言葉に、エリシアは慌ててかぶりを振る。
「だ、駄目です! いけません、そんなことをしては!」
「なんだ、あんな奴らにまで慈悲をくれてやるのか、お前は」
呆れたように肩を竦め、ラゼルは小さく息をつく。けれども次の瞬間にはニヤリと口角を吊り上げ、悠然とした動きでエリシアの耳元へ唇を寄せた。微かに漏れる吐息が耳朶に触れて、思わず背筋がぴんと張る。そんな彼女の様子に、ラゼルは満足げにくつりと笑った。
「あまり長居は出来ん。――さあ選べ、エリシア」
群衆へと向けられた赤い瞳を追って、エリシアもまた村人たちへ目を向ける。
ほんの数十分前まで、彼らは皆、エリシアに優しい笑みを向けてくれていた。会話をしながら、串焼きを食べながら、或いはカーネーションを受け取りながら。思い出がないわけでは、決してない。一人ぼっちで素性も分からなかったにもかかわらず、それでもあたたかかく迎え入れてくれた彼らに、笑顔が増えたことを喜んでくれた彼らに感謝がないわけでも、決してない。
けれど――。切なく微笑みながら瞬いて、そうしてエリシアは、彼らからゆっくりと顔を背ける。迷いはなかった。未練もなかった。ほんの僅かすらも。後ろ髪を引かせるようなものは、もう跡形もなく疾うに崩れ去ってしまっているのだから。
「選ぶ必要なんて、ありません」
そう囁きながら、エリシアは端麗な横顔を見つめる。意思のこもった強い眼差しで。そこに、たっぷりの感謝と愛をこめて。
その視線で意を察したのか、ラゼルはふっと笑みを漏らし、エリシアの細腰を抱く腕に力を込めた。
「目を瞑っていろ。――安心しろ。夜はすぐそこだ」