第2話、屋根の下②
ユキと一緒に帰る通学路は、朝見た時よりもずっと輝いて見えた。
咲き誇る桜の並木道も、何処までも広がる青空も、立ち並ぶただの民家でさえ今の俺には世界中のどの景色よりも美しい絶景に思えていた。
「ユキ、送らなくても大丈夫か? 俺のマンションにはそろそろ着きそうなんだけど」
「大丈夫ですよ、あたしの借りているマンションもこのまま真っ直ぐ進んだ所にあるので、晴くんは気にしないでくださいね」
「そっか。あの辺、マンションたくさんあったし。案外また近い所なのかもしれないな」
「そうですね。ふふ、楽しみです」
「楽しみって、どうしてなんだ?」
「着いてからのお楽しみですよ。晴くん」
俺の隣で優しく微笑むユキ。
その表情を見るによっぽどユキにとって嬉しい事なんだろうなと思った。考えている事がすぐ顔に出ると言った感じで、顔に包帯の巻いていた時でもユキの表情は分かりやすかった。今は包帯の下にあった彼女の素顔をこうして見れるから、それはなおさらに分かりやすいものだ。
そしてその内容は彼女の言うように着いてからのお楽しみにしておこう。
俺とユキは肩を並べて通学路を進む。
借りているマンションが見えてきた。
「ここが俺の住んでるマンションだよ。ユキのも近くにあるんだよな」
「いえ、ここですよ。実は同じマンションなんです」
「そうだったのか。だからさっき楽しみにしてるってにこにこしてたんだな」
「えへへ。でもまだお楽しみには先があるんですよ」
「まだ先が? 気になってきたな」
俺とユキは一緒にマンションのエントランスへと入ってエレベーターへと乗り込んだ。俺は5階のボタンを押すがユキは自分の住んでいる部屋の階層のボタンを押そうとしなくて、その時からユキが一体何を楽しみにしているのか、何となく分かり始めたような気がした。
俺は扉の前に立って鞄の中から鍵を取り出す。
「ここが俺の借りているとこ。実は母さんが来てるんだ。入学式の時は用事があって来れなかったらしいけどさ。昼からはマンションに来て、今日の入学祝いにご馳走を振る舞ってくれるらしくて。ユキも食べていく? 母さんもきっと会いたがってると思うぞ」
「ぜひお願いしたいです。晴くんのお母様にはとっても良くしてもらったので」
「よし、それじゃあ上がって」
「お邪魔しますね、晴くん」
俺は鍵を開けて、ユキと一緒に中へと入った。
玄関には母さんの靴があってキッチンの方からは良い匂いが漂ってくる。ご馳走の準備を今もしてくれているんだろう。
「ただいまー」
俺は声を上げながら靴を脱ぐ。
ユキも小さな可愛らしいローファーを脱いで俺の後をついてくる。
キッチンに入ると母さんの姿があって、そこでようやく俺が帰ってきた事に気が付いたらしかった。料理を進めながら俺達の方へと振り向いた。
「あら、晴。おかえりなさい」
「ただいま! 母さん、聞いてくれよ! 小学生の時に仲良くしていたユキが――」
「――ユキちゃんもおかえりなさい。帰ってくるの待ってたわよ」
「お世話になっています、晴くんのお母様。今日は本当にありがとうございます」
「良いのよ、ユキちゃん家にはすごくお世話になったから。晴にはもう話したのね」
「はい。入学式が終わった後、日本に帰ってきた事をお話させてもらいました」
「良かったわあ。また晴とユキちゃんがあの頃みたいに仲良く出来るなんて、私も嬉しくって今日はもう張り切っちゃってるの! 腕によりをかけてご馳走を作るわね!」
仲睦まじく話すユキと母さん。
ここにユキがいる事を全く驚いていない様子で、むしろ初めから知っていたような反応に俺は首を傾げる。
「え? え?」
「びっくりしたでしょー? あんたを驚かせようと思って今日まで黙っていたの。実は私とパパはね、ユキちゃんが日本に帰ってきた事を知ってたのよ」
「え?」
「海外に行った後もユキちゃん家とは連絡を取り合っていたから。ユキちゃんの治療が上手く行った事も聞いてたし、日本に戻る話も事前に教えてもらっていたの」
「……知らなかったのは俺だけって事か?」
「まあそうなるわね。あんたを驚かせたくってユキちゃん家と相談して決めたのよ」
「そうだったのか、ユキ?」
「ごめんなさい、黙っていて。でもあたしも会って話す事を考えると緊張してしまって……それで入学式の日に勇気を出そうって、晴くんにお話しようって決めていたんです」
「まあ、3年ぶりだしな、初対面より緊張するだろうし俺もそうだったよ。でもまさか母さんと父さんも知ってたなんて。同じマンションだって事も知ってたのか、母さん?」
「そうよ、それでねもう一つサプライズがあるの。晴、あんたが使っている部屋の隣、見てみなさい」
「俺の部屋の隣?」
母さんが来るという事で、自分の部屋の掃除だけはしておいたけど、隣の部屋は手つかずで引っ越した際の荷物が並ぶ物置だったはずだ。引っ越した時のダンボールが散らかって、まだ整理していなかった荷物が散乱していた。今日の朝、学校に行くまでは間違いなくそうだった。
俺は母さんに言われた通り、隣の部屋の扉に手をかける。
そしてその部屋の中を見て固まった。夢を見続けている気がする、頬をつねってもらいたい気持ちとはこういうものなのだろうか。いや――出来れば起こさないで欲しい、これが夢だというのならこの夢を見続けたいと思った。
俺の目の前に広がる光景。物置だった部屋が気付かぬ内に片付けられて、可愛らしい女の子の部屋に生まれ変わっているのを見た。ベッドもタンスも机もその他諸々、今日の朝には絶対になかったものだ。
「もしかして……ユキが住む所って?」
「はい。実は晴くんの隣の部屋なんです」
ユキは嬉しそうに笑みを浮かべながら答える。
彼女はここに来るまでずっと楽しみにしている事があった。それを内緒にしていたけれど、ユキが俺と同じマンションで、エレベーターでボタンを押さなかったのを見て、同じ階の近くの部屋なんだとそう予想していた。
けれどそれは間違いだった。
ユキは俺と同じ屋根の下、同じマンションの一室で、隣合わせの部屋で暮らす事になっていたなんて、想像出来るわけがなかった。
「母さんが入学式に来なかった理由って……これなのか?」
「正解よ、晴。実はね、ユキちゃん家と私とパパで、午前中の内に荷物を運んでね、大急ぎでお部屋をレイアウトしたのよ。あんたを驚かせる為にね。お仕事があるからユキちゃん家もパパも先に帰っちゃったけど、つまりはそういうことね」
「まじかよ……」
「まじよ、まじ。あんたとユキちゃんが同じ高校に進学する事が決まった時にね、ユキちゃん家とお話したの。離れ離れになってたあんたとユキちゃんが、あの頃みたいに仲良くなれればって」
「だからこんな立派なマンションを借りてたのか? 部屋が二部屋あってリビングもキッチンも大きくて、風呂もトイレも別で、一人暮らしをするには大きすぎると思ってたんだ」
「そういう事。マンション代も半分ずつ出すから安く済むし、それなら下手なアパートを借りるよりよっぽど良いと思って。それにね、高校も同じなら勉強だって見てもらえるわ。小学生の頃もそうだったけど、ユキちゃんってとっても頭が良いのよ」
そんな話が裏で進んでいるとは思わなかった。
俺はユキを見る。
ユキは俺を見つめ返して優しく微笑む。
「これから3年間。学校でもお家でも、いっぱい仲良くしてくださいね、晴くん」
親公認のユキとの同棲生活が始まっていた。