第7話、誘惑①
公園での出来事の後、俺はもう何も手に付かない状態だった。
それからまた移動してユキの買い物にも付き合ったけど、小悪魔になってしまったユキの事で頭がいっぱいで、彼女が何を買ったかも良く覚えていない。その後はもう家に帰る事になって、今は俺達以外に誰も居ないバスの中、一番奥の片隅で並んで椅子に座っている。
ユキの方はと言うと朝からお弁当を作る為に早起きしたり、久しぶりの遠出で疲れたのかバスに揺られながら小さな寝息を立てていた。公園に居た時は小悪魔に見えた彼女が、今は可愛らしい天使の姿に戻っているように感じた。
俺の肩に寄りかかって気持ち良さそうに眠るユキ。
こうして眠っているユキがとても可愛く思えて、その無防備な様子を見ていると、いたずらしたくなってくるのが男心というもので――自然と手が伸びてしまう。俺はユキの白くて柔らかそうな頬を指でつついていた。
ユキのほっぺたはもちもちと柔らかくて、それでいて張りがあって、ずっと触っていたくなる程のものだった。手が吸い付く肌というのはこういうものを言うのか。あまりに触り心地が良くてつい我を忘れてしまう。
熟睡しているのかユキが起きる様子はなくて、むにゃむにゃと口の中で何かを呟いていた。これならもう少し何かしても気付かれないんじゃないか、ともっと色々やってみようと悪魔の囁きが頭の中に響いてくる。その瞬間に心臓の鼓動が高鳴った。
ユキ、何をされても良い……って言ってたよな。ここなら運転手からも見えないし……他に乗客はいないし、ちょっとくらいなら……と頭の中の誘惑に負けて手を伸ばしてしまう。
小さなユキの手を触る。
柔らかい女の子の手。細い指先、爪は整っていてまるで真珠みたいに綺麗だった。初めて見た時も綺麗だって褒めたけど俺はユキの手が好きだ。
水族館ではこんな可愛らしい手をずっと握っていたなんて夢みたいに思えてくる。だからそれが夢じゃなかった事を確かめたくなって、俺はそっとユキと再び手を絡ませた。
眠っているユキ。こうしているだけで胸にこみ上げてくるものがある。彼女の温もりが俺にはとても心地が良かった。
ユキの頭を撫でたくなる。水族館に居た時はぐっと堪えたけど、今はもう我慢出来そうになかった。彼女の肩にかかっていた柔らかな白銀色の髪に手を伸ばす。さらりと髪をすくうように指を通すと、普段から彼女が使っているシャンプーの甘い香りが広がった。
そのまま彼女の頭を優しく撫でる。ユキの事が愛おしくてドクンと心臓が跳ねた、ユキのぷっくりとした桜色の潤んだ唇に俺の目は釘付けになっていて、彼女の唇をこのまま奪ってしまいたい、そんな衝動に駆られた。
俺はユキを起こさないように顔を近づける。
包帯の下にある彼女の素顔。整った長いまつげ、白磁のように滑らかな肌、天使のような美しい顔立ちの少女。そして艶やかな桜色の唇に近づいて、俺は――。
その時だった。
「――はるくん……すき」
ユキのそんな寝言が聞こえてきて俺は我に返った。
慌てながら元の体勢に戻って行儀よく席に座り込む。
純粋に俺の事を想ってくれている女の子に対して、そんな彼女が眠っているのを良い事に、一体俺は何をやっているんだ、と理性という名の天使が声を荒げて俺の頭の中に降ってくる。さっきまで意気揚々と暴れまわっていた本能という名の悪魔は身を潜め、理性の天使が頭の中で大手を振って歩いていた。
大きく深呼吸して心を落ち着かせる。
危なかった。あのままだったら俺はユキの唇にキスをしてしまう所だった。これ以上はユキにいたずらはしない、そう誓ってユキから目線を逸らそうとした瞬間。
「……ねえ、晴くん、キスしないんですか?」
俺に寄りかかって寝ていたはずのユキが起きていた。
青い瞳でじっと俺を見て甘えるような声を聞かせる。今日何度目なのかもう分からない、俺の心臓が再び跳ね上がった。
「ユ、ユキ。もしかして……起きてたのか」
「ほっぺたをつんつんされた時に起きて、晴くんが何をしてくるのかなって」
全然気付かなかった、本当に熟睡していると思っていたんだ。
だってそうじゃなきゃこんな事は出来るはずもなかったから。
「ふふ。でもあたしが好きって言った途端に、止めちゃう晴くん。とっても純粋なのが伝わってきてすっごい可愛かったですよ」
ユキは俺の耳元でまた囁いた。彼女の甘い吐息を感じてしまってどうにかなってしまいそうだった。そんな俺に彼女はさっきのいたずらの仕返しをし始める。
「……!?」
俺の耳を甘噛みするユキ、思わず声を上げそうになったがなんとか堪えた。ユキはゆっくりとその口を離しながらまた耳元で囁く。俺の手を取って妖しく微笑んでいた。
「ねえ晴くん……続きはお家で、二人きりでしましょうね」
バスがゆっくりと停車する。
そこは俺達のマンションの最寄りのバス停、ユキは俺の手を引いてバスの外へと連れて行く。このままマンションに帰って二人きり、一体何が起こってしまうのか、期待と不安が入り交じるなか、俺とユキの二人はバスを降りていった。