浅ましい嫉妬
「兄さん、学校に遅れるよ?」
結局あの後自室に逃げるように駆け込んで、あふれる涙が止まるまで布団にくるまっていた。碧は自分で起きて食事をとり、学校に行こうとしている。
「体調が悪いから今日は学校を休むよ」
部屋の前にいるだろう碧を追い払うようにぞんざいに言い放つ。弟はかわいいが、今ばかりは心に余裕がなかった。
たった一言に込められた自身の浅ましい嫉妬心。葵にとって黒蘭は常に憧れの対象だった。いつから憧れていたか。仕事を任せられるようになってからか、共に生活をするようになってからか。いやもっと昔、養子になったころだろうか。
葵と碧は両親を事故で亡くした後、母方の親戚に引き取られた。しかし、そこでの生活は幸せとは遠いものだった。教育を受けさせず、使用人同然、いやそれよりもひどい扱いを受けた。朝早くから夜遅くまで、家のことを手伝わされ、報酬ともいえない冷えた残飯を渡される毎日。風呂にも親戚の目を盗んで入るほどで、濡れたタオルで体をふくこともざらだった。
やすりで精神を擦り減らされるような毎日。限界が来たのは碧が熱を出したときだった。
親戚に引き取られて明らかに元気がなくなったのは碧の方だった。朝、まだ日も登らない内に起きて朝食を準備しなければならいが、碧はまだ起きていなかった。
起こさないように静かに部屋を出て、いつも通り準備して部屋に戻ったのはそれから3時間後。まだ起きていない碧に、さすがに違和感を感じ体をゆすると熱にうなされ、苦しそうに呼吸をしていた。
「碧っ?!」
額に手を当てると、かなり高い熱を出していることが分かった。こっちに来てから体を壊さないように気を付けていたが、それでなくとも子供は体調を崩しやすい。劣悪な環境下では当然のことだった。
「おばさん、碧が熱を出して苦しそうなんだ。医者に見せてやりたいんだ」
「何を言ってるんだい。一日寝かしておけばすぐに治るよ。だいたい医者なんて、最近はどこも値段が上がって私らですら行くのを遠慮してるっていうのに生意気だ。お前たちにやる薬もないからね!」
はなから期待もしていなかったが、面と向かって言われると堪えるものがものがあった。常備薬すらもらえないなんて。
「碧が動けない分、お前がやるんだよ」
「・・・わかりました」
せめて、と持ち帰ったのは濡れたタオルと水だけ。気休めにもならないような処置しかできないことに、歯がゆい思いだ。
「ごめん、ごめんな碧。」
「にい・・・さん、体が熱くて苦しい」
葵は祈るように世話を続けたが、その日碧の熱は下がるどころか症状は悪化するばかりだった。次の日も熱は下がることはなかった。結局、葵は親戚の目を盗んで、医者に診てもらうことにしたのだった。
「碧、もうすぐ医者に診てもらえるからな」
金の用意もあてもない。ただとにかく医者と薬が必要だった。自身も今にも倒れそうな状態にも関わらず、背中に碧をおぶっておぼつかない足取りで病院へと向かった。
やっとの思いでついた病院の戸を叩き、医者に診てもらうことができた。身分証明ができるものもないためずいぶん怪しまれたが、碧の症状があまりにひどく受け付けをすますよりも診てもらうのが先になったのは不幸中の幸いだった。
「これはひどい。もう少しで肺炎になるところだった。お兄さんもひどくやつれている。失礼なことを聞くが、ご両親は?」
「両親は事故で亡くなって、今は親戚の家に身を寄せていますが、この通りです。先生、お金も今は無くて、でも必ず返しますから弟を治療してくれませんか?」
「・・・・すまない。この不景気でね、治療してやりたくても治療費がなければ薬も出してやれない。悪いが他を当たってくれ」
「そんな!先生!」
「こっちも、気遣ってやれる余裕がないんだ。すまない、本当にすまない」
「僕、本当に何でもします!雑用でもなんでもしますから!」
「君、彼にお引き取りいただいてくれ」
呼ばれた看護師に取り押さえられるようにして、碧と共に医院の外に追い出された。途方に暮れて、碧をおぶって帰路につく。葵はこの時初めて死んだ両親を恨んだ。両親が今でも生きていれば、こんなことはなかっただろうと。再び碧を背負い、葵はどこへともなく歩き出した。
「にい・・さん、ごめんね、ぼくがねつをだしたばっかりに」
「・・・・うん。」
そんなことないよ、ということもできなかった。それができるほどの余裕もなかった。弟がずり落ちないように両腕でしっかりおぶってやることが精いっぱいだった。
「兄さん、ちょっと疲れたから休憩してもいいかな」
「うん、ごめんね。おぶってもらって」
木陰に碧を降ろし、隣に座って息をつく。
「ぼくがいなかったら、兄さん一人だったら、こんな面倒かけずにすんだのに、ごめんね」
「もう謝っちゃだめだ。碧はなにもわるくないから」
碧が謝る声も聴きたくなかった。口から出たのは兄としての義務感から出た言葉だった。
「ちょっと歩いてくる。じっとしてるんだよ」
「うん・・・」
少しの間だけもいい、一人の時間が欲しかった葵は碧から離れるとどこにいくわけでもなく、歩き出した。まだ暑さの残る季節、じっとりと熱い空気が体を包む。家を出てからここまで焦りと気力だけで来た分、一人になったとたん思い出したように体に疲労感がのしかかった。と同時に腹も鳴った。そういえば今日はまだ何も食べていない。
空いた腹をさすって、空を仰いだ。青い空を悠々と飛ぶ鳥が映った。あの鳥は自由だ。腹がすけば狩りをすればいい。借りがうまくいかなかったら裏路地のごみ箱でもあされば十分に食べれるだろう。野生だから、腹はきっと自分たちより強いはずだ。
(野生を羨むなんて・・・)
ついに思考までイカれてしまったか、と思わず嗤った。と同時にぐらり、と視界が暗転する。倒れてしまったことはわかった。倒れたときに足でも擦ったか、じくじくとした痛みを感じた。すっかり疲れてしまった、と起き上がることも辛く感じた。
(いっそこのまま意識を手放せてしまえたら)
薄れゆく意識の中で葵は、どこか安堵感を感じた。
「・・・・み、・・君!大丈夫か?!」
遠くで呼びかける男の声が聞こえた気がしたのを最後に葵は意識をとばした。




