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「御心配をおかけしまして申し訳ございません」

 オーガストは額に包帯を巻いているものの、元気な様子でアーシュラに頭を下げた。

「そんなこと言わないで。本当に無事でなによりだもの」

 連絡を受けたその日にはアーシュラはカイルと共にオーガストの容態をうかがいに向かったのだった。久しぶりに訪れたウィルクスランド邸でオーガストと再開した。彼の自室は奥まった小さな部屋だ。その寝台で半身を起こして本を読んでいる彼を見たときには安心のあまり倒れてしまいそうだった。


「それにしてもどうしてこんな怪我を……」

「はい、資産の整理のため、ほとんど屋敷におりまして、あまり外にも出ないのですが、さすがに食料品がつきまして買出しに出たのです。夕刻で薄暗い中、突然背後から襲われまして……頭を殴られて気を失ってしまったのです。道行く方が私を発見してくださいました。怪我は軽かったので医者に見てもらったのも、なんだかお恥ずかしい次第です」

「まあ、だめよそんなの。ちゃんと診療してもらえてよかったわ」

「そうですよ、オーガスト。頭の怪我は大事になったら後で困ります」

 カイルも昔から顔なじみのオーガストに心配そうな視線を向けた。


「オルセン様にも御心配をおかけしました」

 オーガストは深々と頭を下げる。本当は部屋に二人が入ってくるやいないや、立ち上がろうとしたのだった。彼をベッドの押し留めるのに二人は大慌てだった。

「でもどうしてオーガストが……物取りかしら」

「それが」

 オーガストはアーシュラが来ることは見越していたのだろう。その時までずいぶん考え込んでいたようで、出た結論に彼は忠実だった。


「持ち物を荒らされた様子はあったのですが、何も失ったものが無いのです」

「え?」

「もともと私が金目のものを持ち歩いているようには見えなかったでしょうが、それでも財布くらいは持ち歩いております。しかしそれはなくなっていませんでした。単なる物盗りとは思えません」

 オーガストはアーシュラを気がかりに思う視線を向けた。


「申し上げようかは迷ったのです。しかしことは私で収まらずアーシュラ様にも向けられるかもしれないと思ってお話しました。私にはまったく心当たりがございませんが、もしかしたら亡きグレッグ様が何か遺したと考える何者かが私を襲ったのかもしれません。それくらいしか私が襲われる理由などないのです」


 オーガストに対する私怨。それは一瞬頭をよぎったが、アーシュラの知る限りそれは無い。オーガストは他者と不用意に交流するような人間ではない。長年連れ添った妻が死んでからは本当に少数の親しい友人とまれに交流があるくらいだ。

 ウィルクスランド家に対する怨恨……という考えがあったが、怨恨を抱かれるほど父が他人と親しかったかは甚だ謎だ。それにそれならば何も単なる雇われ人のオーガストを襲わなくても、アーシュラという直系がいる。


「アーシュラ様がバージェス公爵にお世話になると聞いた時には私も大変不安に思いましたが、こうなってみればこの屋敷にいなくてよかったと思います。私一人ではなにか不審者が来たときに不安です。アーシュラ様に何事もなくて本当によかった」

 オーガストはカイルを見た。


「オルセン様から伺いましたが、今バージェス様のお屋敷には公爵様とその側近のお二人しかいらっしゃらないそうですね。それでもこんな老人よりはアーシュラ様をお守りしてくださいますでしょう」

「オーガスト、わたしの心配はいいのよ。今はただ、自分の心配だけしてちょうだい。ねえ今この屋敷にはあなたしかいないのよね。心配だわ」

「大丈夫です。もうすぐ親しい友人の一人が来ることになっています」

 じじい二人ですので、明朝には襲われなくても私か相手のどちらかが寿命を迎えているかもしれませんが、とオーガストは笑って言った。


「いいえ、でも心配だわ。どうにかしてわたしが泊まれないかしら」

「おやめくださいアーシュラ様」

 オーガストの声音が急に低くひきしまる。

「アーシュラ様に何かあったほうが私は大変辛いです。バージェス公爵のお世話になっていてください」

 取り付くしまのない厳しい口調、しかし根底にあるものはアーシュラに対する愛情だ。それ以上強くも言えず、アーシュラはその部屋を辞した。

 見送るという彼をその場に押し留め、二人は帰る前にとりあえず居間に立ち寄った。


 アーシュラはもうすでに懐かしく思えるほどに遠くなってしまった生家の一室を眺めていた。バージェス公爵邸を見た後では見劣りするが、それでもそれなりに豊かであり、品のいい一室だった。アーシュラは一通り眺めた後ゆっくりと居間の中に進んだ。古びたソファの背に手を掛けて呟いた。その声は驚くほど小さい。


「ともかく、オーガストの怪我が軽くてよかった……」

 アーシュラはソファに身をうずめるようにして深く沈みこむ。カイルはその脇に立ってアーシュラの肩にそっと手を置いた。

「そうだね。アーシュラ辛かったね」

「でも」

 アーシュラは小さな声しかでない自分の弱さに驚きながら続けた。


「でも怖いわ。どうしてオーガストが襲われたのかを考えると」

「……それは暗い道を歩いていたから」

「でもウィルクスランド家が没落して底なしの貧乏だってことはかなり有名だわ」

「アーシュラそういう自虐的なことを言っては……」

「だって没落は没落ですもの。だから借金の後始末をしてくれているオーガストに襲うほどの価値があるなんて考えるのは妙だわ」

「でもウィルクスランド屋敷には高価な品はまだあるんだろう?」


「がっつり隅から隅まで抵当に入っているのですけどね。でもそれなら夜に忍び込んだほうがいいんじゃないかしら。だってオーガストは高価な絵画を持ち歩いているわけじゃないですもの」

「……もしかしてオーガストは、屋敷の秘密かなにかを知っているんじゃないのか?」

「でも聞けないわ。オーガストがしゃべらないということは誰一人それを問い詰めても無駄なのよ。多分お父様が『自分の眼鏡の有りかは誰にも秘密にしてくれ』と言ったらオーガストはお父様自身にだってそれを教えない。たとえそれがお父様の額に乗っていたとしても」

 ただ、これはアーシュラも半信半疑だった。


 オーガストは先ほど、アーシュラ自身を不安に陥れる心配をしつつ、それでも用心して欲しいということで自分の懸念を口にした。

 ちゃんとアーシュラのことを一番に考えてくれる人だ。前当主の父親から何かを聞いていてそれがアーシュラに仇なす可能性があるのならきちんと忠告くらいはしてくれるだろう。だから彼が言わないということはきっと本当に何も知らない。

 何も知らないオーガストを何かに巻き込んでしまったことにアーシュラは気が重くなる。自分に責任はなく、なにもかも父親の不首尾が問題だということはわかっているが、それでもオーガストを巻き込んでしまったことは胸が痛んだ。


「アーシュラがよければ」

 カイルが気がのらなそうに言い出したのはそのときだった。

「ウィルクスランド博士の部屋を見てみたらどうだろう」

「どういうこと?」

「何か、アーシュラにも伏せておいた秘密が在るのかもしれない」

「でもここには研究の成果はなにも置いていないのよ」

「うん、でも……」

 カイルは小声になった。

「ごめんね、これは本当に僕の単なる予測だ」

「なに?」


「博士の研究はなんらかの成果があったはずなんだ。投資した資金は家を食い潰したほどだし、彼が投げ打った時間も膨大だ。彼はそれを無為に費やすだけの人では無い、間違いなく成果を出せる方だ。弟子の僕が保証する。でもそういったものは研究室のほうにはなぜか見つからなかったんだ」


「……なにも?」

「何も」

 カイルはその眉をひそめた。

「誰かが奪ったのではないかと僕は考えている。でもそれはもしかしたらこの屋敷に運び込まれ、価値がわからないために放置されているだけかもしれない、だから」

「オーガストはもしかしてそれを知っていると思われて?」

「予測だけどね。何か鍵か地図でも持っているんじゃないかと思われて襲われたのかもしれない」

 アーシュラはうつむいた。


 父が何かを残していようが残していまいがそれについては考えないようにしていた。彼は病気で自分の状態はよく知っていた。だからアーシュラに残そうとするのなら段取りを整える時間は十分あったのだ。でも彼はそうしなかった。

 アーシュラになにも残さなかったのは残す気がなかったからだろう。そう考えている。だから今更何か見つかっても別にアーシュラ自身には関係ないことだと思おうとしていた。

 だからカイルの誘いにも乗る気はなかったのだが、実際オーガストが傷ついてしまった以上、それに対してなにも手を施さないというわけにはいかなかった。父親は死んだがオーガストは生きているし、アーシュラとしても彼には長生きしてもらいたいのだ。


「そうね」

 アーシュラは低く呟いた。

「せっかく来たのだから、ちゃんともう一度何か隠していないか探してみましょう」

 そして二人はグレッグの自室に向かうことにした。死者を暴くようでなんとなく気乗りはしなかったが仕方ない。

 廊下の先のあまり広くない部屋がグレッグの書斎だった。きしむ扉を開けると古い紙の匂いが充満していた。それになんとなく懐かしさを感じる。


 この部屋の片付けはまだオーガストも取り掛かれていないようでずいぶんな散らかり方をしていた。手始めにアーシュラは一番手前の積み上げられた書類の一番上をつまんでみた。それだけでずいぶんなほこりが舞い上がる。

「これ……二十年も前の研究の紙だわ……お父様は整理整頓とかなにも考えていなかったのね……」

 暗い声でアーシュラはため息をついた。この先の発掘作業が難航すると予測されたからだ。

「まあはじめてみようか」

 カイルの半ばやけくそじみた笑顔だけが救いだった。


 そのまま二人でその詰まれた書類や本を少しずつ片付け『なにか』を探していた。いまひとつ何を探しているのかはっきりしないという雲をつかむような話で、アーシュラはもやもやが取れない。しかしカイルは楽しそうだった

「カイルは元気ね」

「まあね。亡き師匠の足跡をたどっているようで楽しいよ」

 カイルのほうが父に近かったのだろうか、そんなことを思ってアーシュラの気持ちは重いものになる。

 過ごした時間は、自分よりよほど弟子の彼のほうが長いだろう。アーシュラはふとカイルをまじまじと見てみた。彼とは魔術研究のことで話が弾むことはあったが、あまり個人的な話をしたことはない。彼も彼なりに父を慕ってくれていたはずだ。

 それなのに、父親は彼にも何も残さなかったのだ。


 改めて、父の非常識……あるいは単なる気の利かなさを感じてアーシュラは頭が痛くなった。

「しかし、あまり魔術書のたぐいは置いていないんだな」

 カイルがそれを不満に思っていないのか、口にしないのは逆にアーシュラを居たたまれなくする。もっと怒ってくれれば良いのにと。

「そうね。もっといろいろな種類をもっていたと思うけど……稀少なものはお金になるから売ってしまったのかしらね」

 父親の代わりに言い訳する自分が滑稽だった。


 そんな短い会話を時折交わしながら二人は片づけを続けていた。黙々と続いた作業を止めたのは昼を告げる時計の音だった。

「……ああ、もうそんな時間だったのか」

 カイルはしゃがみこんで片付けていた床から立ち上がった。その目は笑っている。

「何か食べるものを買ってこようか」

「あ、あのね、カイル」

 アーシュラは自分の荷物に飛びついた。


「わたし最近わけがあってちょっと料理を始めたの」

「えっ、君が?」

 荷物から小さな包みを出したアーシュラはそれを差し出した。

「これはただのサンドイッチなのだけど、よかったら食べませんか?」

「へえ、それはありがたいな」

 カイルはその部屋の椅子を持ってくると向かい合わせにテーブルを挟むようにしておいた。

「頂くよ」

 アーシュラがこんなことをやっているのも最近思いなおしたからである。夫の健康管理は食生活から!などとわけのわからない啓蒙を受けたようだ。

 最初はへえとアーシュラの作った昼食を興味深そうに見ていたカイルだが、一口食べた感想と表情は確かに変化を見せていた。


「アーシュラ……君の才能のほとんどは、魔術に向けられてしまったんだね」

 カイルの言葉は優しい。視線は……優しいというか呆れているというか。

「君はなるべく良いところに嫁ぐべきだ。そうすれば料理人が作ってくれる。それはけして怠惰では無いんだよ」

「まあカイルって結構辛辣なのね」

「いや……ごめん、率直な意見なんだ」

 カイルはアーシュラの持ってきたパンをさりげなくテーブルの上に置いた。


「でもウィルクスランド博士もあまり食に興味を持たない人だったよ」

「お父様も?」

「食べられればいい、そんな感じだったなあ。研究が佳境になると何も食べないまま三日間過ごして、突然私に『なぜ私がこんな不快な気分なのかわかるかね?』とか聞いてきたんだよ。こちらとしては自分が何か失態をしたのかとびっくりするじゃないか。でも博士は大真面目に聞いているんだよ。しばらく考えて『そうか、よく考えたら空腹だった!カイル、申し訳ないがちょっとパンの耳でも買ってきてくれたまえ』とかおっしゃったよ」

「耳だなんて」

 でもそれは確かに父らしいエピソードだった。家に帰ってきても、父は何かを口にしながら書類を手にしていた。それを優しくたしなめる母の声をふと思い出す。母に言われると父はそうかそうかと書類を置いた。


 言われるまでわからないのは父の幼稚なところなのだろうが、それでも言われれば素直に聞く当たり、父は母をやはり愛していたのだろう。

 自分をその大切な母の忘れ形見として思ってもらえたら。

 母ほどには自分は父にとって価値がなかったから。

 アーシュラは母が死んでから断続的に続く痛みをまた少し強く覚えた。いつもは忘れているのにふとしたときに思い出してしまう。


「さて、アーシュラ」

 カイルは立ち上がった。

「作業を続けようか」

「カイル、食事はもういいの?」

「ああ、もうおなか一杯だ。それは持って帰るよ」

 そう言うと彼はすっとアーシュラから眼をそらし、立ち上がって作業を再開してしまった。

 ぼんやりとしていて他人の気持ちにうといアーシュラだが、なんとなくその様子に察してしまう。多分あれがカイルの口に入ることは無いのだろうと。


 それは彼を責めることではない。そもそもまずい食事を作ったアーシュラが悪いのだ。でも、そのことで一つ思い当たった。

 サイファはまずまずいと連呼し、アーシュラにケチをつけながらだったが、それでも全て食べてくれたのだということに。

 それが優しさなのかただ意地汚いだけなのか、それとも無頓着なだけなのかはちょっとわかりかねた。しかしあの様子はその時こそ少し腹立たしかったが、今思えば悪気と言うものが感じられない明るいものだったと思える。サイファの指摘はしかも正しい。

 カイルのように、君みたいな人間はやらなくても何も損なわれないんだよ、得意不得意があっても良いんだといってくれるのは確かに優しさだ。

 でもあの時料理についてアーシュラは確かに楽しかったからサイファが言ってくれたことはありがたいのだ。あれをもとにもう少し成長できる。


 サイファ・バージェスのもとに人が訪れる気持ちがなんとなくわかった。孤独な彼の為に来訪者があるわけではない。

 ただ皆、サイファに会いにやってくる。

 身なりこそあまり気にせず、実にマイペースな青年だが、それでも他人のことを思いやっているのだろう。そうでなければ人は集まらない。

 アーシュラはなんとなく。

 今までこんなふうに誰かに対して感じたことはないが。

 サイファ様に会いたいわ、と思ったのだった。


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