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大切なあなた、必要なあなた

パスタの美味しい、(イケメン)レストランオーナーの日常

作者: 波多野道真

「伊藤さん、ちょっと聞くんだけどね」

「はい、店長何でしょうか」

「君はそれだけ仕事ができるのに、何で正社員じゃなくてパートを選んでるんだい?」

今日はランチ後の夜の部までの準備時間を、友人であり後輩でありシェフでもあるユウヤの友人が特別に貸してほしいという事で店を開けた。

どうやら仲間が結婚すると言うので、小さな会食らしい。飲食業だからさまざまな組み合わせの人たちを見てきたが、この人たちは異質だ。

オネエと、大学生風の若者と、ガッチリした体格の真面目そうな男性と、女性か男性かわかりかねる人。一体何の集まりなのか言われないとわからない。

どんな人でも立ち寄れる店、愛される店にしたいから、コンセプトには合っている。本当は客層を絞った方が売れるけど、その真逆をやってみる店舗として立ち上げてみた。

「ユウヤ、お前の友達は癖が強いな」

「あー、前の仕事で知り合ったんですよ、あの派手なのと」

「いや、良い意味で言ってるんだ。色々な人が来てくれる店にしたいからさ」

「それなら良かったです、ジンさん。ま、でもあいつはちょっと色々が過ぎるからなぁ……」

ユウヤが仕込みの仕上げをしながら言った。



夜の部の開店時間だ。17時きっかりに客が来ることはまず無いが…。

ドアが開いた。

「あのー、5時から開いてると聞いたんですが、いいですか?」

親子三人。4、5歳くらいの子供連れだ。えらくきれいで若い父親と、子供の年齢にしては年齢が上の母親に見える。いや全く違うかもしれない。今日は型にはまらないお客様が多いな。

「どうぞ、いらっしゃいませ!」

スタッフ全員で挨拶をし、奥のゆったりした席へ案内した。

「あ!松尾さん!どうしてこんなところに!」

「おー!佐藤さん、お元気でしたか!ミユちゃんも大きくなったなあ。私はこっちに転勤で戻ってきたんですよ」

「あら、テツヒロ君じゃないの!」

「キャサリンさんまで!わー、昼間にお会いするとは思いませんでした」

「何よアタシを夜行性のコウモリみたいに!また職場の飲み会の時は使ってちょうだいね」

席に案内する途中で若くて美男の父親と、真面目そうでガタイのいい男性とオネエさんが声を掛け合っている。この人たちも知り合いか。世間は狭いなあ。


うちの店は子供連れも大歓迎だ。子供用のイスも準備してるから心配はない。おしぼりは使い放題だし、使い捨てエプロンだってある。遠慮なく、口を真っ赤にしてミートソースを食べてほしい。

お客様がどんな人であれ、笑顔で美味しいと言ってくれて、お金を落としてくれる。そして僕はそのお金をどこかでまた使う。素晴らしい事だ。

「お子様用のメニューもありますが、こちらの3種類は、大人の量でお子様向けの味付けにすることもできます」

「じゃあ、このパスタはそれでお願いします」

ホールスタッフが注文を取ってきた。

「ユウヤ、子供さんに美味いミートソースの味を教えてやってくれ」

「了解です」

スパイシーさが無くても、美味しいミートソースはできる。だからといって甘すぎない、トマトの旨味がギュッと詰まった味。ユウヤはどんなメニューでも手を抜かない。そういう職人気質は、音楽をやっている時から培われているもので、良い意味でのプライドを彼は持っていて、それは料理を作る人間にも必要な資質だった。だから全面的に僕はユウヤを信頼している。あとちょっと愛想があればいいけど。

「お誕生日は明日だけど、おばちゃんお仕事でいないから今日でゴメンね?」

「うん、いいよ!早く誕生日が来て嬉しいもん」

「ミユ、帰ったらケーキ食べような。5歳のプレゼントは何がいいかな?」

「お母さんが欲しいなー!ねえナツミおばちゃんはお母さんになってくれないの?」

女の子の良く通る声が厨房まで聞こえてきた。若いお父さんの顔が真っ赤だ。

ああ、そういうことかー!

「ジンさん、顔がニヤついてますよ。余計な事しないでくださいね?」

ユウヤが低い声で威嚇してくる。

「ユウヤー!いい話じゃないか!おい、竹中君、あの女の子向けのちょっと小さなケーキ買って来い」

僕はホールスタッフに隣のケーキ屋に行くよう指示した。

「……ジンさん、止めてくださいよ。お客さんを特別扱いすると後で自分はしてもらえなかったとかどうこうなるじゃないですか。ネットの悪評は勘弁ですよ」

「ケーキは要予約、別料金だ!今決めた。次のお客さんからな」

「もう、知りませんよ!」

ユウヤがフライパンの中のソースをグルグル回している。


「ご注文の品はこれでお揃いですか?あと、これは店からのプレゼントです。お嬢さんの誕生日だと聞こえましたので、宜しければどうぞ」

僕はテーブルの真ん中に小さなケーキを置いた。えらいぞ竹中君、ちゃんとお誕生日おめでとうプレート付けてきたな。今度少しだけ時給上げてやろう。

「ええ⁈そんな申し訳ないです!」

お父さんと隣の女性が恐縮している。

「いいんですよ、オーナーの気まぐれです。また食べに来てね?」

「うん!」

女の子に微笑むと、

「お父さんもカッコいいけど、おじちゃんもカッコいいね!」

ん?おじちゃん?まあ許してあげよう。カッコいいのは本当だからね!

「ありがとう。ゆっくり食べてね。ではごゆっくりお食事をお楽しみください」

ハッハッハッと笑いながら厨房に戻った。

「何やってんすか、ジンさん……」

「いやあ、小さい子にも僕のカッコよさってわかるんだなって!いい子だよな、ユウヤ!」

ユウヤが僕を冷たい目で見て、さも頭が痛いというように、コック帽の額の部分を押さえて首を振った。




「ありがとうございました!またお越しくださいませ!」

夜の部の最後のお客様が帰った。閉店だ。

「今日は一日長かったなあ。でも売り上げは上々だし、いい日だったな!」

「片付けて帰りましょう。俺は今日はぐったりしましたよ」

「メインシェフが疲れてしまったら困るなあ。よし、今日は僕の奢りだ!」

「どーしてそんなにテンション高いんすか、毎日毎日……」

「さあ、さっさと片付けて、美味い魚食いに行こう!」


行きつけの魚の美味い居酒屋で、少しだけ酒を飲みながらユウヤと夕食にした。ここは家の近くで歩いて帰れるからいい。

「ジンさん、今二つ店あるじゃないすか。あっちの店の売り上げはどうなんですか?」

「ん?あっち?あっちはね、ランチの固定客がいるからずっと保ててる。今のところはね」

「ジンさんがこっちの店ばかりにいるから、評判が落ちてないかと気になって。あのパスタほんとに美味かったから」

「ああ、そう言ってもらうと嬉しいよ!頑張った甲斐あったなあ」

「大丈夫なんすか?今の体制で」

「うん、ヨーロッパに発つ前に、作業をできるだけ定型化したんだよ。僕じゃなくても同じ味が出せるようにね」

「そこまでやってたんすか」

ユウヤが焼酎を追加で頼んだ。

「お客様に不満を持ってもらいたくないだろ」

「そうですけど、どれだけ開発費とか掛かったんすか?あの味に近くするなんて、相当スタッフの練度上げて金つぎ込まないと」

「そうなんだよなー。だから今会社は借金まみれなんだよね」

「やっぱり。俺に奢ってる場合じゃないですよ」

「ま、投資しないと返ってこないから。売り上げ上げるの頼むよ、寺道シェフ!」

僕はユウヤの肩をガシッと掴んだ。


大切だと思うものには金は惜しまない。そう思うようになったのは訳がある。

僕が大学生の時だった。

僕のつきあっていた彼女が重い病気に罹った。おまけに治療には莫大なお金がかかった。いくらでもつぎ込める家ならば良いが、彼女の家はそうではなかった。

僕も家が貧しくはないとはいえ、恋人の治療費をポンとかしてくれるような親はいない。僕はアルバイトをしていたが、到底学生のバイトで稼げる金額などたかが知れている。大学を辞めて働いて彼女の治療費を稼ごうとした。

「ジン君、大学辞めたらダメ。私の分まで勉強して、お店出して。私、元気になって最初のお客さんになるから。ね?」

その後も僕が何とか彼女の親を説得し、どうにもならなくて学生ローンで限度額まで借金をし、次の治療費まで確保できた、と思っていた矢先に彼女は急変しあっけなく逝ってしまった。

「サラ!サラ!!」

どれだけ揺さぶっても呼んでも彼女は目を覚まさなかった。

後にも先にもあんなに泣いたことは無い。

お金があったら、もっと違う治療法が選べた。治療を一度中断する事も無かった。サラを助けるためになら借金だってしたけれど、それでも決断するのが遅かったのだ。僕はすぐに大学を休学し、その時借りたお金で、ヨーロッパへ料理修行に向かった。


もう彼女が旅立って10年経つ。サラとの約束を守るために僕はがむしゃらに働いてきた。多分これからもそうするだろう。お金でどうにかなる事なら、いくらだって使う。それで自分や誰かが幸せになるのなら。

……この話、ユウヤにもしてないな。

まあいい。誰かに知られるべきことでもない。

僕はいつだって明るく色んなことを笑い飛ばす、オーナーの朝倉ジンでいるのが仕事だ。

「……ジンさん、たまには黙る時もあるんっすね」

ユウヤがじっと僕の顔を見ながら、透明な酒を薄く整った口に運んでいる。

「やー!ユウヤ!物思いに耽る僕もカッコ良かっただろう!?」

「もういいっすよそういうの……」

「そういやユウヤ、こないだいい子がいるって言ってたのどうなった?」

「ああ、あれは—―」

ユウヤの色白の顔が赤くなった。そう、次に行けるならそうした方がいい。僕はサラ以外の人を好きになるタイミングみたいなのを逃してしまった。縁やタイミングっていうのがあるんだろう。

「よし、今度うちの店に連れて来い!僕が縁結びを……」

「いいですってば!上手くいくものも行かなくなるって!」

「信用無いんだな~」

大きな声で二人で笑った。こんな話がストレス解消になるならいくらでもしようと思う。

夜は更けていった。




新年度で学生バイトが入れ替わる時期。新しいパートの人が入ってきた。パートさんはアルバイトよりもシフトが組みやすくしっかり働いてくれるので助かる。僕より二つ下の女性だった。

「伊藤アキです。よろしくお願いします」

飲食業界経験者という事で、身だしなみも完璧で、長い髪は綺麗にまとめてあり、即戦力として働いてくれている。

こないだなんか、手をケガしている人が食べやすいようにとフォークによく巻き付くクリーム系のパスタや食べやすいサイドメニューを勧めていた。皿も食べやすい場所に確認して置いていたし、言う事無しだ。

「うっかりスープパスタとか頼んでたら大変だったね」

「ほんと。お店の人に感謝だね、ソラ」

大学生ぐらいのカップルでえらくラブラブだったから、きっとスープパスタでも彼女が食べさせてただろうけど。

「また来ます。お名前教えてもらえますか?」

「あ、伊藤と言います」

「伊藤さん、おかげで美味しく食べられました。ありがとう」

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

カップルは仲良く頭を下げて店を後にした。ホールスタッフで名前覚えられてるのって、店長の僕以外いないぞ。僕は伊藤さんの仕事振りに舌を巻いた。



こんなに仕事ができる人なのに、なんでパートなんだろうか。雇う側としてはスキルのある人材を安く雇えるのはありがたい事だが。

「伊藤さん、ちょっと聞くんだけどね」

「はい、店長何でしょうか」

「君はそれだけ仕事ができるのに、何で正社員じゃなくてパートを選んでるんだい?」

「あ……」

彼女は口ごもった。

「プライベートなことだし、言いたくなければいいんだ。すまない」

「あ、店長、いいんです。私、病気をしていて、今は治ったんですけど、定期的に通院が必要で、お休みを頂きやすいのはパートなので……それに、正社員になると履歴書の空いた期間は何をしてた?ってなりますから。病気の事を言ったらほぼ落ちます」

そしてわかったのは、彼女はサラと同じ病気で生き残った人だった。

「大変だったね。あの病気は治療もしんどい」

「ご存じなんですか?」

「僕は友達がその病気でね」

「今はお元気に?」

「いや……」

「そうでしたか……すみません、余計な事聞いて」

伊藤さんは肩をすくめ、ひどく恐縮した。

「いいんだ」

誰かにこういう話をしたのも、病気を乗り越えた人に会ったのも初めてだった。



「なあユウヤ、今のスタッフでもう一人正社員にするなら誰だと思う?」

「うちの店、ホールに正社員まだいないですよね」

「そうなんだよ。精鋭は全部あっちの店にいる」

「竹中君もいいけど、あいつまだ大学3年だしなあ。後から来た伊藤さんに教えてもらってるぐらいだし。そうだ、伊藤さんはどうですか?あの人結婚してて正社員ダメとかあるんすか?」

「多分ないと思うんだけど、病院に定期的に通ってるから、休みの確保が要るのと、残業は無理かな」

ふーん、とユウヤが考えている。

「ジンさん、一度打診してみたらどうですか?うち別にホールならすごい残業があるわけじゃないし、休みも今までと変わらないなら回るだろうし。やっぱり伊藤さんも遠慮しながらバイトに指導するのストレスじゃないかと思うんだけど」

「そうだよな。ダメもとで聞いてみるか。ありがとうな、ユウヤ」

もう伊藤さんしかいないとは思って決めてはいたけれど、一緒に働くユウヤの意見を無視するわけにはいかない。病気の事も特に気にしていないなら、打診してみよう。

翌日、僕は伊藤さんに声を掛けた。

「伊藤さん、今時間あるかな」

奥の事務所に呼んで、正社員になる気はないかと尋ねた。

「こちらの提示できる条件はこれだから、じっくり読んで返事を下さい」

「はい……。店長、ありがとうございます。声を掛けてくださって、嬉しいです」

この店に来て初めて見るような、噛みしめるような笑顔で伊藤さんは笑っていた。



翌日にすぐに、伊藤さんは正社員になりたいと返事をくれた。

「じゃあ、制服とかちょっと変わるから。上にこれ着て。サイズは合ってると思うんだけど」

「え、今日から?そうなんですか⁈」

「うん。ベストつきになるよ。僕と同じ」

「それは責任重大です!ちょっと心の準備が……」

「うちは小さい会社だから、すぐに働かせるんだ。詳しい事は仕事終わりに追々ね。困ったら僕がいるからいつも通りで。よろしく頼むね」

僕は伊藤さんの肩にポンと手を置いた。あ、しまった。こういうのセクハラになるんだっけ。普段は気を付けてるのに。

「はい、頑張ります」

伊藤さんは笑顔だった。気にしていないようで助かった。

早速スタッフにも周知した。

「そうは言ってもまだ伊藤さんは正社員試用期間なので、めんどくさい事はいつも通りに店長の僕によろしく」

さあ、店を開けよう。

「伊藤さーん、また来ましたー!」

「いらっしゃいませ、お久しぶりですね、どうぞ」

仲良しカップルが、また来てくれた。いい事だ。伊藤さんがホールの司令塔になることで、僕は全体を見渡しやすくなったし事務仕事をする時間も確保できるようになった。正社員登用は正解だったと思う。



それからいい感じで三か月過ぎた。

「またあの客?」

ユウヤが料理を取りに来た伊藤さんに声を掛けた。

「はい……大丈夫です」

伊藤さんはこのところある客にずっと執着されていて、他のスタッフが対応しようとしても名指しで呼んでは話しかけるので、対策を考えようとしているところだった。

「ジンさん、そろそろアイツ出禁でよくないすか?あの客のせいでオペレーションガタガタじゃん」

「決定的な事をしてないんだよなあ」

我が儘でもまだ限度を超えていない間は客なのだ。

「されてからじゃ遅くね?ジンさんは伊藤さんがアイツにケツ握られても平気なんすか?」

「え?」

「だから、好きな女が程度の低い男に触られてもいいのかって事だよ」

僕は一度もそんなこと思った事も無いし口に出した事も無い。

「何言って……」

言い終わらないうちに聞こえたのは、伊藤さんのヒッ、と高く息を吸う声と、

「お客様、おやめください!!」

という声だった。

「だから言わんこっちゃない!!ジンさん甘すぎなんだよ!」

その現場を見ていたユウヤが低い声でそう言うと、厨房からすごい勢いでフロアに向かった。すぐに僕とユウヤはその場へ駆けつけた。

「お客様、いかがなさいましたか?私店長の朝倉と申します」

ユウヤは今にも客に殴り掛かりそうだ。

「いかがも何もないよ、ちょっと手が当たっただけで大声出すなんて、ここの店の社員教育はどうなってるんだ!」

おっさん客が大声でガナりだした。

「うちのスタッフのケツ触っただろうがよ、おっさん!」

ああ、ユウヤを切れさせてしまった。僕の責任だ。

「私も見たわよ!」

別のお客さんの声が聞こえた。

「な、何を言うんだ失礼な!」

「お客様、ゆっくりお話をさせて頂きたいと思いますので、どうぞこちらへ」

「は?なんで俺が席を立たないといけないんだよ!どうなってるんだね、この店は!」

大声を出しこれでは話にならない。もうお客様ではないな。

「ユウヤ、すまないけど、伊藤さんをバックヤードへ。あとオーダーさばいてくれ。後は僕がやる」

「了解。ジンさん、俺ははっきり見たぜ」

ユウヤが伊藤さんを奥へ連れて行った。

「お客様、もう一度だけ申し上げます。ご協力いただけませんか?」

そしてこっそりと耳打ちした。

「困ったことに目撃者もおります。今でしたら”店”としては表立って問題には致しませんが……。お代も結構ですので……詳しいお詫びの内容は奥で致します」

「そ、それならいいだろう」

そう言ってその客は席を立った。

「どうぞこちらへ」

うやうやしく特別な上客であるかのように扱ったのでいい気分らしい。ジャケットの襟を両手で引っぱり、胸を張ってついてきた。竹中君と通り過ぎる時に、テーブル片付けといて、と指示した。

「少々お待ちください」

先に事務所に入る。伊藤さんがいた。

「伊藤さん、申し訳ない。客連れてきたからロッカー室か厨房にいて」

ひそひそ声で言う。

「私もいます。私の引き起こしたことなので」

「店長の言う事聞いて」

これ以上押し問答はできない。僕は伊藤さんの手を引いて奥のロッカー室に押し込んだ。

「ここで黙ってて。鍵閉めとけよ」

「店長……!」

ロッカー室のドアを閉めるとすぐにお客を通した。

「お待たせ致しました、どうぞお座りください」

よし、試合開始だ。

「お客様、お茶をお持ちしますのでお待ちください」

フム、という感じでお客はふんぞり返っていた。僕は厨房に行った。

「お茶だろ。作ってるよ。アイツどうすんだよジンさん」

「さすがユウヤ。警察に突き出すよ」

「マジか」

「目が覚めた」

「おっせえよ」

そう言いながらも、ユウヤは竹中君にお茶を持って行くように言ってくれた。僕は警察に電話をした。かくかくしかじか、と経緯を話したことに加え、”松尾トシユキさんの知り合いです”と一言加えた。こないだ客で来てくれた警察官の人だ。電話の向こうで、え?!警部の⁈と聞こえた。そんなに偉い人だったのか。若いのに。すぐに警官がやってくるらしい。

警官がやってくるまでの間、僕は罵詈雑言に耐えた。はい、ごもっともです、申し訳ありません、いくつものお詫びの言葉を言う間、僕はまた大切な人を助けそこなう所だった、と思っていた。やっと確保した大事な従業員……。伊藤さんに対して、ユウヤが言っていた好きな女がどうこうというのは……心当たりがない。

ノックの音がした。

「どうぞ」

「警察だ」

二名の警官が入ってきた。

「何っ⁈これはどういうことだ!約束と違うぞ!!」

男が声を荒げる。

「店としては何もしないと言いましたが、僕個人としては許せなかったので通報させていただきました」

「ほら、こっちにくるんだ」

やめろ!と男が暴れている。

「あんまり暴れると、威力業務妨害に公務執行妨害もつけることになるぞ!」

男は大人しくなり連れられて行った。警官の一人が後ほど事情聴取に伺います、と一言残して去って行った。

ふう、とため息が出た。

「こんなことも簡単に片付けられないなんて。僕は情けないな」

すっかり隣のロッカー室に伊藤さんがいるのも忘れて、大きな独り言を呟いた。カチャリと音がして伊藤さんが出てきた。

「店長、申し訳ありませんでした!」

伊藤さんは泣きながらそう言うと頭を深く下げた。

「いいんだよ。元はと言えば早い段階で出禁にしなかった僕が悪い」

「いえ、あの程度なら出禁は無理でした。それは私でも理解しています」

「嫌な思いをさせてすまない。店長として至らなかった」

「店長、謝らないでください!あんなひどい事を言われて……本当にすみません」

「だから店長なんだよ。僕は店と従業員を守らなくちゃいけないから」

僕は笑ってみせた。

「今日はもう店を閉めたいぐらいだね。疲れただろ」

「店長ほどではないです」

「今日はユウヤと竹中君の4人でラストまでだから、皆で帰りにお疲れ様会しようか。来れる?」

「そうですね、ご一緒させてください」

「じゃ、あと少し頑張ろう」

「はい」

僕たちは急いで厨房に戻った。2人で回してるから地獄のような光景になっていた。竹中君が泣きそうな顔をしている。

「ジンさん!もう大丈夫なんすか?」

「ああ、ユウヤ、ありがとうな、上がったら今日は四人で打ち上げだ!」

僕は急いでホールの皿を下げに行った。

「何のイベントの打ち上げだよ、ほんとにあの人は……」

ユウヤが背後で笑いながら呟いたのが聞こえた。

伊藤さんもものすごい早さで間に合っていない部分に手を着けていた。それから一時間。何とか通常通りの形に戻った。

「何とか、いつも通りかな」

「な」

「皆ありがとう。迷惑かけたね。今日は僕の奢りで食事行こう。竹中君も行くだろ?」

「僕、それなら焼肉がいいです!」

「おー、疲れたしそうしようか!」



僕らは閉店してから焼肉を食べに行った。

「本当に、皆今日はありがとう。お疲れ様、たくさん食べてください」

めいめいに好きな飲み物をオーダーして、人数分揃った。

「何について乾杯する?」

ユウヤがダルそうに訊いてくる。

「スタッフの安全と」

「店の売り上げと」

「お客様の笑顔のために」

「じゃ、そんなんでいいや。乾杯!」

「カンパーイ!!」

四つのグラスが音を鳴らした。

「ホントに今日はすみません、私のせいであんなことに」

伊藤さんが最初にお詫びを言い出した。いやそんな事はない、あの客が悪い、と皆で合唱した。

「あれは僕の判断ミスだ。もっと早く注意すべきだった」

「全くですよ、ジンさん!伊藤さんに謝ってください」

「いえ、いいんです店長!」

そんなやりとりが続く中、大きな声が。

「あのオヤジ、捕まっていい気味でしたよ!僕が行くと犬を追い払うみたいに!くそー!!」

竹中君はすっかりお酒が回っているようだった。

「でも嫌な顔一つせず接客しててすごかったよ。ほんとに竹中君はサービス業向きだね」

本心だったから、心から彼をねぎらった。伊藤さんも、

「そうよ竹中君、一度言えばすぐに意味を解ってやってくれるし……」

「そうですか?僕、やっぱりお客様が笑顔だと嬉しくて……」

竹中君は笑顔になった。

「お前、就活やってんの?」

「ホテルとかちょこちょこ探してるんですけど、なんか違ってて」

ユウヤが僕に目配せした。

「ジンさん、うちの会社正社員募集してないんすか」

「ん?してない事も無いけど、ホテルみたいには払えないからなあ。中小企業の辛いとこだよ」

「で、いくら出せるんすか、新卒で」

ユウヤが竹中君を雇えと言わんばかりだ。

「今日の竹中君の動き見てたら、正社員で育てる価値は十分にあると思いましたよ、俺は」

「ほんとですか寺道シェフ!嬉しいなあ!」

語るユウヤに、相好を崩す竹中君。確かに、伊藤さんがいなかったら、竹中君にも声を掛けていたはずだった。

「竹中君、これぐらいなんだけど」

ごにょごにょと耳打ちした。

「もし、店長になって売上上げてくれれば、額は当然上がるよ。うちはこんな感じで小さい会社だから、社員皆が重要な役割を担う。いきなり管理職みたいなもんだと思ってくれたらいいと思う」

「バイトの時から提案聞いてくれるのとかうちしかないだろ?俺はこの四人が社員の体制でいければもっと売り上げ上がると思ってるぜ」

ユウヤ、相当竹中君を買っているんだな。もうすでにお疲れ様会じゃなくて、竹中君をリクルートする会になってしまっていた。

「とても気が付くので、私だけじゃなく、昼間のバイトの女の子も助けてくれましたから」

伊藤さんが僕が知らないことを言った。

「え?いつ?」

「一昨日かな。声掛けたがるランチタイムの常連さん。竹中君が先にお客様に声を掛けてくれて。あれは助かりました」

「いえ、あれぐらいは当たり前です」

そんなこんなを話していたら、あっという間に時間が過ぎた。

「てんちょ~!僕、親を説得してぇ、ここれ、働きます!!卒業したら社員にしてくらさい~!僕頑張りますからぁ~!」

へべれけになった竹中君をユウヤが担いだ。

「ジンさん、伊藤さん送ってきてください」

ユウヤは何か勘違いしているな。でもここは今日の事もあったし、責任をもって送り届けよう。

「わかった。今日はみんなお疲れ様!」

ごちそうさまでした!お疲れ様ですー!と言葉が飛び交い、僕は伊藤さんを送ることになった。


「あの、店長、私家がそれほど遠くないので大丈夫です」

「僕も近くだから、尚の事送っていくよ。酔い覚ましに歩こう」

焼肉屋は、魚の美味い居酒屋から駅を挟んで反対側にある。そんなに自宅から遠くはない。

「伊藤さん、どっち側?」

「あ、駅の反対側なんですけど」

「僕の家もそっち側だよ」

「えー!知りませんでした」

歩きながら、お互いの事から仕事のことも話した。向かい側から一人の男が歩いてきた。伊藤さんに品定めをするような視線を投げる。よく一人で帰るだなんて言ったなあ。僕はさりげなく男が通る側に場所を移った。

彼女のどこがそんなに魅力的なんだろう。そういう目で見たことが無かったから、不思議だった。歩きながら、改めて隣の彼女を見た。

あ、これだ。

ひっつめた髪から伸びる白い首筋。完璧なうなじ。店の制服はパンツスタイルだから、首から上と手や腕しか肌が出ていないはずだ。それなのに、一度気づいてしまったら触れたくなる魅力を湛えていた。

そしてきっと、伊藤さんはこの事に気付いていない。襟足を見せた自分がひどく魅力的だという事に。

「伊藤さんは、いつも髪が長いの?」

「え?」

「髪がきっちりとまとめられてるから」

「はい……何でですか?」

「あー、色んな髪型あるよねと思って」

訳が分からないことを言ってしまう。

「仕事じゃない日は下ろしてるんですけどね。飲食業って髪が落ちたらいけないから、結局伸ばしてくくっちゃうんです」

「確かにそうだね。そんなにこの仕事好き?」

「はい、今日みたいに大変なこともありますけど、好きです」

襟が立った制服考えようかな、などと思いながら、魚の美味い居酒屋の前を通る。

「ここ魚美味いんだ。行きつけなんだよ。行ったことある?」

「魚が美味しいとは知りませんでした!気になってたけど女友達を誘うには渋すぎて」

「今度行こうよ、みんなで」

「はい、楽しみができました」

彼女の部屋は、なんと僕とユウヤが住むマンションの近所だった。ユウヤは人の家に居候していたけど、料理修行から戻って、同じマンションの別の部屋に引っ越している。

「店長、送っていただいてありがとうございました」

「いや、それよりも本当に今日は大変な思いをさせてすまなかった」

「いえ、もう大丈夫ですから!触られたのも一瞬でしたし」

伊藤さんは恐縮していた。

「それにしてもこんなに近くに住んでるなんて思わなかった」

「え?」

「僕はあのマンションの5階の左端に住んでる」

背の高いマンションを指した。

「えー!ご近所さんですね」

「力仕事で困ったらいつでも呼んで」

「そんな~!店長に頼むわけにはいかないです!」

「体力、前よりも落ちてるだろう?食器下げるのも一度で持てないから回数で稼いでるの知ってるよ」

伊藤さんがハッとした表情をした。あれだけの闘病をして体力が完全に回復するとは思えないし、彼女が自分なりの工夫をしているのを僕は気づいていた。

「あ……」

「体がしんどい時は遠慮せず言ってくれ。今日は遅くまで連れまわしてすまなかった。じゃあまた明日」

「はい、ごちそうさまでした。おやすみなさい」

エントランスの扉が閉まり伊藤さんの姿が見えなくなるまで見送った。

帰り道を歩きながら思う。伊藤さんの白く美しい首筋。サラも病気になってから抜けるように色が白くなっていたことを思い出した。

きっと僕は伊藤さんにサラを映し出している。それはきっと失礼な事だ。ユウヤはああ言ったけれど、多分僕は伊藤さんを女性として好きとは言えない。まだ。



数日後。例によって魚の美味い居酒屋でユウヤと飲んでいる。

あれから警察に電話をして松尾さんには丁重に挨拶をした。すみません、お名前出しちゃってと言うと、驚きましたが、性犯罪を取り締まる良いきっかけになりました、と言われ僕が恐縮した。

「それからどうなったんだよ」

「え?」

「あの日だよ!伊藤さん送ってっただろ」

「あー、うちの近所だったから、送って俺もすぐ帰ったけど」

「あ⁈送っただけだって⁈何やってんだよいい年して」

焼酎を二杯飲みほしたユウヤが切れ出した。

「ユウヤ、お前は勘違いしてるよ。僕は別に伊藤さんの事を好きとかじゃないから」

「じゃあ何でいつも目で追ってんだよ、ジンさん」

「僕はいつも全体を見てるから、どのスタッフも目で追うよ」

「い~や違うな」

焼酎の入った小さなグラスを持った手に寄り掛かるようにしてユウヤが言う。酔って据わってる目が余計に眼つきが悪い。

「好きでもない女、心配そうに見ないだろ」

「ああ……それか」

「何だよ、ジンさん。話せよ」

僕は、学生時代にサラを亡くした話と、伊藤さんの病気が同じだった事を話した。

「そういうことだったのか」

「そう、伊藤さんにも特別なことは無いよ、それだけだ」

「でもさ、だからってずっと一人でいいのか?」

ユウヤが珍しく深酒だ。酔ってるな。

「大丈夫だよ、僕はほらイケメンだからモテるしな?ん?」

「そういうことじゃねえんだよ!」

ユウヤが拳でテーブルを強く打った。ドン!という音に周りの客が驚いて一瞬の静寂が訪れ、視線が僕たちに刺さる。これでは僕らが出禁になってしまう。撤退だ。

すみません、大丈夫です、お勘定お願いします、と断り、ユウヤに声を掛けた。

「ユウヤ、俺の部屋で飲み直しだ。帰るぞ」

僕はユウヤに肩を貸して店を出た。

「何だよ、ジンさん、俺何も知らなかったじゃんかよ……」

ユウヤが独り言のように言った。

「そうだよ、話してなかったしな、誰にも」

「だから突然途中でいなくなったのか……ジンさんが失踪したとか退学したとか死んだとか滅茶苦茶噂だったんだぜ」

「うん。すまなかった」

「先輩は自分で片付けすぎるんだよ何でも。いつも引き笑いばっかりしてるくせによ」

「……そうだな。なのに判断は下手だしな。もっとみんなに頼ることにするよ」

「そうだよ、あ、先輩、酒はあるんだよな家に」

「あるよあるよ!安心して帰ろう!」

ヨタヨタと歩く影が伸びる。僕はいい友人と仲間を持っている。それ以上に今は何を望むだろう。月明りが柔らかい夜だった。




その後も僕は変わらずに笑って過ごしている。

二店舗ある店の売り上げも順調だし、店の仲間がいてくれるだけで結構幸せだ。

あの事件以来僕らの結束は強くなった。


「竹中君卒業おめでとう!」

今日はアルバイトの竹中君が大学を卒業したというのでそのお祝いでまたスタッフ四人で飲みに来た。

「もう明日からバイト扱いしねーからな。覚悟しとけよ」

「もうですか⁈入社してないのに⁈厳しいですよ寺道シェフ~」

「ジンさん、もう明日から社員でいいっすよねコイツ」

「ユウヤ、事務手続きとかあるから急なの困るって!」

「日付とかどうにでもなるっしょ」

「いや、ちゃんと新卒採用ってテイにしたいんだけども会社としては」

「現場はそうはいかないんっすよ」

「いや僕だってオーナー兼店長だから現場の人間だろう」

伊藤さんと竹中君が僕らのやり取りを見て笑っている。


「……じゃ、また明日!お疲れっす!」

「お疲れ様です!」

いつもの居酒屋だから、家は近い。いつの間にか僕が伊藤さんを送っていく役目になっていた。

「あ、俺彼女待ってるんで。お先です」

取ってつけた理由いちいち言わなくていいから!そういうとこだぞ、ユウヤ。

「いつか連れてきたらいいのに、彼女さん。待たせたらかわいそうよ」

ユウヤの後ろ姿を見送りながら伊藤さんが言った。

「そうだね。アイツはああ見えて恥ずかしがり屋だからなあ」

「ああ、わかる気がします、寺道シェフは意外とシャイですよね」

「よく見てるんだね」

「ホール回すためにはシェフの動き見てないとですから」

「確かにね」

いつもの道を歩いていく。一年経って、伊藤さんも僕もお互いに砕けてきたように思う。飲み会の帰りに、二人で何となくカフェに寄ったりして帰ることも多くなった。

「あ、そうだ!店長すみません、ちょっとコンビニ寄っていいですか?」

「ん?いいよ」

伊藤さんは棚の下の方を見て、何かを持ってレジに行った。見ると電球を買っている。

「玄関の電球が切れちゃったんです。ずっと買おうと思って忘れちゃってて」

コンビニのビニール袋を覗きながら伊藤さんは言う。

「……つかぬ事を訊くけど、天井に届くの?」

「多分、椅子を持ってくれば……あ」

伊藤さんが僕の顔を見た。

「……店長、頼ってもいいですか?」

「いいよ、もちろん」

「お礼にコーヒー淹れますから」

「待って、それならおやつが欲しい!」

僕はコンビニへ舞い戻り、スイーツの棚へ行った。

多分、こういう小さな驚きや喜びが日々詰まっていくのが幸せというんだろう。僕はサラが欲しかった日常を生きている。

何も特別なことは無いけれど、これでいいんだ。サラは大成功してなんて一言も言わなかった。

「伊藤さんお待たせ!」

二人分にしては多すぎるスイーツにイさんがため息をついた。

「店長、それではコーヒーがお礼にならないです……」

「まあまあ。伊藤アキさん、まずは電球を替えようよ!」

僕は伊藤さんといつもの道を歩いて行った。



*「君への嘘を、僕への嘘を」「となりの窓の灯り」、「空白の7階、もっと空っぽなその上の階」「何様だって言ってやる」「真面目な警察官は、やっぱり真面目に恋をする」と同じ世界線のお話です。今回のお話でシリーズ終了となります。続けて読んで頂きましてありがとうございました!

同じ時を生きているけれど、同じではない。それぞれの人生が少しずつ絡まっている様子をお楽しみください。


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