毒なのか薬なのか、どちらが幸せなのかを問う
口から放たれたその言葉は、まるで点滴のように、体内へと堕ちていく。
ぽとん
ぽとん
長い年月をかけ、身体の隅々へと染み渡っていき、その細胞らの、ひとつたりとも残さずに。
毒なのか薬なのか。
どちらが幸せなのかを問う。
✳︎✳︎✳︎
冬のある寒い日。
私たちは双子としてこの世に生まれた。
一卵性双生児で、女の子。
瓜二つの容姿、似た性格、似た思考。これほどまで近い存在はあり得ないというほどに、私たちはとてつもなく近かった。
10分、私の方が遅く生まれたのだという。
けれどこの時、私が姉を押し退け、この世に姉より先に生まれていたなら。
今とは違った人生を歩んでいけたのかもしれない。
私の母は、双子の誕生をとても楽しみにしていたそうだ。
花柄のワンピース、フリルのついた靴下、ハートのチャームのついた髪留め。
物心ついた頃には、そういったものが必ずペアで揃えてあって、それが特にこれといった趣味を持たない母の、唯一の楽しみなのだということはわかっていた。
その中のアイテムのひとつでも嫌だと言えば、この家の均衡が崩れることにも、どこかで勘づいていたのだろうと思う。
反抗や拒絶はしなかった。逆らいたいとも思わなかった。
もともと私たちは大人しい性質で、争いごとを好まなかった。
姉のサヤは特にそれが顕著で、長女特有のおおらかさを遺憾なく発揮していたし、何に対してものんびりとこと構えていた。
母は、女の子が欲しかったのに加え、フランス人形のような双子だったのが相当、嬉しかったのだろう。けれど、それは着せ替え人形の外見がというだけの話で、もしかすると双子の中身には無関心だったのかもしれない。
肩まで伸ばした栗色の髪。右サイドへの編み込みは、姉のサヤ。左サイドへの編み込みは妹の私、ミヤ。
そうでもしなければ、親とはいえ、私たち二人が姉なのか妹なのか、サヤなのかミヤなのかを、判別することができなかったからだ。
それくらい、私たちは似ていたのだ。
けれど、ある日を境に、その均衡は破られてしまった。
私と姉が、小学校4年生の時のことだった。
✳︎✳︎✳︎
父親はまったくと言っていいほど存在感のない人で、この家で父は、私たち双子を中心に回っている母親という惑星の、衛星のような人だった。
その週末の土曜日、そんな父を含めて、家族4人でファミレスに行った。
それぞれが食べたいものを注文し、運ばれてきた料理を食べ始める。
大食漢だった父は、いつもぺろりと食事を平らげ、その次に母が食べ終わるのが常だ。
私たち双子は、大好物のハンバーグステーキを注文し、最初は嬉しそうに食べていたのだと思う。使い慣れないフォークとナイフに苦戦しつつ、小さく切ったハンバーグを口に入れる。肉汁が口の中でじゅわっと広がっていき、私は心から美味しいと思った。
「サヤちゃん、おいしいね」
私がそう隣の姉に笑いかけると、サヤも同時に同じことを言おうとしていたらしく、こちらを見ながら口をパクパクさせている。
「そうだね」
お互いににこっと笑ってから、またハンバーグをひとくち、口へと入れる。
「「おいしい〜」」
姉妹の声が見事に揃う。
甘いソースが口についた気もするが、私たちは食べることに夢中になっていた。
「口を拭きなさい」
母が言うと、私たちはその言葉に反応して、同時にナフキンを掴んで口元をぬぐった。
「もっと綺麗に」
母の言葉は続き、私たちはさらにナフキンケースからナフキンを引き抜いて、口元にあてた。
「まだ食べ終わらないの?」
途端、ナイフとフォークを持つ手が、さっきまでの楽しさや美味しさをするすると失っていく。
とっくに食べ終わっている父はすでにスマホに夢中で、さっきから無言を貫き通しているし、そして母は、いつものように私たちに目を光らせている。
十歳にもなろうかという娘たちを、叱責するかのような強い口調が気になったのか、周りのお客さんの視線を感じ始め、私は目の前にあるハンバーグステーキへと視線を落とした。
ナイフを引く手に力がこもる。
父は相変わらず、スマホから目を離さない。
「まったく……あんたたちは本当にぐずなんだから」
そう言われて、身が縮こまる思いがした。
私たち姉妹は最近、自分の好みを押しつけてくる母に対して、自分が着る服は自分が決めたいという旨を、伝えたばかりだった。
それが単純に、気に入らなかったのだと思う。
その件があってからというもの、それまでの度を過ぎた甘やかしから、手のひらを返したような冷ややかな態度となり、その母のひとつ筋の通った強さと思いは、私たち双子を時々、苦しめた。
「いい加減、早く食べてちょうだい」
母が冷たく言い放つ。
私たちはハンバーグを、急いで口の中へと詰め込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「……ミヤちゃん、私たちって、ぐずなんだって」
隣で寝ていたはずの姉の目が、はっきりと開いていた。天井を真っ直ぐに見据えている。どうやら、さっきまでの寝息は、嘘モノだったらしい。
私たちの子供部屋は狭い部屋だったが、落ちると危ないという理由から二段ベッドを買ってもらえなかった。私たちは布団を二つ並べて、眠っていた。
眠たくなるタイミングが一緒なのはありがたい。先に寝る、後に寝るで揉めることもない。せーので布団へと入り、時には手をつないで眠りに就いていた。
私は薄い暗闇の中、目を凝らしながら、返事をする。
「うん。お母さん、そう言ってたね」
私がそう言うと、サヤが寝返りをうって、向こうを向いてしまった。
「ぐずって、漢字で『愚か』っていう字と、図工の図って書くの、知ってる?」
「え、そうなの? 知らなかった」
「……辞書にのってるよ。愚かはバカっていう意味」
珍しいな、とは思った。サヤが漢字を辞書で調べたということではなく、声が低く、いつもより弱々しかったことに、だ。
私は慌てて言った。
「私たち、なにをやっても遅いっていうことだよね? サヤちゃん、今度はもっと早く食べるようにしよう?」
すると、サヤは黙ってしまった。
「サヤちゃん?」
あまりに長く沈黙が続くので、サヤはもう眠ってしまったのだと思った。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。なぜか、胸騒ぎのようなものを感じていた。
私はその夜、目をぎゅとつむり、一生懸命に眠ろうとしてヒツジの数を数え続けたのと、それでも眠れずに好きなアニメキャラのことを考えたりしたことを、鮮明に覚えている。
✳︎✳︎✳︎
「ねえ、ミヤちゃん。お母さんにぐずって言われて、あんたは頭にこないの?」
中学2年生くらいになるまで、私たち姉妹は母親から何かにつけて、ぐずだ、のろまだと言われ続けていた。
サヤは徐々に反抗的になり、たびたび母と衝突するようになっていく。それまでは静かだった家に、怒鳴り声が飛び交うようになった。
「うるさいうるさいっ、私にあれしろ、これしろって命令しないでっっ」
母に向かってそう言葉を投げつけると、サヤは部屋へと引きこもってしまう。
そして、ある日には。
「あんたたち、いったい何様のつもりなの? お母さんはただ、みっともないから口を拭きなさいって言ってるだけじゃないの。親に向かって、その態度はなんなのよ?」
「ちょっとぐらい口が汚れてたって、お母さんに迷惑かけるわけじゃないでしょう? 私が構わないって言ってるんだから、それで良いじゃないのっ! もうほっといて! 」
そのまま部屋へと駆け上がる。
私がひとり、その場でぽつんと取り残されていると、「あんたも私のことうるさいって言うわけ?」と言って、あっちへ行けと言わんばかりに、母はひどく顔を歪ませた。
行き場のない私は渋々、サヤと同じ部屋へと戻る。
サヤは布団に潜り込んで、スマホをポチポチいわせていた。私は、深いため息をつき、こんもりとした布団へと向かって言った。
「ねえサヤ。お母さんは私たちの身だしなみのことを言っているんだよ?」
「ふん、あーだこーだうるさいんだもん」
「でも、あんたの友達からサヤちゃん汚いって言われないように、注意してくれてるんだよ。あんたのためじゃん。なんでもっと素直になれないの?」
小さい頃は、サヤの考えも手に取るように、よくわかっていたというのに。
今では、なにを考えているか、全然わからない。
サヤが布団から顔だけを出して、睨んでくる。
「ミヤはぐずとかのろまって言われて、なんも感じないわけ? 腹が立たないの?」
私は正直に言った。
「思わないよ。なんで腹が立つのか、逆にわかんない。ぐずとかのろまなんて、ただ言い方がちょっと悪いだけ。私たちはのんびり屋だからもっと早く行動しなきゃいけないって、教えてくれてるだけでしょ? 裏を返せば、お母さんだって私たちのためを思って……」
そこまで言うと、うるさいうるさいとサヤは布団の中へと潜ってしまった。
そして高校を卒業してすぐ、サヤは布団や子供部屋から出るどころか、この家から出ていってしまったのだ。
その時、私はようやく気がついた。
母の言葉が、私の予想以上に、サヤを深く深く傷つけていたのだ、と。
サヤにとって、ぐずやのろまと言った母の言葉や態度は、彼女の身をゆっくりと滅ぼしていく、《毒》以外の何物でもなかった。
✳︎✳︎✳︎
サヤにとっては、《毒》だった母の言葉は、私にとっては正反対の作用を施してくれた。
「ミヤちゃんは素直で良いお嬢さんですね」
母の言葉をサヤと同じように、しかし正反対の意味に捉えた私は、ぐずやのろまと言われないように、早め早めに行動することを心がけ、ミスをしないようにと気を配った。
母の言いなりということに多少、引っかかりみたいなものもあったが、お陰で誰からも叱責されたり批判されることもなく、平穏で順調な人生を送っていて、私はそれを素直に受け入れていた。
サヤのこと以外では、それまでの人生になんの疑問も持っていなかったし、こうして問うべきものも、それまでは何ひとつとして、持つこともなかった。
「ただいま。久しぶり。元気だった?」
28歳になったころ、サヤが突然、家に帰ってきた。
サヤは、家を出たとはいえ地元の企業に自力で就職し、ささやかながら給料をもらい自活している。スッキリとしたボブの髪型。シルクのブラウスにワイドパンツ。幼いころのフリルとは縁遠いスタイル。
驚いてしまった。
長女特有のおっとりとした性格はどこかへと去り、その瞳は生き生きとして自信に満ち溢れている。
「あんたまだ、こんな家にいたの?」
私はその時、実家からほど近い、野菜の直売センターで働いていた。母が知り合いに頼んで、紹介してもらえた職場だ。
「ミヤはご近所でも評判がいいから、どこにでも紹介できるけど……」
母の言葉の、その後の沈黙の中に含まれるのは、必ず姉のサヤのことだ。私と母の思いは一致しているのだろうけれど、私はその沈黙になるべく触れないようにしていた。
そうしているうちに、サヤの存在は、次第に薄れていった。この家では、透明人間のようなサヤ。存在感の薄いサヤ。
けれど、それがここへきて。
こんなにも活力と自信をみなぎらせていて、この家の空気を一変させている。
それは、母に言われるままに大人しく生きてきた私から見れば、眩しいくらいの生だ。
ただ。
「私、今度ね。自分でカウンセラーのお店を出すことにしたの」
その言葉で、頭が真っ白になってしまった。
開店準備のためのお金を借りに来たのだと言う。
私も真っ白なのだから、母などは真っ白どころか、真っ黒になってしまったのだろう。
「カウンセラー? どういうこと? なんの話よ?」
「心理カウンセラーよ。悩んでいる人に助言をして、その人が立ち直れるように手助けをする仕事なの。私、これでもセミナーに通って、資格も取ったのよ」
「セミナー? 資格? いったいなんの話よ?」
母が、何を言っているのかわからないといったように、眉をひそめている。
「お母さん、毒親って言葉、知ってる?」
サヤの突然の言葉に、私はひゅと息をのんだ。
聞き覚えのある言葉。本でもテレビでも目にする、まるで流行りのようにあちこちで使われている言葉だ。
サヤは、その自信に満ち溢れた表情をひとかけらも崩さずに、息をひと息ついてから、切々と語り始めたのだ。
「お母さんは気づいてないだろうけど、私たち、小さい頃からお母さんの言葉に傷ついていたの。そういうのを毒親って言って、子どもを自分の思い通りにしようとする親のことを言うのよ。そんな親の元で過ごした子どもは、親から抑圧されたことによって、自分のことをうまく肯定することができずに社会で生きにくくなったり、自分に自信がなく育ったりするの」
「サヤっ」
弾丸のように繰り出されるあまりの内容に、私は叫んでいた。けれど、サヤは言葉を続けていく。
「私たち、お母さんに全てを決められて、自分の意見も言えなかった。ぐずとかのろまとか言われて、すごく傷ついていた」
母は、サヤの言葉を呆然とした面持ちで聞いている。私も声をかけたはいいが、なにをどう言っていいのか分からず、内心、おろおろと立ちすくんでいた。
まるで別人のようになってしまったサヤ。
その得体の知れない強靭さに、私は恐れおののいてしまった。
私が驚きと恐ろしさで動けなくなったその間も、サヤはああだこうだと散々に母を責め立てている。
そしてようやく、頭がついていけるようになり、私は言った。
「待って。私は別に傷ついてなんかないよ。お母さんに言われたことだって、私たちをきちんとした人間に育てようとしてくれてるって思ってたし……」
すると、サヤは激昂し、言い放った。
「きちんとした人間ってなによ! あんたの基準は間違ってる! お母さんにとって、私たちは操り人形でしかなかったんだよ? お母さんの顔色を見てビクビクするのだって、本当は嫌でしかたがなかった。でも本心なんかいつも言えなかった! 我慢するしかなかったんだからね!」
「……心理カウンセラーって、ちゃんと大学とかで取得した資格なの? それに……セミナーって、なんの、」
母が問おうとすると、サヤはすぐに遮って言った。
「私が、今でも生きづらさを感じていて苦しんでいるのは、親のせいだって教えてくれた人がいるの。私、その人の教えにならって、過去を見つめ直したのよ。それでやっとわかったの。お母さんのせいで私、自分を認めてあげられなかったんだって」
「そのセミナーにお金はいくら払ったの?」
「……50万」
母が、えっと声を上げた。
「別に良いでしょ? 私、自分が働いたお金を、自分に投資しただけなんだから」
サヤが誰も口を挟めないような勢いで、私たちを凌駕していく。
「私、ずっと苦しかった。ずっとモヤモヤして生きてきたけど、あのセミナーの考え方に出会って、気持ちもすごく軽くなったし、ずいぶんスッキリしたの。私、今すごく幸せなのよっ」
到底、幸せな顔には思えない、鬼のような形相だった。
けれど、それでも自分は幸せだと言い放ってから、サヤはまた出ていった。
もちろん、お金など貸しはしないと、母が突っぱねた結果だ。
「ミヤ、あんたもこんな家にいると不幸になるよ。私みたいに、自立しなきゃいけないよ」
帰り際に姉が言った言葉に対して、私はなんと答えたのだろう。
暴風が吹き荒れるハリケーンのようなサヤを前にして、耳も目も口も思考も失ってしまったのだ。
正直、その時の記憶がない。
姉のサヤに対して、どう思ったのか、どう考え、どう答えたのかも思い出せない。
ただ、母が。
自分を犠牲にしてせっかくここまで一生懸命に育ててきたのにすべてが台無しになったと、狂ったように泣き叫びながら、出ていくサヤの背中に向けて言い放った言葉は、覚えている。
「なんて親不孝な娘なの! ぐずやのろまってのが原因で生きづらくなったって? そんなこと言ったら、親として、なにも言えないじゃない! 自分が苦労して産んで育てた子どもに、なんで母親の私が、遠慮して話さなきゃいけないわけ?」
母は繰り返した。
それは点滴のように浸透していく。
ぽとん
ぽとん
『自分を犠牲にしてせっかくここまで一生懸命に育ててきたのにすべてが台無しになった』
私の顔を睨みながら言った言葉が、頭にこびりついて離れない。
ぽとん
ぽとん
母の言うことは真っ当だと思う。
親子なのに遠慮して話さなければならない?
家族なのに言葉を選んで話さなければならない?
血が繋がっているのに気を使って接しなければならない?
確かに母の言う通りだ。
そんなの、家族じゃないような気もしている。
いや、気を使ってこその家族なの?
家族だからこそ、言ってはいけない言葉もある?
私はこの日を境に、ぽつんとひとり、取り残されたような気持ちになった。
姉とも分かり合えず、そして母とも分かり合えず、私たち家族は、ほんの1ミリだって分かり合えていないことに気づかされたのだ。
それまでの私は、なんの疑問も問いかけも、おそらく持たなかったというのに。
ぽとん
ぽとん
けれど私はこのまま、手をこまねいたまま。
その液体が、身体中の細胞のひとつひとつへと浸潤していくさまを、ただ見つめることしかできない。
今までも、そしてこれからもずっと。
毒なのか薬なのか。
どちらが幸せなのかを問う。
それが毒であったとしても、
薬であったとしても。
問わずにはいられない。