第7話、誘惑③
「ねえ、晴くん……起きてますか?」
聞こえてきたのはユキの声と、部屋の中に入ってくる足音だった。俺は被っていた毛布から顔を出す。
入眠用の薄暗いライトに照らされるユキの姿。
可愛い柄のパジャマを着ている彼女が立っていた。
「ユキ……?」
「晴くんも起きてたんですね。ごめんなさい、なんだか今日は眠れなくて」
「あ……ああ。俺もなんだか寝付けなくてさ」
「もし良かったら、一緒に寝ませんか?」
「寝るって俺のベッドで……か?」
「はい」
ユキはそう返事をした後、俺のベッドの真横に歩み寄る。
高鳴る胸を抑えながら俺はユキから目を逸して背中を向ける事にした。またあの妖艶な笑みを浮かべているのかと思って、今この状況で彼女のそんな表情を見たら興奮のあまり心臓が喉から飛び出してしまいそうだった。
「お邪魔しますね……」
囁くような小さな声が聞こえて、ユキは俺の被っていた毛布へと手を伸ばしていた。めくられる毛布。そして毛布の中に彼女がゆっくりと入ってくる。
狭いベッドにユキと二人きり。高まっていく鼓動。それが漏れ聞こえていないか、心配に思った時だった。
「ふふ。晴くん、すごいどきどきしてる」
「あ……っ」
俺の胸に小さな手を当てながら、ユキは背を向ける俺を抱きしめていた。もう何もかもが彼女には筒抜けだった。高まる心臓の音もどきどきと脈打つ胸も、ユキはそれを全身で感じるように俺を強く抱きしめる。
「晴くん、あったかい。ずっとこうやって一緒になりたかったんです」
「そ、そうだったのか……」
「はい。恥ずかしくて出来なかったけど、今日は……その、勇気を出してみようと思って」
「勇気を出してみようって、だって今日のユキはそもそも――」
――待てよ。
よく考えて見ろ。ユキが以前に俺の背中を洗ってくれた時もそうだった。彼女はとても恥ずかしがりながら、それを俺には気付かれないように振る舞っていた。そして今日のユキはまるで小悪魔のようで、妖しく笑みを浮かべながら俺の事を誘惑していた。
けれどあの妖艶な笑みの向こう側でも、本当は恥ずかしがっていて、それを隠して振る舞っていたとするなら? 彼女は勇気を出して小悪魔のふりをしていたのなら――妖しく笑むユキも、今こうして俺を抱きしめているユキも、包帯を巻いていた頃と変わらない優しくて健気な、俺の知っているユキだった。
ユキに背を向けていた俺はゆっくりと寝返りをうって彼女の方に振り向いた。そして俺はユキの宝石のような青い瞳を覗き込む。薄暗い明かりの中で、それでも彼女が小さな吐息をこぼしながら頬を赤くしているのが分かった。
「ユキ、今日は楽しかったよ。水族館に誘ってくれてありがとう」
「晴くん……あたしも楽しかった」
彼女は優しい微笑みを浮かべて瞳を見つめる。
静かで幸せな時間が流れていく。
俺はユキの事を抱きしめた。
俺の腕の中に収まったユキ、柔らかい女の子の体、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。ユキも俺の背へと手を伸ばして抱きしめ返していた。ユキの温もりを感じていると心地が良くて安心する、今までの緊張が急にほどけていって、だんだんと瞼が重くなってくる。
それはユキも同じだったようだ。
彼女は瞼を閉じて、小さな寝息が聞こえてきた。
今日のユキは早起きして、豪華なお弁当を作って、出かける為の支度にも時間をかけて、俺との一日が楽しくなるよう精一杯頑張ってくれた。その後も俺との距離をもっと縮めようと勇気を出して小悪魔のように振る舞って、いつもとは違う事をたくさんして疲れてしまったのだ。
明日は家でゆっくり休もうな、ユキ。
一緒にご飯を作ったりゲームをしたり、ネットで映画を見たり、一緒にのんびりと二人だけの時間を楽しもう。
俺はユキの頭をそっと撫でる。目を閉じて静かに眠るユキ、愛らしくて優しい彼女の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じてそのまま夢の世界へと落ちていった。