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白銀の男

 日が暮れるのを待ってから、エリシアは大きなバスケットを手に家を出た。


 王都から随分と離れた――馬車に乗って数日はかかる――辺境の地にあるエルデ村は、三方を囲む奥深い山々の恵みと、そこから流れる清らかな水によって支えられた、自然豊かな小村である。

 近隣の街々へ稼ぎに出た若者以外は農業や機織りに従事する者が多く、太陽の動きを軸にした規則正しい生活を基本としている村人が殆どだ。王都のように娯楽に富んでいるわけではないのも理由のひとつだろう。故に暮夜ともなると、村の中央広場にすら人の姿は全くない。きらびやかで華々しい王都の夜を知っていれば、その閑静な姿にはわびしさを感じることだろう。

 けれどエリシアにとってその静寂は、却って都合が良かった。

 

 古い石畳の敷かれた広場を通り抜け、すっかり夜に呑まれた細道を足早に突き進む。周囲を埋め尽くす息苦しいほどの闇の中から、野生動物や虫の鳴き声が時折聞こえてくる。鬱蒼とした丈高い草、縦横無尽に伸びる蔓性の植物、静かに眠りにつく色とりどり花々。それら全てが今は夜の帳に包まれ、宵闇の中に薄く透けている。今夜は月明かりが美しい。ふと見上げると、細い雲の切れ間から、カスタード色の半月がぽっかりと顔を覗かせていた。


 山の袂まで来たところで、エリシアは歩調を緩め、少しばかり乱れた呼吸をゆっくりと整える。吹き抜けるやわらかな夜風がかさかさと草花を揺らし、ほんのりと火照った頬をやさしく撫でてゆく。夜道が怖かったわけでは、決してない。獣が恐ろしかったわけでも、ない。いつからそれらに慣れてしまったのだろう、と、小さく苦笑をこぼしながら、エリシアは草々に囲まれた一本道へ足を踏み出す。僅かばかり――殆ど気にならない程度の――傾斜のついた小道の先には、夜空を覆い尽くさんばかりに枝を伸ばした巨大な楠木が植わっている。


 その枝葉の下に、小さな平屋がひとつ建っていた。決して上等とはいえない造りの、それでも人が住むには十分すぎる頑強さを保った古い小屋。表に面して設けられた小窓には板が打ち付けられ、中の様子は伺えない。室内から漏れる僅かな光すらなく、けれどもエリシアは扉の前で足をとめると、なんの躊躇いもなく、錬鉄製のドアノッカーを慣れた手つきで二度叩いた。すぐに辺りは、しんとした静寂に包まれる。虫の鳴き声も、鳥の鳴き声も、聞こえない。とても静かな夜だ。静かで美しい可惜夜。


 少しの間をあけて、内側から錠の開く鈍い音が聞こえた。ゆっくりと扉が引き開かれ、その隙間から濃密な闇が少しずつ顔を出す。月明かりも、照明の灯りもない、真っ暗な世界。そんな暗闇の中から、ひとりの男がすっと姿を現した。エリシアよりも頭二つ分は高いだろう長駆の、バランスの良い身体つきをした男。降り注ぐ月明かりに照らされて、絹のように美しい白銀の髪の毛が淡く光り輝いている。陶器のように滑らかな、白く透き通った肌。長く濃い睫毛に囲まれた切れ長の目。その中央で煌めく赤い瞳。すっと通った高い鼻筋と、形の良い薄い唇。いつ見てもこの人は本当に美しい、と、その麗しい美貌を見つめながらエリシアはつくづく思う。この世の者ではないと言われた方が、よほどしっくりするほどだ。

 ――実際彼は、“人間”という種族とはかけ離れた存在なのだけれど。


「なんだ、もう来たのか」

「ええ。今日は早めに仕事が片付いたので。……もしかして、まだ寝ていましたか?」


 そんなことはない、と言いながら男は扉の前を離れ、真っ暗な部屋の中を迷いのない足取りで進んでゆく。その背中を追ってエリシアは室内に足を踏み入れると、後ろ手に閉じた扉に錠をかけ、手近にあるランプに火を灯す。それでも部屋の中を歩き回るには、灯りの明るさはまだまだ心許ない。


「ラゼル様、明かりを点けても構いませんか」


 ラゼルと呼ばれた男はただ頷くと、壁際に置かれたベッドに悠然と腰掛ける。その様子を薄明かりの中で見届けてから、エリシアは近くの棚の上にバスケットを置くと、慎重に室内を歩いて周り、各所に置かれた灯りのスイッチを一つずつ押してゆく。


 最後の一箇所を終え、煌々と――それでも幾分弱い――照らされた室内を改めて見回したエリシアは、相も変わらず生活感の欠けたそこに小さく息をつく。誰がいつ使っていたのかも分からないような古小屋だ。置かれているのはベッドとテーブル、小ぶりな棚、それから年季の入った臙脂のソファだけで、それ以外の調度品はなにもない。初めてここを訪れた時に比べれば、幾分まともになった方だけれど。それでも殺風景なことには変わりない。


 エリシアはバスケットの中にしまっていた花瓶と小さな花束を取り出すと、備え付けの簡素なキッチンで水を注ぎ、庭で摘んだ色とりどりの愛らしい花をそこに活ける。ずっと花を飾りたいと思っていたけれど、厳しい冬の間は商店にすら花が売っていなくて残念に思っていた。けれど漸く、心待ちにしていたこの季節が――新しい命の芽吹く、暖かい春が――やってきた。やっと、この殺風景な部屋に彩りを添えられる。


 花瓶をテーブルの中央に置き、そこでエリシアは、はたと手をとめた。春を待ち侘びるようになったのは、果たしていつぶりのことだろう。王都を追放されてからずっと、春という季節は辛く苦しい、悲しみだけが溢れる季節だったというのに。日がな一日部屋に閉じこもっては、ただただ涙を流しているだけの、そんな季節でしかなかったのに。


 それもこれも全て――。手元に落としていた視線を逸らし、エリシアはゆっくりと顔を動かして、ベッドに腰掛けるラゼルへ目を向ける。それもこれも全てこの人のおかげだ。何もかも。この人がいたから、心の底から純粋に春を喜べるようになった。


「急にニヤけるな。気味が悪いぞ」

「もお、失礼ですね、ラゼル様って」


 ぷいっと唇を尖らせて、エリシアはバスケットの中から取り出した治療セットを手に、ラゼルの座るベッドへ歩み寄る。


「薬を塗るので、腕を出していただけますか」


 彼の足元に膝をついて腰を落とし、エリシアは指示通りに剥き出された白い腕にそっと指先を触れさせる。服を着ているとあまり分からないが、その実彼の体躯は意外にも男らしく、随分と逞しい。差し出された腕にも、屈強な兵士ほどではないが、それでもしっかりと筋肉がついていて、初めてそれを見た時には驚いたものだ。


 そんな色白の二の腕に、生々しい傷がひとつ刻まれている。抜糸は済んでおり、当初よりかは幾分塞がってはいるものの、完治にはまだまだ程遠く、無茶に動かせば、またいつぱっくりと開いてしまうか分からない。


「痛みはだいぶ治まりましたか?」

「以前よりはな。時々疼く程度だ」

「そうですか。それなら良かったです」


 薬を塗る手をとめて、ラゼルの顔を見上げながら、エリシアはにっこりと微笑む。そんな彼女をじっと見つめていた彼は、しかしややして小さく吹き出すと、優しく目を細めながら、エリシアの柔らかな頬を軽く摘んだ。


「……随分素直に笑うようになったな、お前は」


 突然の言葉に、エリシアは思わず目を見開く。

 よく笑うようになった、と、そう言われたのはなにも初めてのことではない。教会で会ったあの老婆にも、広間で時折顔を合わせる村人にも、通っている商店の店主にも、幾度かそう言われたことがある。よく笑うようになったな、と。以前よりも表情や雰囲気が柔らかくなった、とも。


 けれどもラゼルにそう言われるのは、記憶にある限り、これが初めてのことだった。褒められたような気がして、つい胸が弾んでしまう。普段からそういうことを素直に口にするような男ではないから、尚の事。


「ラゼル様にそう言っていただけて、とても嬉しいです」


 小恥ずかしくなってはにかめば、ラゼルは僅かに驚いた顔をして、すぐに眼を背けてしまった。ルビーのように美しい真っ赤な瞳は、人間のそれとはまるで違うけれど。でもその瞳が愛しくて愛しくてたまらない、と、エリシアは徐ろに瞬きながら、胸の内でひっそりと呟く。

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