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人の世

「――国王陛下の命により、聖女・エリシア様をお迎えに上がりました」


 何を言っているのか、エリシアには彼の紡いだ言葉をすぐに理解することが出来なかった。

 国王陛下、聖女、お迎えに――。ひとつひとつを、思考力の低下した頭でゆっくりと噛み砕き、そうしてパズルのピースを合わせるように、ひとつずつ組み立てる。それでも尚、エリシアは男の言葉を理解出来ない。呑み込めないのだ。そうすることを、動物的な本能で、身体が、頭が、必死に拒んでいる。

 けれどもやがて彼の言葉が脳に溶けて広がると、否が応でも理解せずにはいられなかった。


「聖女様つったら、王都にいるんじゃないのか?」


 何処からともなく上がった問いに、しかし男は群衆を一瞥することなく口を開く。


「彼女は先日、王国へ対する欺瞞及び聖域を穢した罪により、処刑されました」


 群衆に、どよめきが広がる。エリシアもまた、彼の言葉に耳を疑った。

 聖女が、処刑された。“本物の聖女”だったはずの、異邦の女が。王国へ対する欺瞞と聖域を穢した罪により、処刑された。恐らくは、秘密裏に。


「ですが彼女は、神の御言葉を聞けたはずです。そ、それに……聖女にしか芽吹かせられない花を開かせましたし、病人の治療だって――」

「それら全てが、我々を欺く為のトリックだったのです」


 背筋に冷たい震えが走るのを感じ、エリシアはたまらず拳を握り締める。欺瞞ということは、彼女は“本物の聖女”などではなく、“偽りの聖女”だったということだ。つまりそれは、理由に違いはあれど、“偽物の聖女”として王都を追放されたエリシアと同じである。もしあの時――大聖堂で糾弾された時――、王太子が下した命が“王都からの追放”ではなく“処刑”だったとしたら。エリシアの命は今ここにない。


 追放で済んだのは意図的な詐称ではなかったからか。それとも、ただの気まぐれか。王太子、或いは国王が何を考えてそう決断したのかは知る由もない。しかし、彼女の身に降り掛かったことは、もしかすればエリシアの身にも起こっていたかもしれず、そう思うと恐ろしくてたまらなかった。


「しかし、前の聖女様も“偽物”だったんだろう?」


 誰かの一言で、男たちに向けられていた視線が、一気にエリシアへ注がれる。


「そ、そうだったな、確か」

「新聞にも載っていたわ。“偽物の聖女”だった、って」

「神託を一度も聞けなかったって話じゃないか」


 周囲から次々と投げつけられる言葉に、エリシアは唇を引き結んで、奥歯をきつく噛み締める。針の筵に座っているような心地だった。身体中に、目には見えない透明の針が、次から次へと無慈悲に突き刺さってゆく。


 どうして、と、喉元まで出かかった声が、虚しく喉を滑り落ちる。

 さっきまで一緒に笑い合っていた人がいた。気を遣ってくれる人がいた。「ありがとう」と言ってくれた人がいた。優しい人達が、たくさん、たくさんいた――はず、だった。周りを取り囲む群衆の中に。階段の下から見上げてくる人垣の中にも。


 けれど今、エリシアに向けられる視線に、嘗ての面影は少しもない。誰も彼もが一様にエリシアを侮蔑していた。どうせ役立たずなんでしょう、と。彼女も所詮は“偽物”なんでしょう、と。口々にそう言いながら。村の一員に溶け込んだ、この半年という大切な時間が、まるでなかったかのように。エリシアを嘲り、そして蔑んでいた。“聖女”という、たったひとつの言葉が彼女についただけで。


 そんな群衆の口を、男は鋭い一瞥で噤ませ、エリシアの双眸を陰鬱な瞳で見据える。


「お戻り下さい、エリシア様」

「……私は、王都を追放された身です」

「それが何だと言うのですか」

「何って、私は“偽物の聖女”だと――」

「貴女の手には、聖女の刻印があります。それ以外に理由は必要ありません」


 ああ、そういうことか――。男の暗い瞳を見つめながら、エリシアは思う。そして、力なく笑った。薄っすらと。誰にも気付かれないほど、小さく。


 彼等にとって大事なのは、“聖女”という存在なのだ。それが誰であろうと構わない。中身など関係がないのだ。偽物でさえなければ、誰でも。

 エリシアの手に刻まれた聖女の刻印が、どんなに擦ろうとも消失しないことは、聖導院に属する全ての神官が知っていることだ。無論そこには大主教や、王国を統べる国王、王太子も含まれる。“消えない刻印”は、聖女を聖女たらしめる何よりの証左だ。恐らくあの異邦の女は、その刻印さえ偽物だったのだろう。しかしエリシアの手に刻まれたそれは、決して偽りなどではない。


 彼等には“中身”など必要ないのだ、と。化粧で隠した手の甲の刻印にそっと触れながら、エリシアは静かに瞼を閉じる。彼等が必要としているのは、“エリシア”ではなく“聖女”だ。たとえ能力が開花していなくても。その見込がまるでなかったとしても。聖女を聖女たらしめる証左さえあれば、それでいいのだ。聖女としての“皮”さえあれば、それでいい。


 すとん、と何かが胸の底に落ちた気がして、エリシアはふふっと再び笑う。そうしてゆっくりと瞼を上げると、決意のこもった瞳で、使者の双眸を真っ直ぐに見据えた。


「――聖導院へは、戻りません」


 しんとした空気の中に、澄んだ声がやさしく響き渡る。それでいてその声は、実にきっぱりとしていた。凛とした心の芯が、そのまま表へ出てきたような、穏やかでありながらも頑なな声。


 男を見つめるエリシアの瞳には、諦念の色が濃く滲んでいた。或いはそれは、彼等へ対する――人の世に対する――哀れみだったのかもしれない。胸の中は、不思議とすっきりしていた。まるで憑き物でも落ちたみたいに。今なら空を飛べるような、そんな気さえした。


「王命に逆らうおつもりですか」

「私はもう、貴方がたが望むような、清い人間ではないのです」


 知ってしまったのだ。“聖女”としてではなく、“エリシア”として求められることの喜びを。その幸福を。その尊さを。


 それはある意味彼等にとって、最も危険とする“猛毒”だっただろう。彼等には“エリシア(中身)”など、必要ないのだから。聖女としての皮を被るだけの人間に余計な感情が芽生えるのは、ただただ面倒でしかないだろう。傀儡に感情は無用だ。感情があれば彼等の操り人形にはなれない。


「もういいだろ。話したって無駄だ」


 男の後ろに控えていた別の使者が、目深に被っていたフードを脱ぎながら前へ進み出る。聖職者らしからぬ巨躯をした彼は、恐らく神官に扮した護衛役の武人だろう。神聖な純白のローブを邪魔だと言わんばかりに払い除け、荒々しい仕草で、筋肉の盛り上がった腕をエリシアへと伸ばす。そこには“聖女”に対する敬いどころか、“人”に対する気遣いすらない。


 まるで物を扱うようんだ、と思いながら、エリシアは一歩、また一歩と身廊を後退る。暗鬱とした目の男は、巨躯の男を静止する気はないようで、興味なさげに目を逸らす。周囲に出来た群衆もまた、誰もエリシアを助けようとはしない。ただただ冷たい顔で二人を見遣り、或いは口を寄せ合ってひそひそと何かを囁きあっている。


 裏口は教会の奥にあるけれど、そこは常に施錠されており、唯一の鍵を持っているのは老婆だけだ。外へ逃げ出すには、村人の作る人垣を、そしてその前に立ちはだかる男二人を超えてゆかねばならない。しかし、屈強な武人ならまだしも、非力なエリシアにそんなことが出来るはずもなく。じりじりと歩み寄る男と向かい合ったまま、エリシアは奥歯を噛み締め、震える足を叱咤しながら身廊を後退る。


 こんな時でも、神は決して助けてはくれない。祭壇に佇んだまま、成り行きを静かに見下ろしているだけだ。


「くそっ! 焦れってぇな!」


 身廊も半ばを過ぎたところで、男は苛立たしげに舌打ちをこぼし、精悍な顔を怒りで歪める。そうしてローブの下に隠し持っていた剣を鞘から引き抜くと、群衆から小さな悲鳴が上がった。


 彼等には王命に逆らうつもりはなくとも、言いつけ通りにエリシアを連れ帰らなければ、任務失敗として何らかの罰が下されるのは明白だ。意図的に逃がしたのではないか、と、あらぬ疑いをかけられる可能性だって十分にある。故に彼等は、どんな手を使ってでもエリシアを連れて帰らねばならない。その為ならば、腕や足の一本くらい傷つけたって、彼等には何の支障もないのだろう。エリシアの命さえあれば、それでいいのだ。


 このまま後退っても、いずれ講壇に行き着くだけだ。その奥には大きな祭壇があり、それを囲むようにランセット窓のついた巨大な壁が聳え立っている。視線の先には屈強な男と、それから、侮蔑のこもった目で成り行きを見守る村人のかたまり。意を決してそこに突入をしても、どうせ寄って集って取り押さえられてしまうのが落ちだ。誰も助けてはくれないだろう。逃げ出すエリシアを捕らえて差し出せば、敬虔な信徒として、或いは勇敢な国民として、聖導院や王室から何かしらの褒賞が与えられる可能性もあるのだから。天秤にかけた結果なんて、考えるまでもない。


 誰も、誰も助けてはくれないのだ。村人も、神官も、そして神さえも。誰もエリシアを助ける気などない。誰ひとりとして――。


 ふと、美しい赤い瞳が脳裏を過ぎり、エリシアは弱々しく苦笑をこぼす。今は真昼だ。太陽光の苦手な彼が、その身を危険に晒してまで、こんなところへ来るはずがない。そもそもこんな状況に陥っているだなんて、彼は知る由もない。

 最後にもう一度だけ、逢いたかった――。一歩、また一歩と後ろへ進みながら、エリシアは力なく笑う。初めて自分自身を見つめてくれた、誰よりも大切で愛おしい彼に。もう一度だけ、逢いたかった。


「足くらい良いだろう?」


 階段の端に辿り着き、逃げ場を失って足をとめたエリシアを見下ろしながら、男は嘲笑の滲んだ声でそう吐き捨てる。怖くないわけではない。足も手も肩も、さっきからずっと震えている。それでもエリシアは、屈強な男の小ぶりな目を睨めつけ、ぎゅっ、と力強く拳を握った。

 誰も助けてはくれない。こんなにたくさん人がいるのに。誰も、誰も助けては――。


「斬り落とすなよ」

「へいへい」


 振り上げられた剣が、エリシアを狙い澄ます。空気を呑む気配がする。一人ではなく、たくさんの。静寂に包まれた教会内に、ぴん、と張るように。


 ステンドグラス越しに差し込む陽光を浴びて、鋭い剣が妖しく光る。その悍ましい輝きから、目が逸らせない。見ていたくはないのに。視界から遠ざけてしまいたいのに。けれども身体は、まるで空に縫い止められでもしているみたいに、びくともしない。足も、腕も、顔も、瞳も、何もかも。ただただ、今にも振り下ろされそうな剣を見上げていることしか出来なくて。


 これで全て終わりなのか、と思った途端、頭の中にあたたかな記憶が一気に溢れ出す。ラゼルと出会った月夜のこと。彼と他愛もない会話をしながら散歩をした時のこと。見目が微妙だとからかいながらも、最後の一粒まで綺麗に手料理を平らげてくれた時のこと。彼の逞しくも優しい腕の中で眠りについた時のこと。エリシアはエリシアだろう、と言い切ってくれた時のこと。


 命を奪われるわけでは、ない。けれどこれはきっと走馬灯なのだろう、とやわらかく微笑みながら、エリシアはそっと目を閉じる。恐ろしいものをずっと見ているくらいなら、瞼の裏の暗闇を、彼との思い出でいっぱいに埋める方が、よほどいい。最後の最後まで、ずっと。そうすればもう、怖くない。


 空を斬る音がして、エリシアは握り締めていた拳を徐ろに開く。暗闇に浮かぶ愛しい男のかんばせを、ルビーのように美しい赤い瞳を、優しく見つめながら。鋭い刃が身を割くその瞬間を、静かに待った。


 けれど、そんなエリシアの耳に届いたのは、肉を裂く音ではなく――聞き馴染みのある、低く落ち着いた男の声だった。


「――相変わらず愚かな生き物だな」

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