あたたかな幸福
ラゼルと出会ったのは、猛暑の続いた夏が漸く陰りを迎え、山々を彩る錦秋の気配が漂い始めた頃のことだった。
王都を追放されて、凡そ一年半。その間のエリシアは、まるで廃人のようにただただ虚しい毎日を過ごしていた。外に出るのは買い出しと薬草摘みの時だけで、人と接することも必要最低限に留め、もちろん娯楽に時間を費やすこともない。真昼でも部屋中のカーテンを締め切り、薄暗い部屋の中で日がな一日蹲っているばかり。村に教会があることは知っていたけれど、祈りに行こうなどという気持ちは微塵も湧かなかった。それどころか、教会の前を通ることも、外観を目に入れることさえ避けてもいた。――全てを思い出してしまうから。忘れたくても忘れられない、憎悪と侮蔑の入り混じった冷たい視線の数々を。そして、自分自身には何の存在価値もないのだということを。
そんな日々を過ごしていたある夜、エリシアはふと、いつもとは違う何かを感じた。虫の知らせ、というのだろうか。異様な胸騒ぎを覚え、エリシアは何故かいてもたってもいられなくなった。ずっと部屋に閉じこもってばかりいた、廃人のようだったあのエリシアを。そんな彼女を屋外へまろび出させるほど、その胸騒ぎは彼女の中の何かを駆り立てた。
その強い衝動だけを頼りに、エリシアは足の赴くまま夜道を進んだ。どこへ向かおうとしているかなんて、当の本人にもまるで分からない。それでも立ち止まる気にはなれず、ランプの明かりで足元を照らしながらひたすら歩む。
空にぽっかりと浮かぶカスタード色の満月がとても美しい夜だった。雲がひとつもなく、無数に散らばる星々のきらめきが頭上を埋め尽くす、そんな夜。――青白い月明かりに照らされて、絹のような白銀はこの夜もまた、淡い光を帯びて艷やかに光り輝いていた。村の外れに植わる、樹齢百年以上もする巨大な楓の木の下で。
長い睫毛の下に覗く赤い瞳を見た瞬間、エリシアは思わず息を呑んだ。その色は、“人間”ではない者の印であると、よくよく知っていたから。大主教は事あるごとに言っていた。それは人ならざる者達の印だ、と。人類に仇をなす者達の印だ、とも。
けれども不思議と、怖いとは思わなかった。目の前にいる男が人間の敵だと分かっていても。彼が人知を超えた力を持つ――吸血鬼だと理解していても。男の赤い瞳を見つめていると、何故か心が少しだけ和らいだ。すぐそこに敵がいるのに。今にも取って喰われるかもしれないというのに。
薄闇の中で目を凝らすと、男の腕には赤黒い何かが滲んでいた。それが血だと気付いたエリシアは、彼のもとへ慌てて駆け寄る。そうすることに、迷いはなかった。ほんの僅かすら逡巡することも、全く。
傍らに膝をついて腕に触れようとするエリシアを、男は鋭い眼光で睨め付けた。しかし、振り払うだけの力はないようで、爪を立てることも、牙を剥くこともない。そのことに内心安堵しながら、エリシアは手早く袖を捲し上げ、出血のもととなっている傷口を検める。透き通るように白い二の腕に、ぱっくりと口を開けた一本の傷。負傷してから幾分時間が経っているのか、切り裂かれた布に付着した血は所々乾いて濁っている。
エリシアは、履いていたスカートの裾を裂いて作った布切れを近くの小川で濡らし、それで傷口を優しく拭ってから、持ち合わせの軟膏を丁寧に塗った。それは、裏庭で採った薬草を煎じて作った軟膏で、“聖女”だった時代に医師から教えてもらったものである。しかし本来それは、幾つもの薬草に加え、“本物の聖女”が持つ神聖な力を溶け込ませて完成するものだ。“偽物の聖女”であるエリシアにはそんな力を込めることなど出来るはずもなく、結局はただの薬草で作られた軟膏でしかない。特別なものでもなければ、効能に秀でているわけでもなく、薬屋で売られているそれより圧倒的に劣るつまらないもの。
それでも、彼の傷口を少しでも癒すことが出来るなら。塞ぐことは出来なくとも、痛みや疼きだけでも少しばかり和らげることが出来るなら。ただその一心で、水で清めた傷口に軟膏を塗っていると、
――人間が俺を救うつもりか。
僅かに掠れた低い声で、男は冷たく嘲笑った。けれどそれは、いったい誰を嘲笑っていたのか、エリシアには未だに分からない。人外の敵を必死に助けようとしているエリシアか、それとも、圧倒的に劣る存在の人間にいいようにされている自分自身にか。
――人間も吸血鬼も、関係ありません。
もう聖女ではないのに。その身分は、疾うに剥奪されているのに。それでも未だに“聖女”としての精神が残っていることに、エリシアはその時初めて気がつき、そして心がひどく痛んだ。そんなものが残っていたとて、いったい何になるというのだろう。そもそも“聖女”としての立場にあった頃ですら、誰にも必要とされていなかったというのに。
鬱々とした心地で、包帯代わりの切れ端を傷口に巻くエリシアは、しかし、ふと見上げたかんばせに、思わず手をとめる。切れ長の目が、何故か大きく見開かれていたせいで。
――もしかしてお前、聖女か。
どうして、と、喉元まで出かかった言葉を、エリシアは慌てて呑み込む。聖女の力なんて、これっぽっちも使っていないのに。そもそも“偽物の聖女”にそんな力など、ありはしないのに。
――違います。私は“聖女”なんかではありません。
否定しようと紡いだ声は、しかし思っていたよりも弱々しくて、エリシアは困惑しながら苦笑をこぼす。ただの勘違いだろう。ただの勘違いに決まっている。この村にエリシアの過去を知る者は誰もいない。それが村人でも何でもない吸血鬼なら、尚の事。
けれども、エリシアを見つめる男の瞳は、少しも揺らがなかった。否定をしたにもかかわらず。冷めるどころか、寧ろ納得を深めているようにも見えて。
――嘘を吐くな。お前は“本物の聖女”だろう。俺には分かる。
きっぱりと言い放たれたその言葉に、その真っ直ぐさに、エリシアは心が震えた。ずっと欲しかった言葉だった。ずっとずっと求めていた言葉だった。“聖女”だった頃にはついぞ聞くことのなかったその言葉を、初めて会ったばかりの男から、敵であるはずの吸血鬼から貰うだなんて。涙を堪えるのに必死だった。平静を取り繕うのに必死だった。
けれど、彼はきっと気付いていただろう。涙を堪えていたことにも。平静に縋りつこうとしていたことにも、きっと。彼なら――ラゼルなら、容易に見抜いていたに違いない。
「――エリシア」
名を呼ばれた気がして、エリシアはハッと我に返る。いつの間にか手元に落としていた視線を上げて、目の前に腰掛けるラゼルの美しいかんばせを見つめ返せば、彼は僅かに片眉を動かして、それからふっと漏れるように薄く微笑んだ。警戒や皮肉の色の濃かった赤い瞳は、しかし今はもう、その影は少しもない。
お前は“本物の聖女”だろう――。何故彼があんなことを言ったのか。はじめはただの当てずっぽうだろうと思っていた。いい加減なことを言っているだけに違いない、と。そもそもエリシアは、“本物の聖女”などではない。“偽物”というレッテルを貼られ、王都を追放された役立たずの――何の価値もない――身だ。故に、彼の言葉を信じることはしなかった。
けれどもラゼルは、未だにエリシアを“本物の聖女”として扱う。時には、「お前は本物の聖女で間違いない」と言い切ることさえある。曰く、あの夜負っていた傷を癒せるのは聖女が持つ“神聖な力”だけなのだという。何故ならばあの傷はただの切り傷などではなく、魔獣によってつけられたものだったからだ、と。傷口に軟膏を塗ってすぐそれが塞がったわけではないけれど。それでも軟膏を塗ったおかげで、随分と痛みが引いたようだった。故に彼は、その瞬間に確信したのだという。エリシアが“本物の聖女”である、と。何度否定をしても、少しも揺るがない強固な確信を。
「そういえば、サンドイッチを作ってきたんです! 一緒に食べませんか?」
本物の聖女か、それとも、偽物の聖女か。
ラゼルの言葉を聞いてから暫くは、そのことを幾度も考えては涙を流すこともあったけれど。ゆっくりと腰を上げ、部屋の中央に置かれたテーブルに歩み寄りながら、エリシアはそっと微笑む。今はもう、そんなくだらないことで悩み涙することはなくなった。彼と過ごすうちに、本物か偽物かなんて、どうでもいいと思えるようになったのだ。
たとえば二人で食卓を囲んだり、近くの湖まで夜の散歩に出かけたり、近隣の街で買ってきた本を交互に読み合ったり、彼の暖かな腕の中で優しい眠りについたり。そんな穏やかな毎日があれば――そこにラゼルさえいてくれれば、他にはもう何もいらなかった。必要だと思わなくなった。“聖女”という立場も、“婚約者”という存在も、教会も聖導院も神官大主教も国王も、何もかも。
――私が“本物の聖女”でなくても、ラゼル様は幻滅しませんか?
――聖女云々以前に、そもそもエリシアはエリシアだろう。
そう言ってくれた、ラゼルのおかげで。“聖女ではない自分”と、漸くエリシアは向き合えるようになったのだ。
“聖女”という立場は、その存在は、ただの“呪縛”でしかなかったのだ、と。ポットに入れてきたお湯で紅茶を淹れながら、エリシアは静かに目を細める。刻印が現れてからずっと、その立場に雁字搦めにされていた。皆が求めていたのは、“聖女”という唯一無二の存在であって、エリシア自身ではない。彼等が見ていたのは“聖女”という尊い存在だけであって、エリシア自身を見る者は誰一人としていなかった。国王も、大主教も、神官達も、そして婚約者であった王太子でさえも。
“聖女エリシア”ではなく、ただの“エリシア”という存在を真っ直ぐに見つめ、そして必要としてくれたのは、ラゼルだけだった。そして、“自分自身を求めてくれる”ということが、どれほど嬉しいことであるのかを教えてくれたのもまた、彼だった。
だから、ラゼルの為ならば何でも出来る、と、エリシアはそう思っている。たとえそれが、血肉を与えることであったとしても。寧ろ、彼の手にかかり、その身の一部になれるのならば本望だ。
そう言ったら、彼はきっと怒るだろうけれど。ふふっ、と小さく笑みをこぼしながら、エリシアは席についたラゼルの前にティーカップを差し出す。
「相変わらず紅茶を淹れるのだけは上手いな、お前は」
「酷いですね、ラゼル様ったら。それじゃあ私が、紅茶を淹れることしか取り柄がないみたいじゃないですか……」
「なんだ、事実だろう?」
くすりと笑って、ラゼルは小皿に取り分けられたサンドイッチに齧り付く。確かに紅茶を淹れる以外に、エリシアにはこれといった特技は何もない。絵が上手いわけでも、楽器を奏でるのが上手いわけでもなく、淑女に必要不可欠な裁縫に至っては「不得手にもほどがある」と言われるほどだ。料理だって、人様に振る舞えるほどの腕はない。
けれど――。ティーカップの薄い縁に唇を寄せながら、エリシアは真向かいに座るラゼルの顔を、そっと上目で見遣る。けれどラゼルは一度だって、エリシアの作った手料理を「不味い」と言ったことはない。不格好な見た目の料理をからかうことはあっても、「美味しくない」と言うことも、用意された料理を残すことも、一度だってなかった。
現に今も彼は、ハムとレタスを挟んだサンドイッチをぺろりと平らげ、今度は卵とクレソンのサンドイッチに手を伸ばそうとしている。
「美味しいですか?」
「……さあな」
ぶっきらぼうな返答に、それでもエリシアはにっこりと、心の底から溢れ出す想いのままに笑みを浮かべる。
幸せだった。泣きたくなるくらい、幸せで幸せでたまらなかった。どんな言葉を使っても言い表すことの出来ない、美しく優しい、とてもあたたかな幸福。
いつまでもこの幸せが続いてほしい、と、エリシアはつくづく思う。ずっとこのまま、彼の隣で笑っていられれば――それ以上に望むことはもう、何もない。