スノードロップに、さよなら
夜明け前、まだ街も寝静まっているように暗く静かな中、青年が歩いている。
歩くたびに持っている花束が揺れてカサリと立てる物音さえも、周りに茂る木々に吸い込まれているような錯覚を覚える静寂。周りも足元も暗い中でも迷う事ない足取りは、青年がこの場所をよく知っていることを示していた。
「やっと、来れたよ。すぐに行くって約束守れなくて、すまなかった」
小高い丘の上、誰もいないのに隣に友人がいるような気軽さで、大きな石碑に話しかける青年の表情は穏やかだ。
先ほどからカサリと音を立てて存在を主張していた花束は、石碑の前に手向けられている。種類関係なく、色の鮮やかさだけで纏めたような印象の花束は、薄暗い中でも良く目立つ。
「こっちにも事情があったんだよ。その分、花束は立派なの見繕ったから」
返事をするかのように、ざあとひときわ大きく風が吹いた。その流れに沿うように視線を先へと向ければ、今さっき出てきた街が眼前に広がっている。
「……ああ、ここは街が良く見える。お前が、彼女が愛した街が」
ぽつりぽつりと明かりが灯り始めた街は、日の出とともに賑わいを増していくだろう。自分たちの守るべきものを明確にするため、考えこんで深みに嵌った頭を冷やすため、ただ一人になりたい時。理由は様々だったが、ここから見える景色を大事にしていたのは一緒だった。
石碑に背を預けて座り込んだ青年は、そのままぼんやりと眼前に広がる街並みを眺めている。どれくらいの時間、そうしていたのかは分からない。微かな物音だけで、今までのゆったりした様子が嘘のように素早く振り返った青年は、こちらに向かって来る人影を確かに捉えていた。
「あら? あなたもお花を手向けに?」
「ええ。約束していたのを、思い出しまして」
そっと腰を浮かせて場所を譲った青年は、目の前の少女の事をさりげなく観察する。ここは開かれた場所ではあるが、令嬢の足で来るには少々勾配がきつい。下に馬車を待たせているような音もしなかったから、この少女は最初から己の足だけでここに来たはずだ。
淡い色で染めたワンピースに装飾はなく、身なりだけで判断するならば、庶民だろう。頭から被っている布が、顔どころか視界すら隠してしまうのではないかと少々心配になる長さだけれど、特に不審な点は見当たらない。
手に持っているのは、両手に収まる程度の小さな花束。それも、自分で纏めたような簡素さがあった。
恐らくこの少女は、日課のようにこの石碑を参っているのだろう。もしかしたら、掃除をしてくれている人のなかの誰かなのかもしれない。そう考えて、青年はわずかに体から力を抜いた。
しかし、次に少女が発した言葉によって、その体は凍り付くこととなる。
「それは、今世の約束でしたか?」
「どうして、」
「わたしが、聖女の血筋だからでしょうかね」
少女が被っていた布をはらりと払う。僅かな光の中でも輝きを失わない白髪を見た瞬間、青年の瞳から涙がこぼれた。
*
「ほら、今度は僕の勝ちだ!」
「ここまで負け続けたじゃないですか」
やった、と喜びながら剣を掲げたのは、夕焼けを切り取ったような赤い髪を持った少年。勝ったことがとても嬉しいのだと全身で表現するように、剣を掲げたまま飛び跳ねている。
対して、尻もちをつきながら呆れたように見上げている少年は、悔しさを誤魔化すように自身の蜂蜜を溶かし込んだような金の髪をくしゃりとかき上げた。
「ラドが手加減してくれないからだ!」
「最初に手を抜くなと言ったのは殿下でしょうが」
「うっ……」
「まあ、約束は約束です。行きますよ、レオンハルト殿下」
ラド、と呼ばれた少年が告げた言葉にぱあと表情を明るくしたレオンハルトは、直後に首を傾げて何かを考えこむように俯いた。
うん、うん、と思い出すかのように何度か浅く頷きを繰り返した後、何かに気がついたようにハッと顔を上げる。
「ラド、僕は普通に話してほしいと約束したはずだけど?」
「そうさせたいなら手加減抜きで勝ってくださいね」
「ずるっ……くはないな。分かった、次は最初から全力で向かう」
レオンハルトは分かっていた。今までは第一王子殿下、と呼んでいたのを名前で呼ぶようになったのだって自分が言い出した勝負の報酬だというのも、最終的には勝ちを譲ってくれたのだとも。
だからこそ、レオンハルト殿下、と呼ばれたことは嬉しかったがそれ以上に悔しさもあったのだ。
そんな胸の内を知ってか知らずか、レオンハルトの事を本気で叩きのめそうとしていたラドは、ニヤリと笑う。
「その意気ですよ、レオンハルト殿下。
護衛がいるとはいえ、最低限自分の身は守れるようになってもらわないと」
「魔物か」
魔物、そう言葉にしたレオンハルトの表情は先ほどまでとは打って変わって固くなっている。それは、この国がずっと抱えている課題であり、自分を含めて王家の人間にとって最優先で取り組むべきことのひとつだ。
「護衛は、もちろんあなたの御身を第一に守ります。ですが、ただ守られるだけを良しとはしないでしょう?」
「ラドクリフ! 時間だぞ!」
「では、今日のところはここで」
自分に勝負を挑んできたのだから、と告げる代わりに折り目正しく礼をしたラドクリフは、自身を呼び掛けた声の主の方へ足早に向かって行く。そこには、ラドクリフの父親であり、この国の騎士団副団長の姿があった。彼もまた、魔物を倒すために日々努力を欠かさない人であり、息子であるラドクリフもその背中を追っている一人である。だからこそ、手合わせとはいえ第一王子であるレオンハルトと打ち合えるのだが。
それからというもの、レオンハルトは手の空く時間が出来るたびにラドクリフを探しては手合わせを願うようになった。
「ラド! 今日は何の稽古をする?」
「……弓で遠距離から狙われたときの対処法にしましょうか」
元々鍛錬を付けていた教師が騎士団から派遣されていたこともあり、剣を扱う腕が上達してきたという話が騎士団長に届くまで時間はかからなかった。教師が騎士に変わってラドクリフの担当になったのも自然の流れだったし、誰もそれを咎めることはなかった。
むしろ、歳が近いこともあってあえて二人で稽古を組ませていた節もある。おそらく言い出したのは騎士団長だが、その目論見通りに二人の腕は競うようにぐんぐんと上達していった。
初めは距離を取ろうとしていたラドクリフも、途中からは諦めたのかレオンハルトに対して随分と気安く接するようになっていた。
「ラド」
「レオンか。そんな難しい顔してどうした」
剣の稽古の付き合いから、いつの間にか第一王子の側近候補として立場を変えていたラドクリフは、今日も執務の手伝いをするべく王子の執務室に向かっていた。
廊下がざわり、と一瞬騒がしくなったかと思ったら、王子の仮面をしっかりと身に着けたレオンハルトが陛下と共に歩いているのが目に入った。同時にレオンハルトが気づいたようで、陛下と言葉を交わしてからラドクリフの方へと歩き出した。
「父上……陛下は、召喚の儀式を行う事を決めた、と」
「聖なる力ね。頼らずとも国を守れれば良かったんだがなあ」
魔物から国を守るための手段の一つである、聖なる力。その力を持って国全体に結界を張ることで、人々は魔物に怯えることなく生活できている。
遡れば建国の時代から頼りにしているその力は、どこからやってきてどう受け継がれているのか、研究は続いているがはっきりとした結果は得られていない。
魔物を討伐するための遠征なども使って力を持つ者を探してはいるが、ここしばらくの間は新しく見つけたという報告は上がっていない。
「ここ最近の魔物の力は増している。理屈では分かっているんだ。私達ではどうする事も出来ないと」
魔物が出現したという報告が上がる地域が、徐々に増えている。おそらくこの国を守っている結界が弱まっているのだろうが、自分たちでは結界の力を取り戻すことが出来ない。
レオンハルトは、次期王太子としてこの問題を解決しようと日々駆け回っている。もちろん、陛下だってそれは知っているはずだ。だが、現実として結界は弱まりつつあり、魔物と戦っている騎士団の疲労の色も濃くなっている。
「……召喚される側の気持ちを汲めるお前なら、きっと大丈夫だ。俺も、わずかながら力になる」
「そんな事を言うな。ラドには、いつも助けられている」
レオンハルトは、ラドクリフの前でしか弱った顔を見せようとしない。弟王子と妹姫との仲は良好だが、周りにいる人すべてを信頼できるかと聞かれたら、素直に頷けはしないだろう。
幼少期からの付き合いで、騎士団の中で揉まれた実直な性格を知っているからこそ、ラドクリフはレオンハルトの信頼を得た。
ラドクリフもそれを理解しているからこそ、公の場以外ではレオンハルトに気安い態度で接している。その時間だけは、レオンとラドという幼なじみでいられるのだから。
*
そうして、召喚されたのは、異世界の少女。
全く見知らぬ場所で囲まれた大人の数に圧倒されたように、栗色の瞳を大きく見開いている。元々色素が薄かったのだろうか、白い肌は血の気を失ったように青ざめて見える。
スッと陛下が頭を下げたことで慌てて少女も同じように頭を下げ、その動きが途中で止まる。
何か言葉を発したのだろう、唇は動いたがその音を聞き取ることは出来なかった。俯いたことでさらりと垂れた髪を掴んでは、その白い色を確認するように引っ張っている。
やがて、少女が動きを止め、まるで糸の切れた人形のように体から力が抜けた。そこで、一番に少女に走り寄ったのがレオンハルトだ。
少女は、レオンハルトの持つ夕焼けを切り取ったような赤い髪を見て、顔を引きつらせて悲鳴を上げようと大きく口を開いた。が、声が上がるよりも早くレオンハルトが少女の華奢な体を抱きしめた。
「私達の勝手に巻き込んで、申し訳ないと思っている。だが、お願いだ。力を貸してはくれないか」
栗色の瞳は、赤い髪から動かない。レオンハルトは、それでも辛抱強く言葉をかけ続けた。どうか、すまない、と懇願と謝罪の言葉を繰り返す。どれくらいの時間が経っただろうか、ラドクリフがそっと少女とレオンハルトの背に手を添える。ハッとしたように顔を上げたレオンハルトと、肩を震わせた少女の反応は正反対だったが、何故かラドクリフの顔を見るタイミングだけは同時だった。
そんな様子にふっと小さく笑ったラドクリフにつられるようにレオンハルトが表情を緩め、次いで少女がだらりと下げていた腕を上げた。
頬に一発くらいならこのままでも耐えられるか、と思ったラドクリフはそっと目を閉じる。だが、痛みの代わりに感じたのは、ぎゅっと手を握られる温かさ。
「――」
「ははっ、分かんねえなあ」
まずはお互いの言葉を知るところからか、と呟いたラドクリフにレオンハルトも頷き、何となく意味を感じ取っただろう少女も笑う。そうして三人がぎこちなくも笑い合う姿を見て、陛下やその場にいた者がようやく肩から力を抜くことが出来た。
*
言葉も通じない中で、人に囲まれて恐怖していた少女は、守るように抱きしめてくれた王子に気を許すのに時間はかからなかった。
「ヒナ、か。その名の通りお前に懐く雛のようだな」
「よくない、言葉、分かった」
「ははは。そうか。レオンハルトとヒナの仲が良いと言ったんだが」
「ぜったい、嘘!」
ヒナは、元の世界ではあまり境遇が良くなかったようで、こちらの世界に来たことには感謝をしているそうだ。なかでも、レオンハルトとラドクリフは最初に接したからか、他の人よりも緊張することなく話せるらしい。
ヒナの世界の言葉を覚えるから、と書き出してくれた文字を自分たちが普段使っているものに置き換えたものとにらめっこをしているレオンハルトは、気づいているのだろうか。ラドクリフと話しているのに、ヒナの視線はちらちらとレオンハルトの方に向けられていることに。
レオンハルトの集中力は素晴らしいことを知っているが、今だけはもう少し周りを気にして欲しい、とラドクリフはため息を吐いた。
「ラドクリフ、分かってるから、いい」
「後できちんと言っておく」
「ありがと」
ふふ、と二人で笑い合ったときに顔を上げたレオンハルトが、わずかに表情を変えたことにラドクリフは気付いたが、指摘はしなかった。それからというもの、レオンハルトがヒナの言葉にしっかりと耳を傾けるようになったのだから、結果としては良かったのだろう。
まずはヒナにこの世界に慣れてもらう事を優先として、レオンハルトとラドクリフの日課についされたお茶会。食事を取れているか、顔色は曇っていないか、怪我などしていないか。そんな事も観察しているが、それはヒナには伝えていない。
「ラド、君はヒナの事が好きなのか?」
「……は?」
ヒナがだいぶ人にも慣れて、レオンハルトやラドクリフ以外とも言葉を交わせるようになってから、聖なる力を扱うための勉強も始まった。今までの世界ではそういった力を持つ人はいなかったようだが、物語には登場することが多々あったらしく、ヒナは思っていた以上にすんなりとその力を受け入れていた。
ヒナは何の取り柄もない自分がそんな力を持っていたなんて、と目を輝かせながら学んだことをあれこれとレオンハルトに話すのだ。ラドクリフはその様子を微笑ましく見守っていただけなのに。
「君とヒナが言葉を交わしている時は、僕との時よりも彼女が笑うんだ」
「俺は、彼女の言葉遣いが少しでも上達するよう、手助けをしているだけさ」
幼少から共に過ごしたこの幼なじみは、時々鋭い。今のラドクリフの様子を見てそう思うのであれば、ちょっと前の自分の姿でも見て来いと言ってやりたくなったのを、寸でのところで飲み込んだ。
ラドクリフは肩を竦めて答えたが、内心は動揺を押し隠していた。態度に出していたつもりはなかったから、無意識に出てしまう部分だったのだろう。きゅっと唇を一度引き結んでから、いつもの調子、と意識して口を開く。
「ヒナの気持ちは、間違いなくお前に向いているよ」
「ラドがそう言うのなら、きっとそうなんだろうな」
「俺の事信じてないな?」
「いや、信じるよ。これからもずっと」
席を立ったレオンハルトの背を追いかけながら、好きにならないはずがないだろう、とラドクリフはこっそり息を吐いた。誰も何も知らない世界で、それでも人に当たらずに目の前の事にひたむきに取り組む少女。こちらに来てから変わった、という見目の話を聞いてから、初めはただの興味だったそれがいつの間にか恋と呼べる気持ちになっていたことを、ラドクリフは誰にも言わずに抱え込んでいた。
見破られるならレオンハルトにだろうとは思っていたけれど、予想していた以上に早く訪れたその時に、動揺してしまったことには間違いなく気付かれた。
それが自分の抱えている気持ちに勘付かれての牽制だったのかどうかまでは、分からないけれど。
「こんな気持ちを抱くのは、俺だけで十分だろ」
友人が淡い気持ちを見つけたのだ。それよりも早く気持ちを抱いていたのは自分なのだから、ヒナに気づいて欲しいし、同じ気持ちを返してほしいとも思うが、二人を見ていればそうならないことなど分かってしまう。
愛しい、気づいて。だけど、友人にはこんな苦しさを味わってほしくない。そんな相反する気持ちを持ち続けたラドクリフは、レオンハルトの言葉を聞いて自分の気持ちに蓋をしようと決めた。
それから、ヒナは力を発揮し始めた。一度コツを掴んでしまえばあとはするすると上達してしまうのだから、素質は十分だったのだろう。
たどたどしかった言葉遣いもぐんと上手くなり、今では冗談さえ言えるほどに上達した。そのひたむきな姿勢は、侍女や護衛から始まり、騎士団にも好意的に受け入れられるようになった。比例するように国を覆う結界が強固なものになっていき、魔物の被害も減っていった。
一方で、ヒナの事を快く受け入れられないものは、確かに存在していた。未だ定まっていないレオンハルトやラドクリフの婚約者を狙う者、魔物がいる事によって懐を潤していた者。くすぶる不満の芽を全て摘み取ることは、レオンハルトでも不可能だ。
陛下からヒナを聖なる力の持ち主、聖女とすると発表があったことで表向きはなくなったようだが、それでもヒナがこっそり夜に泣いているらしい、という報告は定期的にレオンハルトのもとに来た。
「今回はヒナも行くのか」
「うん、近い場所だしレオンハルト様も一緒だからって」
共にする時間が増えたレオンハルトに、ヒナが気持ちを向けたのは当然と言えば当然だった。二人の距離が近づいていくことに、気がつかないラドクリフではない。それでも、決して態度を変えることはしなかった。二人が遠征から戻ってくるたびに、ラドクリフの顔を見てはようやく肩から力を抜くのだから。
*
結界の力が安定し、国の人々が魔物に怯えず生活できるようになったのは、ヒナを召喚してから一年が経ってから。
「ラドクリフ様」
控えめに掛けられた声に、ラドクリフはゆっくりと振り返る。そこには、この一年で所作をしっかりと身に着けたヒナの姿があった。聖女となってから着るようになったローブは髪の色に合わせて白いが、汚れは見当たらない。
陛下と同等の地位を得たのだから、この国の誰にだってどんな態度を取っても構わないのに、本人の性格なのか、今までのように控えめな接し方から変わらないヒナに、ラドクリフは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「ヒナ様」
「ラドクリフ様まで、私のことをそう呼ぶのですね」
一瞬だけ顔を膨らませかけたが、目線だけで不満を伝えてきたヒナの様子に、ラドクリフは苦笑する。後ろに控えている侍女はもはや長い付き合いだが、ここは王城の中庭でいつ誰が通りかかるか分からない。
国が落ち着いたことで、ヒナの力を手放すまいとレオンハルトの婚約者に推す声があることを知っている以上、誤解されるような行動は控えるべきだろう。
「あちらの、ガゼボまでエスコートさせていただいても?」
「ええ、お願いします」
開けた場所で、侍女を控えさせての会話だったら問題ないだろう。そう判断したラドクリフに、ヒナも頷いた。
「悪かった。だが、人目のある所では勘弁してほしい」
「もう! いきなりみんなの態度が変わるんだもの。びっくりしたんだから」
周りに誰かが来ればすぐに分かるからか、ヒナも先ほどまでよりもだいぶリラックスした様子でベンチに背を預けている。いろいろと学んだからこそ、人の前ではきちんとした態度を取ることが出来るようになったヒナだが、レオンハルトとラドクリフと一緒の時だけは、前のように気軽な話し方をする。それは自分たちだけの特権のようで少しばかりくすぐったいけれど、若干抱く優越感のままにラドクリフは口元に笑みを乗せた。
「だが、お前はそれだけの事を成し遂げたんだ。国の結界を張り直し、魔物に怯えずに生活できるのは、聖なる力があったから」
「わたしに求められているのは、この力だけ?」
「まさか。レオンハルトならどんなお前だって傍に置くだろうさ」
ヒナのやり遂げたことを褒めたのに、途端に表情を曇らせたのを見て、ラドクリフは言葉運びを間違えた、と唇をかんだ。レオンハルトと前置きをしたけれど、あの日に固く蓋をした自分の気持ちだって同じだ。蓋はもう緩めることはないだろうと思っていたら、ヒナの動きが変なところで止まった。
「まさか、ラドクリフはレオンに何を言われたか知ってるの!?」
「知らん。が、だいたいあいつの考えていることは見当がつく。その様子だと大当たりのようだな」
こちらに来てから真っ白に染まった髪、そこから覗く肌は赤く染まっている。自分の考えが外れて欲しいなんて思ったことはなかったのに、今この時だけは外れていてほしいなんて柄にもなく願ったラドクリフの、その願いはどこにも届かなかったようだ。
王子様、からレオンハルト様、レオンとどんどん近くなった距離は、自分との距離が変わっていない事を突き付けられるようで。
単純にレオンハルトの事を恨めればどれだけ良かったのだろうか。それとも、遠征についていくのが自分だったら今とは立場が違ったのだろうか。どれだけ考えても最終的にはレオンハルトとヒナの仲の良い様子を見て、考えることを放棄してしまったのだが。
「レオン!」
「ラド!」
だからこそ、体が動いたのは自然で、ラドクリフの中では当たり前だった。
「取り押さえろ!」
レオンハルトの指示が飛ぶ。騎士たちの怒号の中でも、その声は良く響いた。レオンハルトやヒナのことを口汚く罵った侵入者は、騎士団によって牢へと連行されていった。
一瞬にして騒然となった場で、冷静に動けたのはその場にいた騎士団長のみ。レオンハルトが指示を出していたことで落ち着いているのかとも思ったが、ただの反射だったようで、自身を庇いその身に深い傷を負ったラドクリフを見て呆然と立ち尽くしていた。
それでも、指示が出せただけ上等だ、と騎士団長はレオンハルトの代わりに指示を出そうとしたが、自分の影から飛び出していった白い背中を見て僅かに安堵の息を漏らした。
「ラド、ラド! 目を開けろ!」
騎士の遠征を労わるために開いた場で、今まで共に過ごしていた騎士から狙われるとは思っていなかったのだろう。レオンハルトが騎士一人一人に声をかけていたタイミングで、自分にチャンスが来るのを待ち構えていた襲撃者。
レオンハルトの首を狙ったナイフは、庇ったラドクリフの背中を斜めに大きく切り裂いた。どん、と突き飛ばされた衝撃で尻もちをついたレオンハルトの脳裏に、幼い頃の光景がよみがえる。あの時、尻もちをついていたのは自分ではない。今、自分の事をその身を盾にして守ってくれた、親友だ。くしゃりと握っていた蜂蜜色の髪は、自分の髪色よりもっと鮮やかな赤に染まっている。
「なんで? どうして血が止まらないの!?」
「ラド! あきらめるな!」
ヒナが、遠征で何度も騎士たちの傷を癒して来た聖なる力をラドクリフに向けている。背中の傷に白くて暖かい光が吸い込まれていくが、そこから流れる血は止まる気配を見せない。
ラドクリフは他人事のようにナイフに毒でも塗ってあったんじゃないか、とぼんやりと思ったが、もう口を動かすのも億劫だ。
ヒナから届く光が、自分のなかに留まらずにそのまま流れ出ていってしまっているのは、分かった。力だって無限ではないのだから、このまま垂れ流すように無駄に使い続けるのはもったいない。そう思ったラドクリフは、もう感覚が分からなくなった腕に力を込める。
「お前たちを守れたことを、誇って逝くよ」
卑怯だろう、ずるいだろう。こんな言葉を遺して逝くなんて。だけど、これでレオンハルトとヒナには、ラドクリフ、という男が深く記憶に刻まれたに違いない。
こんなことをしなくてもきっと二人は忘れることはないだろうけれど、こんな不器用な伝え方しかできなかった男の事を。
ラドクリフは最後の力を振り絞って、俯いて涙をこぼすヒナの頬に顔を近づけた。掠れる声で告げた言葉は、きっと聞き取ってくれたはずだ。もう、ヒナから溢れる光の温度さえも感じられなくなったラドクリフは、自分を鮮やかに染め上げた赤と、それを照らすような白を目に焼き付けて、瞳を閉じた。
「ラド!」
「ラドクリフ!」
レオンハルトが、ヒナが叫ぶ。二人がどれだけ叫んでも、騎士団長に呼び出された副団長が何度呼び掛けても、ラドクリフの瞳が開くことはなかった。
「ヒナ、あいつは……ラドは最期に何と?」
「“レオンと仲良くな”と」
「あいつらしいな。……私にさえ、黙っていたとは」
ラドクリフの葬儀が終わったその日、レオンハルトは改めてヒナに想いを告げた。気持ちに応えたヒナと夜通し語ったのは、ここにはいない蜂蜜色の髪をした親友の事だった。
自分と同じ気持ちをヒナに抱き、それでも自分のためにその気持ちを隠し通した親友は、きっと今日の事も笑顔で祝福してくれるだろう。
お前の分まで幸せにするよ、と杯を掲げた夜空には、無数の星が瞬いていた。
*
少女に誘われるままに石碑の裏に回った青年は、懐かしい名前が彫ってあることを教えてもらった。初代聖女とその伴侶である国王の名前と共に彫られたそれは、二人が生涯決して忘れなかったことを示している。
「初代聖女ヒナ様と、レオンハルト陛下。二人が愛した景色を親友ラドクリフに捧ぐ、ね」
自分たちがこの丘に来ていた時、この街はここまで発展していなかった。けれど、懸命に生きる人達の営みを見ては、前を向いて頑張ろうと思えたものだった。それが今では視界の端から端までを収めてもまだ足りないほどに大きくなっている。
「この街を見れば分かる。あいつらが、どれだけ努力したのかなんて」
魔物の恐怖におびえなくなった国、それはきっと別のしがらみを生んだだろう。けれど青年は知っている。この国で暮らす人々が、笑顔で毎日を送っていることを。後の治世だってもちろん努力はしていたはずだ。だけど、スタートを切ったあの二人がきっと誰よりも頭を抱えて、失敗を繰り返して形を作ったのだろうと。
「実は、初代聖女様はひとつだけ、個人的な遺言を残されたのです」
「ひとつ?」
「この先ラドクリフ、と名乗る男性が現れたら伝えて欲しい、と」
そっと青年の隣に立った少女は、眼下に広がる街から視線を外さない。いっそ、わざと青年の顔を見ないようにしているのだと思えるくらいに、頑なに。
「わたし達は、ずっと待っているのです。ラドクリフという名の男性といつか、出会えることを」
「……どうして、それを俺に?」
じわり、と青年の心に染みのように広がる感情、これは歓喜だろうか。あの時、呪いのように二人に存在を刻み付けた自分が、こんな感情を得てもいいのだろうか。
けれど、少女の言葉の続きはまるで果実のような甘さで、青年の体に染みわたっていく。
「夢を見ました。それは、わたし達が待ち望んでいた出会いの景色でした。
「“あなたの笑顔は、いつでもわたしを支えてくれた。”
そう遺された言葉のような笑顔を見たいのに、どうしても男性の顔が見えないのです」
「そっか。それならきっと、こんな顔だと思うよ」
日が昇る。藍色の世界を白く染め上げる光のなかで少女が見たのは、弧を描く口元だけ。
足元で光を浴びて輝くスノードロップが、小さく揺れた。
スノードロップの花言葉はいくつかありますが、メインとして希望をイメージしています。
お読みいただきありがとうございます。