第2話、屋根の下④
ちゃぽん、と湯船に浸かる音がする。
俺は温かなお湯で満たされた浴槽に肩まで浸かっていた。
一人暮らしを始めてからは浴槽を洗うのが面倒でいつもはシャワーで済ませていたのだが、まさかこうしてお風呂の準備まで済ませていてくれたとは。久々の入浴に体も心も温まるような感覚があった。
立ち昇る湯気の中で思わず声が漏れる。こうして湯船に浸かっているだけで今日起こった色んな事が、ユキとの再会が、まるで夢だったようにも思えてきた。
「でも夢じゃない。夢じゃなくて良かった」
俺がこうしてお風呂に入っている今も、ユキはせっせと食器の後片付けをしているだろう。彼女は俺に恩返しをしたいと言っていたが、それを言葉だけじゃなく行動で示そうとしている。
小学生の頃に包帯を巻いていたユキ。彼女と一緒に仲良くした事が、こんなふうに繋がっていくだなんて。包帯の下があんな可愛らしい少女だとは思っていなくて、そしてユキと同じ屋根の下で暮らす事になるなんて正直かなり驚いている。
明日からはマンションだけじゃなく、高校でも顔を合わせる事になる。同じクラスなので授業中は常に一緒で、俺は部活に入るつもりはないから、ユキが部活に入らなければ登下校も一緒になるはずだ。
俺は今の置かれている状況に驚きつつも、それが幸せな事であると噛みしめる。ずっと仲良くしていたユキと、これからまた一緒に居られるんだ。
こうしてお風呂に入ったのは正解だったな。落ち着く事も出来たし、明日からの幸せな日常が頭の中に浮かんでくる。何だかわくわくした気分になってきた。
風呂から上がったら後は部屋に戻ってゆっくりしようと思っていたら、脱衣所の方で物音が聞こえてくる。母さんはもう帰って居ない、となればユキが脱衣所に来たんだろうけど……一体何をしているんだ?
「ユキ? まだ入ってるぞ」
「あ、お構いなく」
扉越しに聞こえるユキの声。
一体何をしているのかとすりガラスの向こうに目と耳を凝らす。
ガラスの向こうでユキが自分の体に手を伸ばす姿が見えていた。するすると服が脱げていく音が聞こえて、向こう側で一体何をしているのか理解する。彼女は服を脱いでいた。まだ風呂場に俺が居る状況で、それなのに浴室の扉へと手をかける。
「ユ、ユキ!?」
思わず声を上げる。でももう遅かった。
開いていく扉、そして俺はその光景を見てしまう。
その肌は透き通るように白かった。引き締まった体、それでいてたわわに実った大きな胸と、くびれた腰つきが、女性的な魅力を存分に引き出している。
扉の向こうにはユキが立っていた。俺がかろうじて理性を保てていたのは、彼女が一糸まとわぬ姿ではなく、下着までは脱いでいなかったからだ。
ユキは俺に尽くしたいと言っていたけど、そんな彼女が風呂場にまで突撃してくるとは思ってもいなかった。
「えへ、おじゃましますね」
彼女は後ろ手に扉を閉めて浴室の中へと入ってくる。
その表情にあるのは羞恥心ではなく楽しそうな笑みだった。浴室に裸の異性と二人きりだというのに、ユキが全く恥ずかしがる様子を見せない理由は何故だ、全く分からない。
「ど、どうして入ってきた……?」
「晴くんのお背中を流そうと思って。あたしがいじめられて泥水をかけられたりした時、泣いているあたしに着替えを用意してくれたり、体を綺麗に洗ってくれたりしましたよね。その時のお礼です」
「た、確かにあの時は服が泥だらけになって……着替えを貸したり、綺麗にしてあげた事はあったけど、それはまだ小学生の頃の話で……」
「あれ、だめでした?」
「い、今はもう高校生だし……ユキは何にも感じてないかもしれないけど、俺は男だし、お前は女の子だし、そしたら色々とやばい事に成りかねないだろ……?」
「うーん、晴くんの言う『やばい事』になってもあたしは構いませんけど」
いやいや待て待て。いくら小学生の時に仲が良かったとは言え、再会した初日に俺の言うやばい事になってしまうのは流石にまずい。親公認の同棲生活だとしても常識的にも良くないし、このままでは俺が調子に乗ってやらかす可能性だって大いにある。
そう思いながら俺は下着姿のユキに背を向けた。
「晴くん?」
「体が冷めないうちに服を来て部屋に戻ってろ。風呂場から出たらちゃんと言うから」
「そんな事言わないで……お願いします、背中だけ……」
切なげなユキの声が浴室に響いた。
湯船の中で膝を抱えたまま、俺は混乱する思考を必死に落ち着かせようとする。けれど落ち着きを取り戻して冷静になればなるほど、俺の考えは良くない方へと進んでいた。
本能という名の悪魔が囁く。
良く考えてみろ。全校生徒を惹き付ける程の美少女が下着姿で隣にいて、そんな彼女に背中を流してもらえるという最高のシチュエーション。それをこのまま拒否するなんていくらなんでももったいなさすぎ無いか? 背中を洗い流してもらうだけ。そう、それだけなんだ。それ以上の事を我慢さえすれば良いのだ、と。
頭の中で響いた悪魔の囁きに俺は頷いて、ゆっくりとユキの方へと振り返っていた。
「そ、そこまで言うなら……背中だけ流してもらおう、かな」
俺のその言葉にさっきまでの切なげな様子は何処へやら。
彼女は満面の笑みで答えた。
「はい。晴くんの為に精一杯頑張りますね」
俺は大切な部分を見られないように湯船から上がって、風呂場に置かれた小さな椅子に腰をかける。鏡越しにボディーソープを泡立てるユキの姿が映っていた。
「それじゃあ綺麗にします」
その声と一緒にふわふわとした柔らかな泡が背中に触れる。
どきどきと高鳴っていく心臓の鼓動。それが聞こえてしまわないかと不安に思いながら、彼女の小さな手の感触が離れていくまで、俺は浴室の床を見つめながらじっとしていた。
ユキは今どんな顔をしているんだろう。
小学生の頃と同じように思っているから、俺の背中を洗う事に何も感じてなくて、今もにこにこと笑みを浮かべながら、ただ背中を綺麗にする事を楽しんでいるだけなんじゃないかと気になってくる。
だから俺はこっそりと彼女の様子を鏡越しに見ようとして顔を上げ――そのまま固まった。
鏡に映るユキの頬は真っ赤に染まり、唇からは弱々しく吐息がこぼれている。小さく肩を震わせる彼女を見て胸が破裂しそうになった。ユキは何にも感じていない、そんなわけがなかった。
浴室に入ってきた時も何食わぬ顔をしていたのは、ずっと照れていたのを隠していただけだった。彼女はしっかりと俺を異性として認識して、恥ずかしがっているはずなのに、それを隠しながら俺の背中を洗ってくれている。
包帯の下のユキは――何処にでもいる思春期真っ只中の普通の女の子だった。
そしてユキは俺の背中をシャワーで綺麗に洗い流して「それじゃあ、えと、晴くんがお風呂から上がるの待ってますね……」と一言添えて浴室から出ていった。
彼女が去った後も、俺は椅子の上から動けなかった。
俺は天井を見上げる――背中にはさっきまでの感触がまだ残っていた。