[2-5] 撤退と接近
「おい! 待て!」
視界の隅でガエラが逃げる様子が見えた。オリバーが呼び止めるが、ガエラが従うはずもなく、その姿はどんどん遠ざかっていく。
「どけっ!」
ガエラを追跡するのに妨げとなりそうな位置にいるグールに対して。風魔法を載せた剣劇を放ち両断すると素早く魔剣を納刀して、ガエラの方向に向かって走り出す。
「深追いしたら危ないよ!」
その様子が見えていたのか後方からヴァネッサの声が聞こえた。しかし今はガエラを捕まえる方が優先だと判断し走る速度を緩める事は無かった。
背中を見せて逃げるガエラを追いかける。
リリアが生成した火の玉の明かりが届く範囲からは外れ、月の明かりのみがうっすらと照らす場所まで来た。
闇夜が災いしたのか、ガエラが足を取られ転倒する。
これを好機ととらえオリバーは再び剣を抜く。
殺す気はない。あくまで抵抗を封じるための脅しとして使うつもりだった。
ガエラが転倒した上半身を起こしてオリバーの方を向く。
「よせ!」
殺されると思ったのか、ガエラがオリバーに対して制止を呼びかける。
オリバーはその声を無視してさらにガエラに近づく。距離はあと十歩ほど。相手は転倒したままであり、もう逃げられることは無いだろうと速度を落とし、歩き始める。
もしも明かりがあれば、その顔が笑みで歪むのが見えたかもしれない。
オリバーの目の前の土が弾け飛び、地面からグールが飛び掛かってくる。
最初に出したグールが全てではなかったのだと、転倒したのもわざとで自分をこの地点で油断させるための罠だったと悟った時にはその牙が首筋に深く刺さっていた。
「がああぁぁぁっ!」
首筋に走った激痛に、絶叫を上げる。
「離せっ!」
相手に知能が無いグールだと分かっていても、声を上げて振りほどこうとする。だがグールというのは人体が本来持っているリミッターが外れているため見た目以上の力を発揮する事が多い。オリバーに噛みついたこのグールも例に漏れず、朽ちた体からは想像もできないような力を発揮し、なかなか引きはがす事ができない。
オリバーが苦戦していると風を斬る音が二回した。するとそれが合図であるかのようにグールからは力が抜け、ようやくオリバーはグールを引き離す事が出来た。引きはがされたグールはそれ以上動くことは無く、地面に崩れ落ちた。
「やられたみたいね」
剣を持ったヴァネッサが立っていた。先ほどの風を斬る音はヴァネッサがグールを切りつけたのだろう。その顔からはいつもの子供っぽい雰囲気は消えている。
「ああ、助かった」
グールが噛みついていた首筋辺りに激痛が残っているため手を当てると、生暖かい液体に触れた。それが自分の血であると自覚すると体に悪寒が走る。
「見せて」
ヴァネッサは回復魔法が使える。見せれば治療してくれるだろうが今は優先すべきことがある。
「ガエラは?」
「もう逃げたんじゃない。座って。治すから」
辺りを見渡すが既にその姿は無い。オリバーがグールと挌闘している間に姿をくらましたようだ。オリバーを足止め出来たとはいっても、ヴァネッサとリリアを警戒して、オリバーにトドメを刺すよりも、この場から離れる事を選んだのだろう。
「ああ」
オリバーは腰を落とし、胡坐をかく状態で地面に直接座る。
「手をどけて」
痛みを抑えるために無意識に傷口を手で抑えていたが、ヴァネッサに促されて手をどけると傷口が空気に触れて痛みが増してくる
「この程度ならすぐ治せそう」
そう言ってヴァネッサが傷口に手をあてるとすぐに痛みは引いて行った。オリバーからは直接は見えなかったが手の当てた個所から、青白い光が闇夜の中で視界に入ってくる。
数刻もすれば光は収まり、痛みは完全になくなっていた。
「せっかくだから今日の分もらっておくね」
一瞬何を言っているのか分からなかったが、ヴァネッサが顔を近づけてきた直後に首筋を血ではない別の温かい物が当たる感触があった。
その感触でようやく彼女が言った今日の分が何を指しているのかを理解した。
「おい」
心の準備が出来ていなかったため、思わず逃げようとするがヴァネッサに首筋を掴まれて、半ば抱き着かれているような状態のため上手く逃げる事ができない。
「血を綺麗にしてるだけだよ」
「綺麗にするって・・・」
明らかに布で拭き取るのとは別の方法で綺麗にされているのだが、元々使い魔を使役した分消耗するという話を聞いた事と、その使い魔のおかげでガエラを見つける事が出来た事を思い出し、オリバーは抵抗をするのを止めた。
「悪いな、警告してくれたのに」
危ないと言われた時に足を止めていればこんな事にはなっていなかっただろう。しかも結果的にガエラを見失っている。ヴァネッサに余計に回復魔法を使わせただけという体たらくだ。
「生きてれば十分だよ」
回復魔法が使えるヴァネッサからすれば、多少の怪我ならすぐに治せるというのは事実だろう。
綺麗にするのが終わったのかヴァネッサがオリバーから離れると、そこへリリアがやってきた。
「そこにいるの?」
闇夜でこちらが良く見えないのか確認するように呼び掛けて来る。ここまで走ってきたのか若干息を切らしている。
「遅いよ」
「あなたが早すぎるんでしょ」
吸血鬼であるヴァネッサが本気をだせば常人には不可能な速度で動く事が可能であり、オリバーは実際にその動きをみたことがある。今回はグールと挌闘している内にいつの間にか近くまで来ていたために見る事は出来なかったが。
「治癒魔法の光が見えたけど無事なの?」
先ほどのヴァネッサの治癒魔法の光はリリアにも見えていたようだ。
「うん、もう治したよ」
「回復なら私でもできたのに」
「でも遅かったから、あたしが先に直しておいたよ」
そう言いながらヴァネッサは口元を拭った。
「その口、あなた何してたの?」
「せっかくだから、使った分を補充しただけだよ」
リリアがヴァネッサの様子に気が付き怪訝な顔をするが、ヴァネッサは特に悪びれた様子はない。
「こんな時に…。」
リリアはヴァネッサの言葉の意味を悟ったようだ。
「それよりも、こいつらどうするの?」
話し声に反応したのかグールがこちらに向かって集まってくる。村の外れとはいえ、このまま宿屋に戻ったら、後を付いてきたグールが住宅地に侵入し、住民に被害がでるかもしれない。
ガエラは既に逃走しているが、一度生成されたグールは自立して動くため術者が離れていようとも動き続ける。
「このまま放っておくって訳にはいかないわね」
魔族としても人間に無駄に被害が出るのは避けたいようだ。
「にーさんはまだ動ける?」
「ああ、傷も塞がったしまだいける」
オリバーは先ほどまで傷口のあった首筋を手で触るが見事に塞がっていた。自分の目では見れないが恐らく痕も残っていないのだろう。
立ち上がり剣を構えるがそれをリリアが制した
「これぐらいなら私がやるわ」
「まだ動けるぞ」
オリバーは剣を振ってもう大丈夫という事をアピールするがリリアは考えを変えなかった。
「回復魔法が必要になるような大怪我をしたんでしょ? 下がってなさい」
「あれは不意打ちだっただけだ」
あと一歩のところまで追い込んで油断していたというのもあるが、まだ地中にグールが残っているという可能性を失念していた。
「にーさん、グールの数が多いから、まずはねーさんに範囲魔法でやってもらったほうがいいと思うよ」
確かに今動いているグールは一人で相手にするには数が多い。オリバーは魔剣を使えるとはいっても、現状使える風魔法では一体ずつ相手にするのが限度である。それよりも魔法使いのリリアにまとめて倒してもらった方が安全だろう。知能のないグールであれば範囲魔法対策で分散してくる事もない。
「わかったよ。でも近づいて来るグールがいたら、俺が相手するからな」
「いいわよ。じゃあやるから下がってて」
リリアが右手を夜空に掲げ、掌を開くとその上に火の玉が生成されそれはすぐに大きくなっていき、横にいるオリバーにも暑さが伝わるぐらいであった。
「ねーさん、墓地は壊さない程度にね」
その大きさに不安を感じたのか、ヴァネッサがリリアに注意を促す。
「分かってるわよ!」
その言葉の直後にリリアが右手を振り下ろすと、その動きに合わせて生成された火の玉が射出されグールの群れの中に着弾し、周辺に業火と爆音をまき散らした。
「あー、これ大丈夫かな…」
爆発で生じた衝撃波で髪をなびかせながら、ヴァネッサが呟く。
「全員倒すのは無理でも数は結構減ったでしょ」
グールが密集していた地点を爆心地としたために、グールの総数が減ったのは事実ではあるが全滅させるには至らなかった。
リリアは先ほどのヴァネッサの言葉が全滅させることを出来なかった事を指して言ったのだと思ったがそうではなかった。
「そういう意味じゃなくて、夜中にこんな大きな爆発起こしたら、騎士団が来るかもしれないよ」
「グールを退治したんだから、多少は大目に見てくれるでしょ」
リリアは今の事態を楽観しているようだが、大事な事を忘れている。
「にーさんがいるんだから、あんまり大ごとになると面倒だよ」
冒険者が来るならまだしも、オリバーは騎士団からは追われている身である。万一騎士団がここに来ると面倒だ。
「騎士団がグール退治に来るとは思えないけど」
グールは魔物であり、現状では魔物の討伐は主に冒険者が行う事になっている。騎士団がグールがいるからといってわざわざ墓地まで来るのは考えにくい。その予想は間違ってはいないが、今の騎士団にはグールと戦う理由がある。
「ガエラって一度騎士団と揉めたんでしょ。グール退治を率先してやる事は無くても、ガエラを探してる可能性は十分あるよ」
それにあれほどの爆発が夜中にあったとなれば、町に駐屯している騎士団が様子を見に来ても不思議ではない。
「じゃあ残ったグールを倒してさっさと引き上げるわよ」
残ったグールを三人で手分けして掃討するのにそう時間は掛からなかったが、このヴァネッサの予感は半分的中する事になる。
●
「入れ違いになったかな」
巨大な爆発を見てもしやと思い宿屋を飛び出していた。
爆発のあった墓地に着いてみれば炎魔法を使った痕跡と思われる爆発の痕がいくつかあった。そして動かなくなっている死体。いくら墓地とはいえ死体が地上に転がっているというのは普通ではありえない。しかもかなりの数がある。
「グールと戦ったってところかな」
死霊術師というのは、そうそう居ない。賞金首となったガエラが少し前にこの村で騎士団と揉めたという話から考えると、ガエラの仕業と考えるのが妥当だろう。
「まさか本当にあの悪魔憑きなのかねぇ」
悪魔憑きがどのような戦闘方法を使うかは今のところ情報が無いが焼けた死体を見るに、仲間には炎を使う魔法使いが要ると考えるのが自然だ。しかも距離の離れた宿屋からでも視認できるほどの、巨大な火の玉を生成できる。
火属性の下級魔法であるファイアボールを使うだけであればほとんどの魔法使いができるだろう。その魔法を応用しようとすると、魔法使い自身の手腕が問われる事になる。応用というのは具体的には二つあり、詠唱速度の短縮と威力の向上である。生成する火の玉をより巨大なものにするというのは威力の向上に分類される、普通の魔法使いが生成する火の玉の大きさは掌にのるぐらいの大きさがせいぜいだろう。先ほど宿屋から見えた火の玉の大きさは大人の身長を優に超えるぐらいの大きさはあった。修練を積んだ魔法使いでも人の大きさを超える火の玉を生成するのは難しいとされている。
だが悪魔憑きを救出したと言われている魔法使いは処刑場を包むほどの大きさの火の玉を生成したと言われている。そのような事が出来る人物は多くない。本当に墓地にいたのかもしれない。
「こんな夜更けに村を出るとは考えにくいし、村に戻ったと考えるのが妥当かな」
さらに気になるのはグールの死体の数がかなり多いにも関わらず、生きているグールが一体もいないという事。つまり遭遇したグールから逃げずに全滅させたという事だ。加えて死霊術師の死体が無い。
「ご丁寧に全滅させたのは何か理由があるのかな。まさかただの正義感で…」
そう言って彼はわずかに顔をしかめる。なぜなら相手の性格によっては、話の通じる相手かどうか大きく左右されるからだ。
「死霊術師を生け捕りにしてこれからギルドに引き渡しに行ったのなら、ギルドに行けば会えるかもしれないな」
思ったよりも早く目的の人物に会えるかもしれない。そんな期待が彼の心の中で大きくなっていった。
●
墓地から宿屋に戻る間、自然と先ほどの戦闘の反省会が始まっていた。
「最初の時にガエラに攻撃しちゃってもよかったんじゃない?」
そう言ったのはヴァネッサであった。彼女の言う通り明かりとして出していた火の玉をぶつければそこで戦闘はおわっていただろう。
「今回はオリバーの魔剣の練習も兼ねた相手だって言ったでしょ」
それはヴァネッサも分かってはいた事だ。しかし、最初の死霊術を止めなかったのはまだしも逃げるのを止めなかったというのは、やり過ぎというより別の事情があるような気がしてならなかった、
「本当にそれだけ? ガエラに攻撃するのを随分と躊躇しているように見えたけど」
「それだけよ」
ヴァネッサはその言葉には裏があると思ったのか、さらに踏み込んだ質問をした。
「ねーさん、人殺した事無いの?」
その言葉は、言外の意図として、人を殺した事が無いのはあり得ないというヴァネッサの予想が滲み出ていた。
オリバーには分からなかった。なぜリリアが何も言わないのか。リリアは人を殺すのは禁忌だと言っていた。それが事実であるならば、当然リリアに人殺しの経験はないだろう。それを口にする事に何のためらいがあるというのか。
沈黙を続けるリリアに対して、ヴァネッサは別の質問をしようとする。
「ねーさん、この前も聞こうと思ったけど…」
ヴァネッサはそこまで言ってオリバーを見る。オリバーには聞かれたくない話という事だろうか。
「何?」
当のリリアはそれを知ってか知らずか、不機嫌そうに先を促した。それを聞いたヴァネッサは先ほどの言葉を続ける。
「ねーさん、ひょっとして、あたしより年下?」
吸血鬼といえば長寿で知られている。人間から見たら子供にしか見えない容姿でも、実年齢は百歳を超えているという話もある。とは言ってもオリバーにしてみればヴァネッサ以外の吸血鬼を知らないため、ヴァネッサの年齢については全く予想ができなかった。つまりは、年上年下を論じる前に、ヴァネッサ自身年齢はいくつなのかという疑問がオリバーにはあったが、ここで口を挟もうとは思わなかった。
「年齢なんて、聞いてどうするの?」
明確な答えを避けたのはオリバーに聞かれたくないからか、それとももっとべつの事情があるからなのか。
「そうだね、今聞く話じゃないね」
ヴァネッサはあっさりと聞くのを諦めたが、宿屋に着くまで、微妙な空気になってしまったのは言うまでもない。
●
「くそ、冒険者め…」
ガエラは隠れ家に戻ると悪態が口から出ていた。
自分が賞金首になった事は分かっていた。だからこそ人目を避けて夜間に死体の回収を行おうとしていたのだ。万一を考えて事前に墓地に逃走時の足止めに使えるよう死霊術を仕込んでおいて正解だった。
だがあの仕込みをするにあたっても、それなりに時間が掛かった。加えてあの戦闘の結果では墓地に大量のグールが残ったままになっただろう。またしばらくは身を隠す必要がある。
「相手が騎士団で無かっただけマシか」
冒険者が賞金首を狙う理由の大半は、その賞金である。
さらにほとんどの冒険者は金にあざとい面がある。つまりは賞金首の情報を掴んでも周りに吹聴したりせず自分の手で賞金首を倒そうとする傾向がある。下手に情報を拡散すると他の冒険者に先を越される恐れがあるからだ。
中には正義感から賞金首を捕縛しようとする者もいるが、幸いにもあの冒険者はお尋ね者として騎士団から手配されている。間違っても騎士団に通報する事はないだろう
つまりはあの冒険者の口から、他の冒険者や騎士団にガエラがまだこの村にいるという情報が洩れるという可能性はかなり低い。
「あいつらの口さえ塞げばまだ何とかなる」
このオータムは彼にとっては利用価値の高い場所だ、仮に拠点を移すにしても、研究内容からして身一つで逃げるという訳にはいかない。
彼にとって活動拠点の移動は失くものが多く。最後の選択肢だ。そう考えると現状ではあの三人の冒険者の口を封じるのが最も効率的な対処法である。
「しかしあの場所にいたのは偶然なのか?」
こちらの行動を読んでいて墓地に張り込んでいたにしては、自分が墓地についてから声を掛けられるまでに時間が掛かった。
それではたまたま通りかかったのだろうか。それにしてはこちらの名前を知っていた。騎士団と揉め事を起こしてから日が浅いため、冒険者として賞金首の名前を知っていてもおかしくはないが、あの口ぶりはこちらを探しに来たような印象を受けた。
つまりは何らかの方法でこちらの居場所を特定して墓地までやってきたという事だろうか。それがどのような方法かは分からないが、この場所もいつまで安全かは分からない。最悪の場合、もう特定されている可能性もある。
「ここまで乗り込んで来た場合の備えをしておくか」
あの悪魔憑きには深手を負わせている。今日中にもう一度しかけてくる事はないだろうが、この場所がばれていたら再戦と時はそう遠くない。
ガエラは冒険者を迎え撃つ準備に取り掛かった。
●
宿屋に戻った後に話し合った結果、とりあえず今日は一度休むことになった。
騒ぎを起こしたために騎士団が見回りを行う可能性があり、下手に動くと面倒になるかもしれないため、日が昇ってから仕切り直そうという方針になったからだ。
よって三人とも寝室で眠りについていたのだが、リリアは寝苦しさから目を覚ました。目を開けるとヴァネッサが布団の上でリリアの上に座っていた。
「起きた?」
リリアは払いのけようとしたがヴァネッサが布団上から太ももでリリアの体を挟むよう馬乗りの状態で座っていたため上手く腕を動かせなかった。リリアは一先ずヴァネッサの話を聞く事にした。
「何か用?」
「さっきの話の続きをしようと思って」
「年齢の話?」
さっき途中で終わった話といえば一つしかない。
「ねーさんさ、あたしから見たら、サキュバスにしても魔法上手いんだよね。だから長年修行したんだろうと思って、私より年上だと思ってたんだけどさ、私より年下なの?」
「知ってどうするのよ」
口調から感じ取れる不機嫌さは、ヴァネッサがリリアを動けない状態にして質問をしているからか、それとも質問の内容からなのか。
「にーさんに聞かれたくないから言わなかったのかと思ったけど、あたしに知られるのも嫌?」
リリアは何も答えない。しかしこの状況で答えないのは肯定しているのと変わらない。
だがヴァネッサもまた何も言わないし動こうともしなかった。答えるまでは動かないという事だろう。気まずい沈黙がしばらく続き、根負けしたように先に口を開いたのは、リリアだった。
「だいたい、あなたの年齢を知らないわよ」
「それ、答えてるのと同じだよ」
「どういう事?」
リリアからすればヴァネッサの言っている事はまるで要領を得ない。
「アンは、あたしの年齢言わなくても分かってたみたいだよ」
「答えになってないわよ」
「サキュバスはそういう種族だからね、経験を積むと相手の年齢ぐらい見ただけでわかるようになるんだよ。それが人間でも、同族でも、他の魔族でもね。それが出来ないっていうのは経験が無いって言ってるのと同じ。そういう事情について隠したいなら『年齢が分からない』なんて言ったらダメだよ」
自身がサキュバスであるにも関わらず、このサキュバスの特性について知らないという事は、種族内での交流がほとんどないと言っているに等しいのだが、ヴァネッサはあえてそこまでは口にしなかった。
他者が持っていないスキルを持っているという事が、良い結果を生むとは限らない。それが他人の生死を左右する可能性のあるスキルであればなおさらだろう。
「ご忠告どうも。そろそろどいてもらえるかしら?」
ヴァネッサは体格としては子供ではあるが、それでも一人分の体が自分の上に乗っているというのは嫌な状態であるという事に変わりはない。それでもヴァネッサが就寝中のリリアの上に乗ってきたというのは、ただの悪戯ではなく逃げずに話を聞けという言外の意思表示であることはリリアも薄々察していた。
「話はもう一つあるんだ」
そしてヴァネッサはリリアの上に乗ったまま別の話を始めようとしていた。
「何?」
この状態では拒否権は無い。きっとリリアにとって耳の痛い話なのだろう。断ったらどうなるのだろうという気もしたが、まずは話を聞く事にした。
「魔剣の事」
「オリバーに持たせてる剣の事?」
魔剣といったら真っ先に思い浮かぶのはそれである。
「そう。あれさ、人間に持たせて大丈夫なの?」
「リーダーが決めた事よ。私が口出しする事じゃない」
あの魔剣をオリバーに持たせたのはアンが言い出した事であり、リリアの意思によるものではない。それは魔剣の受け渡し時に同伴していたヴァネッサも知っている筈である。
「上からの命令には何でも従うって事?」
「ユニオンはグループなんだから上下関係があるのよ」
「じゃあ彼を殺せって言われたら殺すの?」
「何で彼を殺す事になるのよ。わざわざ魔剣を渡しておいて」
「魔剣を渡したからこそだよ。もし彼が人間側に戻って、魔族を倒すって言い始めたらどうするの? 魔剣を持たせておくのは危険だから、殺してでも取り返せって言われてもおかしくないよ」
魔族に代わって空賊と戦わせるために人間に武器を渡す。それ自体はおかしな事ではないだろう。だが力を持った人間が魔族に反旗を翻したらどうなるか。
「あり得ないわ。オリバーは悪魔憑き呼ばわりされてるのよ。他の人間が彼を受け入れて共に戦うなんて思えないわ」
悪魔憑きとしてお尋ね者になっているオリバーが、魔女の館から離れて再度人間側に戻るというのはリリアにとっては荒唐無稽な例え話であった。
「でも魔剣は強力だよ。アレがあれば人間は空族に対抗できるどころか、魔族にだって対抗できる」
「一本しか渡してないのよ。あの一本で魔族と戦争すると思う?」
「今はね。何れ人間が魔剣の作り方を覚えて、自作する日がくるかもしれない」
「魔族ですら魔剣は簡単に作れないのよ。人間が魔剣を作れる日なんて来るとしてもずっと先よ」
ヴァネッサは「あなたの年齢ならそう思うでしょうね」、と言おうとしたが、その言葉は胸の内に秘めたまま別の言葉を口にした。
「覚悟はしておいた方がいいよ」
言いたいことは言い終わったのか、ヴァネッサはリリアの体から降りて自分のベッドへと向かった。
「彼が私達に刃を向けると本気で思っているの?」
ベッドに入ろうとしているヴァネッサに、今度はリリアが質問をしてきた。
「今は無いと思ってるよ。でも最悪を想定しておかないと、いざという時に体がうごかないから。まあ最悪の事態にならないようにサキュバスが魔剣とそれを持つ候補者の選別を任されたと思ってるけどね。最悪の事態になりたくないなら、彼をしっかりと繋ぎ止めておいて」
サキュバスは人間の男を篭絡する事に長けた種族である。だからこそサキュバス経由で人間の男に魔剣を託すという事になったのかもしれない。
「私はあくまで身元を引受けただけよ。そこまでする義理はないわ」
「ならあたしが繋ぎ止めようか?」
その時リリアは自分がどんな顔をしたか自覚していなかった。ただその言葉に自分顔の表情が変わったような気がしたのは確かだ。
そしてヴァネッサはリリアの顔を見てその心中を察したのだろう。薄く笑いこう言った。
「それが嫌なら自分でやって。サキュバスでしょ」
言い終わるとヴァネッサは横になって布団を被った。一方でリリアはヴァネッサの言った言葉が胸に刺さりしばらく動く事ができなかった。
●
「来ないか…」
オータムの町にあるギルド受付前でしばらく張り込みをしているが、ガエラを生け捕ったと思われる冒険者は現れなかった。
先ほどの戦いでガエラを殺害したにせよ、生け捕りに下にせよ、賞金目当ての冒険者であれば賞金を受取りにここに来るはずである。戦いがあったのはつい先ほどであることを考えると、わざわざ他の町のギルドに行くというのは考えにくい。来ないということはあの戦いではガエラに逃げられたか、もしくはガエラに生け捕られたと考えるのが妥当だろう。
「それは困るなあ…」
相手は死霊術師である。生け捕られた場合グールにされる危険が高い。せっかく目的の人物にたどり着けたと思ったのだが、それではまた振り出しに戻ってしまう。
「ここにガエラを連れた冒険者は来たか?」
物思いに耽っていたところに、凛とした女性の声が耳に入った。身なりからして冒険者ではなく騎士だろう。噂ではガエラは騎士団と揉め事を起こしたと言われている。墓地であれだけの爆発があり、グールの死体が散乱していたら、騎士団としてもガエラと冒険者の戦闘があったと予想して、ここに来たのだろう。
「いえ、来ておりません」
受付の口から出た言葉は自分も数刻前に聞いた言葉だ。
自分と同じ目的を持っているのだろう。
いや、それはマズイ。なぜなら相手が騎士であったとして、さらに目的の人物が本当にあの悪魔憑きであったのであれば、騎士に捕縛されてしまう。
さらにマズイのは騎士というのは国家権力の庇護を受けている。例えば自分が宿屋に情報提供を求めても断られる事が多かった。自分が身元の分からない人物であったからだ。それが騎士であったならばどうだろうか。ほとんどの宿屋は無碍な扱いはしないどころか協力的な態度をとるだろう。
その上騎士というのは騎士団に所属している。つまりは当然仲間がいるのである。団体でこの村を捜索された場合、単独で捜索を行っている自分より目的の人物に先にたどり着くのは道理だろう。
人物側索において、彼は数でも条件でも負けている。このままだとあの女騎士に先を越されてしまう。
「私に何か用か?」
そんな事を考えながらついじっとその女騎士をみていたら、目が合ってしまった。
「いえ、何も」
思わず目をそらしたが、時すでに遅し。女騎士はこちらを不審に思ったのか。つかつかと足音を立ててこちらに歩いてきた。
「そうか? 私を凝視していたように見えたが」
確かにそれなりの時間、彼女を見ながら考え事をしていた。それを凝視していたと言われても仕方がない。
「いやいや、騎士を間近で見るのは初めてだったもので」
その言葉は嘘では無かったが、逆に女騎士の興味を引いてしまった。
「騎士を間近で見たことが無い?」
騎士は大きな町には必ず駐屯している。見たことがないというのはよほど人里離れた場所に住んでいたか、もしくは村ではなく個人で暮らしているかだ。
「いやいや、本当に田舎者なんで」
あまり身の上を聞かれるとかえって面倒になる。早く会話を打ち切りたい一心で無難勝つ嘘のない情報を提示する。
「君、出身は…」
女騎士は、座っている相手に対して目線の高さが合うよう腰を曲げ顔を覗き込んだ。彼は目深に鍔付き帽子を被っていたため立っていた状態では見えなかったその部位が、目線を落とした彼女の目に入った。
「いや、失礼した。先ほど墓地で何者かが派手に戦闘をしたようでね。君も事件に巻き込まれないよう、早く帰った方が良い」
女騎士は彼から興味を失ったのか、そう言い残すとギルドの外へと歩いて行った。
彼女の後ろ姿を見送りながら彼はふと思う。
この女騎士もまた、自分と同じ人物を探しているのであれば、むしろこの女騎士の後を付いていけば良いのではないだろうか。
まだ墓地で騒ぎを起こした人物が悪魔憑きと決まった訳ではない。手練れの魔法使いが仲間に居るだろうという共通点があるだけだ。だが宿屋から遠目にみたあの魔法は処刑場から悪魔憑きを逃がしたという魔法に似ているのは事実であった。
極端な話、彼が探しているのは腕利きの魔法使いであり、同一人物かどうかについてはそれほど重要ではないのだが、今の状況では同一人物であった場合は騎士に捕縛されてしまうという点で憂慮すべき点ではある。
視界の中で徐々に遠ざかる彼女を見つけつつ、彼女が視界から消える前に彼は腰を上げた。
次話は4/29に投稿予定です。