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追放された偽りの聖女

 大聖堂の鐘が鳴っていた。

 誰もが待ち望んだ陽春の訪れを祝福するかのように。或いは、長く厳しい冬を耐え凌ぎ、漸く芽吹いたたくさんの尊い命をあたたかく迎え入れるかのように。


 その重厚で美しい音色を聞きながら、エリシアはそっと目を閉じた。慣れの染み付いた唇は自ずと動き、聖書に綴られた一節を諳んじる。神への祈りの言葉など、もう何の意味も持たないと分かっていても。それでもいつも通りに、彼女はするすると言葉を紡いでいく。祭壇に飾られた、尊き神の巨像へと向かって。祈りではなく、別れの懺悔として。


 眠りから目覚めた街には活気が溢れ、人々は暖かな陽光に笑顔をこぼし、色鮮やかな景色に心を踊らせていた、そんな穏やかな春の日。

 ――聖女エリシアは、全てを失った。


「偽物の聖女よ。神の御意に反するお前を、この地から追放する!」


 冷淡な声で突きつけられた、そのたった一言によって。



***



 聖女の刻印が現れたのは、六歳の誕生日を迎える少し前のことだった。


 その日を境に、エリシアの生活は一変した。大好きだった両親の傍から無理矢理引き離され、王都の中心部にある聖導院(せいどういん)で日がな一日聖女教育に励むだけの日々。同じ年頃の子のように無邪気に遊び回ることも、甘くて美味しいお菓子を食べることも、身近な人間と何気ない雑談をすることさえ許されなかった。一挙手一投足に至るまで何もかもを監視され、少しでも“聖女らしくない”行動があれば折檻を喰らう。ただただ辛い日々だった。そこにはなんの色もなかった。白黒だけが埋め尽くす、味気のない世界。


 それでも、彼女がこれまでの聖女達と同じ才能を持っていたならば、もっとまともな生活を送れていたことだろう。神託を授かれるのは、神に選ばれし者だけだ。故にその身分は王家と同等に尊いものとされている。そんな聖女をぞんざいに扱うことは、本来許されない。それは神の御意に反することでもあるからだ。


 しかしエリシアは、エリシアだけは、違っていた。何故ならば彼女には、刻印こそあれど、聖女としての能力が花開くことはついぞなかったからだ。どんなに修行を重ねても、どんなに神へ祈り続けても、少しも。そんな彼女に、聖導院を統べる大主教も、神の恩恵を受ける国民も、皆一様に呆れ、ひどく蔑んでいた。彼女の周りには、誰一人として味方はいなかった。婚約者である王太子でさえ、エリシアを擁護することは一度としてなかった。


 彼女は偽物の聖女だ。あの刻印はきっと偽物に違いない。誰も彼もが、口々にそう言っていた。影に隠れて囁くならまだましな方で、時には彼女の眼の前で堂々と嘯く者さえいた。どうせ入れ墨かなにかでしょ、と、手の甲に刻まれた印を、意地悪な侍女に何度も何度も執拗に擦られたこともある。偽りの刻印ではないとどんなに主張をしても、エリシアの言葉に耳を貸す者はひとりとていない。王国中の全ての人間が、彼女を“偽物”だと決めつけてやまなかった。


 そしてそれは遂に、“悪意のある噂”などではなくなった。

 現れたのだ。現れてしまったのだ。――“本物の聖女”と名乗る、異邦の女が。


 彼女の手の甲には、エリシアと同じ聖女の刻印があった。しかしただそれだけで、彼女が“本物”である保証にはならない。何故ならばエリシアのように、刻印はあっても能力が覚醒しない場合もあるからだ。花開かなければ、神から託宣を受けることは出来ない。それでは聖女失格なのだ。


 けれども彼女は、大主教や神官、貴族、そして国王や王太子の前で、見事に神の御言葉を授かってみせた。その上、本物の聖女にしか芽吹かせることの出来ない花をいとも容易く綻ばせ、病で苦しむ患者を特別に精製した聖水で癒やしもした。そのどれもが、エリシアには出来なかったことだ。神託を受けることも、花を開かせることも、患者を救うことも、一度だって出来たことはない。


 ――そしてエリシアは、彼女に全てを奪われた。

 聖女としての地位も、婚約者であった王太子も、何もかも。エリシアが持っていた数少ない全てのものを、ひとつ残らず。



「あら、今日もお祈りにきていたのかい」


 不意に声をかけられ、エリシアはそっと目を開く。腰を上げて振り返れば、春の木漏れ日の射す身廊に、柔和な笑みを湛えた老婆がひとり立っていた。


「本当に真面目な子だねえ」


 そう言って老婆はそっと笑みを深めると、手にしていた木桶を足元に置き、傍らの長椅子にゆっくりと腰掛けた。高窓から差し込む陽光が、色鮮やかなステンドグラスを透かし、一つに結わえられた老婆の白髪に淡い彩りを添えている。


 彼女はこの村に住む機織り職人で、神官もシスターもいない無人のこの教会を、それでも村の大事な拠り所だからと長年管理し続けている敬虔な信徒だ。随分と古い教会だけれど、それを全く感じさせない清らかな佇まいは、彼女の丁寧な手入れと心配りのおかげである。


 そんな老婆の顔を見つめながら、エリシアはふっとこぼれるように、優しく顔を綻ばす。彼女はこの村に逃げてきたエリシアを、事情も聞かずに匿い世話をしてくれた恩人だ。


「天気がとても良かったので、散歩を兼ねてお祈りにきました」

「そうかい。神様もきっと喜ばれているだろうさ」


 そんなことはありません、と、喉元まで出かかった言葉を呑み込んで、エリシアはゆるゆるとかぶりを振りながら、そっと右手を握り締める。

 ――御意に反した“偽りの聖女”が祈りにきたって、神は少しも嬉しくないだろう。顔すら見たくはないはずだ。刻印があるというだけで、“選ばれし者(聖女)”という尊い立場を、ずっと穢し続けていたのだから。本当は神のもとに来ることも、神に祈りを捧げることも許されないはずだ。


 しかし、そうと分かっていても、それでも日々の祈りを欠かさないのは、偏に――。

 脳裏を過った赤い瞳に、エリシアは微かに胸をときめかせながら、ゆっくりと振り返る。三方をランセット窓に囲まれたアプスの中央で、春の暖かな陽光を浴びて淡く光り輝く、巧緻な純白の主神像。広げられた左手は大地の守護を、天に向けられた右手は光への導きを示すその神々しい姿を見つめ、エリシアは静かに微笑する。


 神に救われたいとは、思わない。救われたいと望むことも、ない。自身の安寧を願うことは、疾うにやめてしまった。尊い地位を穢した人間を、神が愛し救うことなどないと、身を以て理解しているから。だからもう、自分のことはどうでもいいのだ。


 けれど――。徐ろに閉ざした瞼の裏に、色の白い端正な顔を浮かべながら、エリシアは胸の前で両手を握り合わせる。嘗て幾度となくそうしたのと、同じように。純粋な神の僕のひとりとなって。

 ――またこうして祈りを捧げる日々がくるだなんて。王都を追放された日には、思いもしていなかった。

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