崩壊の使者
いつもは人通りの疎らな中央広場に、たくさんの人が集まっている。
真ん中に設えられた小ぶりな噴水を起点に、四方八方へと伸びた色とりどりのガーランド。広場を取り囲むようにして連なる幾つもの露店。傍らに佇む教会からは清らかな聖歌が響き、子どもたちの撒いた鮮やかな花弁がふわふわと宙を舞っている。
春の訪れを喜ぶ“豊春祭”は、王都をはじめ、国中の町村が住民総出で祝うのが習わしだ。無論、エリシアの住むエデル村もまた例に漏れずそうであり、近隣の街へ出稼ぎに行っていた若者も多く戻って、それぞれが与えられた役割に精を出し、一年に一度の祝祭を大いに盛り上げている。
「春の女神からの贈り物です。どうぞお受け取り下さい」
教会へ訪れた村人ひとりひとりにプレゼントを手渡しながら、エリシアは久方ぶりの豊春祭を満喫していた。午前中は老婆と共に贈り物用のお菓子を焼き、昼は露店で串焼きと焼き立てのゴーフルを食べ、そして午後からは教会の入口で、せっせと用意した贈り物を笑顔とともに配る。子どもにはクッキーを、大人には青いカーネーションを一輪。祝祭のメインである豊春の舞や、聖歌隊による合唱といった主役を飾るわけではないけれど。それでも王都追放以来初めて参加する豊春祭は、エリシアの胸を踊らせた。
“聖女”だった頃の豊春祭は、もっと形式的な儀式ばかりで、とても楽しいものとは言えなかった。朝から晩までひたすら祈りを捧げ、その合間の僅かな時間には、大主教の用意した祝辞を神官たちの前で読み上げる。国王や王太子が大聖堂を訪問すれば謁見し、求められれば豊春の舞を踊ることだってあった。能力の開花していないエリシアに、誰も、何も期待はしていなかったけれど。ただ“聖女”というだけで、その皮を演じさせることに、大主教も神官たちもみな執心していた。
大聖堂のある高台から王都の中心地を見下ろす度、そこで大々的に行われている賑やかな祭を、それを楽しんでいる民達を、エリシアはとても羨ましく思っていた。聖導院に連れて行かれるまでは毎年両親と共に参加していたので、その楽しさを、面白さを知っている分、尚の事寂しくてしかたなかった。
「そろそろ休んだらどうだい、エリシア。ずっと立ったままじゃきついだろう?」
花屋の女店主に声をかけられ、エリシアはぱちりと目を瞬かせる。ふと気になって、広場の時計台に目を向けてみれば、プレゼント配りを始めてからもう一時間以上も時間が過ぎてしまっていた。
「もうこんなに時間が経っていたんですね……」
「なんだい、気付かなかったのか?」
身廊から出てきた男が、エリシアの呟きにくつくつと笑う。
「随分と真面目なお嬢ちゃんだ」
「そうだよ。この子はあんたと違って良い子なんだから」
女店主と男の遣り取りに、エリシアはふふっと顔を綻ばす。
王都を追放されて以降、外に出ることも人と関わることも避けていたせいで、エデル村の豊春祭に参加するのは、もちろんこれが初めてのことだ。去年の今頃は、カーテンを締め切った真っ暗な部屋の中で、ひとり孤独に蹲っていた。村の賑わいを、そこで祝われている神々を拒むように。毛布に包まって、ただただじっとしていた。
まさかその一年後に、プレゼントを配ったり、村人たちと談笑したりして、豊春祭を心の底から楽しんでいるだなんて――。籠の中にしまわれた青いカーネーションの束をそっと見下ろしながら、エリシアは今頃寝ているであろう男の美しいかんばせを脳裏に思い浮かべ、静かに目を細める。もし、ラゼルに出会っていなかったら。そのことを考えると、とても恐ろしい。
「さて、そろそろ店に戻ろうかね」
そう言って、女店主がやる気を出すように腕捲くりをした――その時だった。
中央広場を包む和やかな賑わいの中に、それらとは違うざわつきが聞こえ、エリシアはカーネーションに伸ばそうとしていた手をはたと止める。はじめは、ただの聞き間違いかと思った。それくらい小さなざわつきだった。けれども、やがてそれは大きな波となって広場を呑み込み、教会の入口に立つエリシアのもとまで波紋のように押し寄せてくる。
「何かあったのか?」
「さあ、何だろうねえ」
口々に囁く二人をよそに、エリシアは広場の中央にじっと目を凝らす。小ぶりな噴水の、すぐ隣。そこに何故か、不自然な人垣の割れ目が出来ている。まるで誰かの為に開けられたような、意図的に作られたそれ。
さらに凝視していると、その割れ目の只中を歩む人影が目に留まった。二人連れの男のようで、どちらも揃いの白いローブを身に纏っている。袖や裾を囲うように金糸の縫い付けられた、ゆったりとした作りの純白のローブ。
それを認めた瞬間、エリシアは息を呑んだ。心臓が、胸を突き破って飛び出してきそうなほど、激しく鳴っている。
「おや、あれは聖導院の神官様じゃないかい?」
「何でそんなお偉いお方が、こんな辺鄙な村に……」
身体が、小刻みに震えている。なんで、どうして。そんな疑問が次から次へと湧き上がってくるけれど、ぐちゃぐちゃな頭では何も考えることが出来ない。ただただ疑問だけが、身体中を駆け回っている。
王都を追放されてからこの方、聖導院から使者が来たことも、手紙が送られてくることも、一度だってなかった。“本物の聖女”である異邦の女が現れた以上、彼等にとってエリシアはもう不要の存在でしかない。そんな彼女を追放後も気にかけるような慈悲深い人達でないことは、エリシア自身がよくよく知っている。
ならば、どうして――。迷いのない足取りで広場を横切り、教会の階段を登ってくる男達を見つめながら、エリシアは唇をきつく噛み締める。他の誰かに用事があって来たのではないだろうか。たとえば村長や、或いは、長年教会を手入れしてくれていた敬虔な老婆か。きっとそうだ。そうに違いない。
必死にそう思い込もうとしたエリシアは、しかし彼等が目の前で足を止めた瞬間、絶望に打ちひしがれた。力なく垂れた腕から籠が滑り落ち、鈍い音を立てて床の上に転がる。足元に散らばった小袋やカーネーションが、まるで彼女の心そのものを表しているようだった。
「お久しぶりでございます、エリシア様」
男の一人が、恭しく頭を下げる。そのくせエリシアを見据える瞳に、敬いの色などまるでない。どちらも見知らぬ顔だったが、胸元に縫い付けられた紋章は、紛うことなく聖導院のそれだった。何度も何度も目にした、記憶から消し去りたくても出来ないほどくっきりと焼きつけられた、忌まわしい紋章。
「……何の、ご用でしょうか」
必死に絞り出した声は、ひどくか細いものだった。辺りはしんとしている。空気がぴんと張り詰め、とても息苦しい。
けれども男はそんなエリシアを気遣うこともなく、懐から一枚の紙を取り出すと、筒状に巻かれたそれを開いて、エリシアの前に突き出した。
「――国王陛下の命により、聖女・エリシア様をお迎えに上がりました」