濁った池
翌朝、一通のメールに黒蘭は大きくため息をついた。
マディーから浩宇の受け渡しが遅れるということだった。マディーと話をつけてからはやる気持ちを抑えられなかった分、落胆した。
「義父さま、体調がすぐれませんか?」
「葵、おはよう。いや、そんなことはない。楽しみが先延ばしになってしまったのが顔に出ていたかな」
「楽しみとは何ですか?」
「ずっと待っていた子がいるんだ。何年も離れ離れになっていて、ようやく会えそうだったのに。少し先延ばしになっただけなんだがね」
「待っていた子」、という言葉が葵の頭に引っかかった。それにやさしさを帯びた声にも、葵は心にもやがかかるような心地になった。
葵は敏い。黒蘭の仕事の一端を担うようになって、李商事のオーナーとしての黒蘭の姿を知り、いつも葵に見せる優しい姿だけではないことを知った。時に、冷酷。表立って言えないことにも関わっていることもなんとなく知っている。そして、彼が葵自身を見ていないことも。
昨日の夜のように触れられたときは、とくにそれを痛感させられる。いつもの頼れる父の姿は消え、隠れていた一人の男が現れる。その男は葵に触れる時、一つ一つ確かめるように顔に触れ、顔を見つめる。そして苦しいような、救われたような、様々な感情が混じったため息をついて葵を強く抱きしめる。
「待っていた子」とは、その人のことなのだろう。きっと自分によく似た子なのだろう。もやもやとした気持ちを明確に言葉にすると、気分はさらに沈んだ。
「どうした、元気がないな。昨日は眠れなかったか?」
「いえ、そんなことは」
ふと抱えたさみしさの理由を明確にすると、さらに気分が沈む気がして葵はこれ以上その子について考えるのをやめた。池に石を放ると、下に溜まった泥が衝撃で舞い上がる。そっとしておけば泥はまた沈殿する。かき混ぜてしまうのは簡単だが、沈殿するまでにまた時間がかかる。時折かかるこのもやもやとした感情はこれによく似ている。
「・・・葵、お前はいい子だ。だがいい子過ぎるのは良くない。何か問題があるなら話してみなさい」
「いえ、本当になにも・・・」
しっかりと合わせられた目をそらすこともできず、池が揺れる。せっかく、考えるのをやめようとしたのに。
「葵」
「・・・さみしい気持ちになっただけです」
「さみしい?」
「ほんとに楽しみにされていたのが伝わります。けれど、その人は友人というには収まりきらない方なのでは?」
「葵、何を言っているんだ?」
「本当に何もないんです。本当に何も。
碧はまだ起きてないみたいですね。そろそろ一人で起きれるようになってほしいのに。僕起こしてきます。朝ごはんも冷めちゃうし。義父さまももう出ないといけない時間ですね。朝の忙しいときにごめんなさい。失礼します」
早口でまくし立て、無理やり会話を切り上げて逃げるようにその場を後にした。大丈夫。池はまだ濁りきっていない。ざわついた心落ち着けるように葵は言い聞かせた。
「一体何だっていうんだ」
一人残された黒蘭はため息をついた。年の割には大人びた子だと思っていたが、まだ子供らしい一面も持ち合わせていたかと思うもそれはどこか違うような気がする。思春期だから、と一言で片づけるには葵を取り巻く環境は複雑だ。今晩にでも話を聞いてやらないと、と思った。
「旦那様、そろそろ出社のお時間です」
「わかっている。今日はやることがたくさんあるから、遅れるわけにはいかないな」
らしくない葵の様子に後ろ髪をひかれる思いだが、昨晩の王龍との約束もある。早速今日中に動かないと何をするかわからない男だ。
少し前まで、喉から手が出るほど欲していた李商事オーナーの座に就いたものの、仕事の量に忙殺される毎日。自分でも笑ってしまうほど強い執着心のせいで投げやりにすることもできない。
黒塗りの高級車から外を眺めながら、黒蘭は今日何度目かのため息をついた。




