労い
心地よい感触に違和感を覚えて目を覚ます。ふかふかのベッドに寝ていたことに気が付き、あわてて起き上がるとベッド脇に腰かけていた男性の存在に気が付いた。自国といえど、洋服が普及した今では珍しい満州服を着こなす姿が印象的だった。
「起きたかい?道端で君が倒れているのを見かけて家に連れ帰ったんだ。丸一日寝ていたからだいぶ顔色が良くなったな」
声をかけられてハッとする。今の状況に混同するも、とっさに浮かんだのは碧のことだった。
「碧っ!・・・弟は?!」
「君の弟なら一緒に連れ帰ったよ。君を連れて帰ろうとしたとき、『弟が』って言っていたからね。碧君も今医者に診てもらって療養してる。数日もたてば熱も下がって元気になるだろう」
「ありがとうございます!」
「お腹がすいただろう。ご飯を用意させたから食べるといい」
視線をやると、ごちそうがテーブルいっぱいに並べられていた。
「とはいえ、君の体調も全快ではない。ゆっくり食べるんだ。おかゆもある。食べられそうなものだけ食べればいい」
鼻腔をくすぐるおいしそうな香りに、腹が鳴った。テーブルに駆け寄り、食事に手を付けようとしたところでふと手が止まる。
「あ、でも碧も一緒に・・・」
「君はいいお兄さんだね。碧君は今寝ているし、先に食べなさい。碧君が起きたらまた用意させる」
優しく微笑む顔も印象的だ、と思った。
「あの、あなたは一体・・・。どうして見ず知らず僕らにこんなに優しくしてくれるんですか?」
「聞きたいこともあるだろう。食事をしながら話そう」
向かいの椅子に腰かけると、慣れた手つきてお茶を入れ始める。中国人はお茶にこだわる。葵の母親が中国人であったため、知識としては知っていた。
「現代人は忙しいからね。こうしてゆっくりお茶を入れる機会もめっきり減ってしまった」
茶壺と呼ばれる急須によく似た形の茶器に茶葉を入れ、お湯を注いてで蓋をする。その上からさらに熱湯をかけてお茶をむらす。一分から二分蒸らしたあとは、予めお湯を入れて温めておいた茶海と呼ばれるポットにお茶を注ぎ入れ、これをさらに聞香杯と呼ばれる縦に長いカップにそそぎ、茶杯で蓋をする。これをくるりとひっくり返し、相手に差し出す。
「君も飲むと言い。飲みやすいものを選んだつもりだ」
「あ、ありがとうございます」
聞香杯をとると甘い香りが香った。一口飲むと体がほぐれていくような心地に、心が休まる思いになった。
「体が内側から温まるだろう。」
「はい、とても」
まろやかなお茶の甘みと温かさに思わず笑みがこぼれる。こんなにほっとした気持ちになるのは本当に久しぶりだった。
少し落ち着いたところで、本題に入る。先に口を開いたのは男の方だった。
「私は、李 黒蘭。李商事と言うのは聞いたことがあるかな?」
「はい、とても有名な企業ですよね。海外にも進出してるとか」
「そうだ。私はそこのオーナーみたいなものだ」
「えっ?!そんな、どうしてそんな人が僕みたいなのを・・」
「君が道端で倒れているのを偶然見てしまったというのもあるが、君の顔になつかしさを覚えてね。病院に預けても良かったんだが、つい家に連れ帰ってしまった。それに病院よりもこちらの方がいい対応ができる。
ご家族が分からなかったから連絡できていないのだが、ご家族が心配されているだろう。食べた後にでも連絡するといい。」
「・・・家族は碧だけです。両親は事故で無くしました。こちらの親戚に引き取られましたが、ごらんのとおりです。あの家では、僕らはこのままでは殺されてしまう」
(そうだ、丸一日寝ていたと言っていた。病院に行くために家を出たのが一昨日。家に戻ったらまたひどく殴られる)
思い出すと体が勝手に震えだした。茶杯を持っていた手が震え、カタカタと音がするのをもう片方の手でそっと抑えるも、あまり意味はなかった。その様子を見ていた黒蘭はふむ、と再び茶杯をもちあげた。
「不幸が続いたんだな。辛かったろう」
「いえ、たまたまそういう運命だったと思うようにしています。でないと、誰かに当たってしまいそうだったから」
運命の二文字にまとめてしまえば、悲しみや憤りに蓋をすることができる。やるせない気持ちをくすぶらせたまま、碧に八つ当たりはしたくなかった。
葵が諦観した様子でこれまでのいきさつを話すのを聞き、黒蘭は何か考えるように茶杯を見つめた。
「・・・僕は、あの家に戻りたくない」
搾りだすような言葉に、黒蘭は茶杯を揺らしていた手をぴたりと止める。そして、茶杯を机に置くと決心したように葵を見つめた。
「君が、・・・君と碧君が良ければ、家族にならないか?」
「え?」
「私も実は独り身で、結婚を、と話を持ち掛けられることにももうすっかり滅入ってしまった。とはいえ独り身というのはさみしいものだ」
「・・・・どうして、そこまで」
「・・・・君を放っておけないというのが本音かな。君と碧君がどうしたいかで考えなさい。
急な話で困っただろう。だが、考えてみてくれ。迷惑になるとか、そういうことは考えなくていい。二人を養うくらい何も問題がないからな。おそらく、今よりはるかに良い環境を用意してやれる。
君はこれまでよく頑張った。ご両親が亡くなって幼い弟の面倒を見ながら擦れずによく頑張った。なかなかできることではないよ。責任感と気力でここまで来たんだろう。今この瞬間は自分のことだけを考えるといい。
私は仕事があるから席を外すが、ご飯はしっかり食べるんだよ」
去り際に大きな手がねぎらうように肩をたたいた。こんなふうに労われるのは初めてだった。
碧は大事な弟だ。だが、時々面倒を見ることに疲れを感じることがあったのも、一人になれたならと思うことがあったのも事実だった。そして、それを思う度に罪悪感を感じていた。碧にとっては自分しか頼れる人がいないのに、たった一人の肉親なのに、両親が知ったら悲しむからこんなこと思っちゃだめだ、と。そうしたくすぶった気持ちを丸ごとくみ取って、労いの言葉をかけたのは黒蘭が初めてだった。
「・・・・っ・・ふ・・っ・・・・うぅ・・・・っ」
両親が亡くなって今まで、葵は一度も泣かなかった。突如両親に会えなくなって訳も分からず泣いている弟をなだめなければならなかったし、引き取られた親戚の家では泣いている場合ではなかったからだ。
目頭がじんと熱くなる。じわりじわりと涙腺から涙があふれ、一度、涙が落ちたらもう耐えられなかった。その涙は呼び水となって、体の全ての水分を集めたようにとめどなく涙が溢れた。
『よく頑張った』
黒蘭の言葉が思い出される。こんなに温かい優しさに触れたのは両親が亡くなって以来だった。




