憧れ
それからの葵の行動は早かった。碧が目を覚ますのを待ち、事の顛末を話し、黒蘭の申し出を受けるつもりであることを伝えた。突然の話に戸惑うも、碧は結局葵に従うことにした。
「碧君もすっかり元気になったな」
「あの、黒蘭様。先日提案していただいたお話ですが、本当によろしいのですか?」
黒蘭が碧を見舞に来たタイミングで葵は話を持ち掛けた。
(もし気が変わってしまったらどうしよう)
話ごとなかったことにされたりしたら、と不安が襲い、ついうつむいてしまう。しかし、そんな不安を払拭するように大きな腕が葵を包んだ。
「良く決心してくれたね。不安だったろう。もう大丈夫だ」
「・・・黒蘭様」
「碧君も、それでいいかな」
「・・・・僕は兄さんについて行くだけだから」
ぶっきらぼうな物言いに、黒蘭は思わず苦笑した。
「そうと決まれば、少し忙しくなるぞ。まずは今の保護者から親権を譲ってもらわなければな。これからは私が君たちの保護者だ」
「あの、僕ができることはないですか?なんでもします!」
「そんなに焦らなくてもいいんだ。まずはしっかり体を休めなさい。親権が渡ったら忙しくなる。学校にも行かないといけないし、勉強も頑張らないとな」
「・・・学校」
「そうだ。これまでの環境を考えると学校も休みがちだったんだろう。本来なら君たちは勉強して遊ぶことが仕事だ」
「・・・僕、たくさん勉強します!たくさん勉強していつか必ず恩返しします!」
「ははっ!頼もしいな。そのためにもまずは生活を整えるところから始めないとな」
それから幾日もたたず、正式に黒蘭へと親権が渡った。そんなに早く、と疑問を抱かないこともなかったが、黒蘭は大手企業のオーナーだ。ツテならいくらでもあるのだろう。葵と碧は親戚一家に煩わせられることなく、縁を切ることができた。
黒蘭のもとでの生活が日常として落ち着き始めると私立の学校への編入が決まった。葵は言葉通り勉強に励み、全学給付型の奨学生となった。日本から中国に移って、何とか身につけた日常会話程度の中国語も講師を付けてもらいネイティブレベルへと仕上げていった。
「勉強に励んでいると聞いた。奨学生にまでなったと聞いたが、私はお金がないようにみえるか?」
「そんなことは!ただ、早く義父さまの力になりたくて勉強しているだけです。もっともっと勉強しないと・・・」
「・・・私は別に養ってやってるとは思ってほしくないんだ。ただ、君が健やかに育ってくれればいいと思っている」
「僕たちを救ってくださったことに本当に感謝しているんです。返しきれないほどの恩を受けました。義父さまはいいとおっしゃいますが、僕がしたいと思っているんです。今の僕ができる範囲で、精一杯のことをしたいんです」
「・・・まったく。頑固だな。わかった。ただし、体を壊さない程度にしなさい」
大きな手が葵の頭をなでる。葵はその手が大好きだった。黒蘭に褒められる度にもっと頑張ろうという気持ちになった。
碧が寝て、黒蘭が淹れたお茶を飲みながら二人きりで会話をするこの時間が好きだった。この瞬間だけは碧の兄でなく、清家 葵という一人の少年の姿を見てもらえるからだ。
「頑張っている葵にはなにかご褒美が必要だな」
「ご褒美だなんてそんな!」
「なんでもいい。ほしいものはないのか?最近の子の好みは私にはわからないから、教えてくれ」
「・・・・本当になんでもいいのですか?」
「ああ。ゲームとかか?遊園地でもいいぞ」
「・・・一度だけ、抱きしめていただきたいのです」
「・・・・・」
何も返さず固まる黒蘭に、葵は自身の体温が急激に下がっていくのを感じた。しまった、と思考が停止する。
「・・・・申し訳ありません。おかしなことをいいました。僕、部屋に戻りますね」
恥ずかしさと自己嫌悪でいたたまれなくなって思わず席をたった。足早に立ち去ろうとするその腕を、黒蘭がつかむ。
「・・・待ちなさい。まだ、だめとは言ってない」
「だって・・・ごめんなさい。義父さまを困らせました」
「少し、戸惑っただけだ。養子縁組をしたとはいえ、まだ距離があると思っていたから吃驚しただけだ。葵が私に歩み寄ってくれることは嬉しいよ」
「本当ですか?」
「ああ、おいで」
これから成長期に入ろうかという葵には、黒蘭はまだ長身だ。黒蘭の胸の位置にも届かないほどの身長で、懸命に腕を伸ばす。そんな葵を黒蘭の長い腕がすっぱりと包み込む。
「勉強も大事だが、しっかり休むことも大事だ。でないと身長が伸びないぞ」
「わかってます。どうしても焦ってしまうのです。義父さまに褒めてもらいたくて」
「私はお前が勉強できなくたって構わないのに」
黒蘭が頭をなでてやると、葵は嬉しそうにさらに強く抱き着いた。
「でも、そしたらこうしてご褒美をもらえなくなってしまうから」
「・・・葵は、ずっと抱きしめてほしかったのか?」
「はい。両親は忙しい人でしたから碧の面倒は僕がみていました。甘える時間もなかったから、こうして抱きしめてもらったことはあまりなくて。・・・碧に甘えることもできないし」
「・・・いつでも言いなさい。さみしくなることもあるだろう。これからは私がいる」
そう言って黒蘭は葵を強く抱きしめた。これが黒蘭への憧れのはじめだった。黒蘭は葵が欲していた全てを持っていた。父性、安心、居心地の良さ。それを惜しみなく与えてくれる黒蘭に惹かれるのは当然ともいえた。
それから月日が過ぎ、黒蘭も葵に仕事を任せることが増えた。そして、葵は仕事を請け負う度に黒蘭への期待に応えようと励んだ。黒蘭から頼られることがうれしかったから。黒蘭との距離がもっと近くなるような気がしたから。
明らかに懐いている葵を黒蘭がかわいがっているのも、事実だった。期待に応えようとする葵になにがご褒美をと聞いても、いつも抱擁を求めるだけなのがいじらしかった。葵が自身に父性を求めていることをわかっていたから、よき養父であるように努めた。
養子縁組後、二人は関係の良好な親子そのものだった。その関係に変化を与えたのがある事件だった。




