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しかし以後サイファに会う機会には恵まれなかった。このまま寄宿先が見つかって屋敷を離れる日までもしかしたら会わないのだろうか、そんな風にアーシュラも考えてはじめていた。
でもそれでは困ってしまうのだ。この先の大学院まで魔術に特化した学問をアーシュラが修めるまでなんとしても援助して欲しいわけである。もうちょっときちんと言質をとりたい。
「古典的な手段としてはそうね、夜這いというものがあるわね」
アーシュラがそれに気がついてしまったことはサイファにとっては災難以外のなにものでもないだろう。アーシュラはそういった恋愛にはとんと疎いが、一念発起して町の図書館に出かけると、そういったロマンス小説的なものを借りてきたのだった。自身に不足しているものを理解して、男性を誘惑するにはどうしたら良いのかということを学ぼうというある意味謙虚な態度ではある。しかしさまざまな過程をふっとばしていきなり夜這いに発想が飛んでしまうというのはアーシュラの偏った知識からのものであろう。本人は大真面目である。
「夜這いと言うからにはやはり行くのは夜なのよね。でもサイファ様は夜型だから、普通の人の深夜が早朝よね。朝っぱらからそんなことで良いのかしら。それに色っぽい下着って……服の下に着ていくものを考えてどうするのかしら。見せるわけでもないのに」
ビビアンがいれば「それは見せるものなのよ……」とため息混じりに指摘しただろう。アーシュラの年齢で借りられるロマンス小説は当然そういった肝心の部分は省略されており、夜這っていった先で何が起きるのかはアーシュラの想像の範囲外であった。
そんなことをつらつら考えていたら、うっかり好機がやってきてしまったのである。
離れで寝泊りしているアーシュラだが、その日はふと、何かの気配に気がついた。いつもは恐ろしく静かなバージェス邸であるが、かすかながら人々のざわめきのようなものが聞こえたのだった。
時刻は深夜も深夜、日が変わって間もない頃である。
アーシュラは寝台から降りた。裸足で窓に近寄ってみると、中庭をはさんで見える館にはこんな時間にも関わらず光が灯っているようだった。ガラス越しには動き回る多数の人間の影が見えた。
「まさか……幽霊……」
アーシュラはわりと幽霊が怖い。
それが迷信であるということは理屈ではもちろん理解しているのだが、理屈など容易く凌駕する感情的なところで怖いのだ。
これは絶対親の教育のせいだとアーシュラは考えている。母親は子どもが恐怖というものを習得しきる前に亡くなったし、父親は「この世の全ては理屈で説明できる」と力強く宣言して止まない人だった。
アーシュラがはじめて「怖い話」とであったのは学院の中等部でとある授業後、男子学生が面白がって口にしていた怖い話の集いだった。よくわからないまま聞いていたアーシュラは、まだ夕暮れであったにも関わらず、卒倒しそうになった。ばたんと倒れて「あの鉄の女のアーシュラ・ウィルクスランドも怖いなんて気持ちがあるんだな」などと噂されるのは持ち前の自尊心が許さず、なんとか耐えたが、それ以来怖い話は苦手だ。
わかっていても怖いというその感情の制御が利かない部分がなおさら怖い。
おそらく男子学生たちは、女のくせに成績優秀で、あまり可愛らしいところのないアーシュラをあわよくば怖がらせたいと思ったのだろう。珠玉の怖い話ばかりだったはずだ。
ともかく怪談デビューが遅かったせいで、大人になって罹患した小児疾患のようにその恐怖心をこじらせることになっていた。
よろよろと窓から離れようとした時だった。母屋から人の声が聞こえた。それは幽霊などと言う不気味さから遠くはなれた陽気な笑い声だった。
「……もしかして、こんな時間だけどお客様?」
アーシュラは幽霊よりも驚きの状況に呆れた声をあげた。対象が幽霊ではなく人間だとわかれば俄然わいてくるのは好奇心である。
こんな時間に変人で有名な「引き篭もりの侯爵」の元を訪れるなんて。
アーシュラはソファにかけてあったガウンを手に取るとあっという間に羽織った。素足を柔らかいスリッパに突っ込むと扉を開けて廊下にでる。
夜の気配が風と湿り気でアーシュラの頬に触れた。それを払いのけるようにアーシュラは足早に母屋へと向かう。星の下、なるべく周囲を見回さないようにして中庭の回廊を抜けていく。うっかり見回して本来見えないものが見えてしまったら怖すぎるので。
回廊の先の扉を開けて母屋に入ると、人の気配、そしてもう一つが急に濃くなった。
「まあお酒くさい!」
おもわずぼそっと呟いてしまう。
屋敷の中はいつも以上に明りが灯され、夜の怖さはずいぶん薄らいでいた。廊下を進むとエントランスが見える。物陰に隠れながらもアーシュラはその様子を見ていた。エントランスには想像以上に人々が一杯いたのだ。年齢はまちまちだが男達が酔った顔で口々に陽気に冗談などを交わしている。身なりからしてあまり裕福な階層ではなさそうだ。しかしその人の輪の中心にいるサイファを見つけたとき、アーシュラは首をひねった。
国の最高位の貴族であるサイファが、彼らに対して温かい笑顔を向け、気さくに接している。聞こえてきた彼のかすかな声は来訪について感謝を伝えているものだった。ジュードも不機嫌顔こそいつものものだが礼儀正しく接している。それについて誰も何も思っていない以上、彼らは何度もここを訪れているのだろうと予測できた。
ちょうど彼らは屋敷を辞すところだったらしい。そのまま玄関先に消えていく。アーシュラがもう少し先に進んで玄関の様子を伺うと、彼らは次々にその向こうに消えていくところだった。ジュードは帰宅の手伝いをしているようで、一緒に出て行ってしまった。
残されたのは只一人、この館の主人のサイファだけである。
ゆらゆらと明りが揺れる暗い屋敷。おそらく家宝であろう天使の禍石に背を向けて彼は閉ざされた扉の向こうの喧騒をじっと見つめていた。その視線はただ静かだ。彼が出られないという話を聞いていたアーシュラはそこに嫉妬の影があるかと思ったが、ただそこには静けさしかない。逆にそれが彼が諦めてきたものの多さを示しているようでアーシュラは気持ちを沈ませる。
じっと見ていたサイファだが、やがて自室に帰ろうとしたのか急に方向を変えた。隠れ損ねたアーシュラは正面から彼と目を合わせてしまった。
「えっ」
彼もおそらくそう多くはなさそうだが酒を飲んでいたのだろう。その酔いがさっとひける音が聞こえるような気がした。
「なんでここにいる?」
「あの……人の声が聞こえて」
「……ああ……まあ今日は人も多くてにぎやかだったからな」
「あの方々は」
サイファはそれにはすぐに答えず、アーシュラのほうに向かって歩いてきた。そのままアーシュラの脇を通り過ぎてしまったので、彼女は彼を追うようにして自分も歩き始めた。
「まあ、俺の友人、と言うところだな」
ついてくるアーシュラに根負けしたのか、部屋の扉を開けながら彼は短く語った。
「どうしてこんな真夜中に」
「俺の時間に合わせてくれたんだろう」
「いいご友人ですね」
「ははは、俺がわがままなだけだ」
部屋に入ったサイファは向けられ続けるアーシュラの視線に少し困惑したようだが、ほったらかしてしておくことにしたようだった。応接室は先ほどまでにぎやかに楽しんでいたようで、何本もの空いた酒瓶やグラスが散らかったままだった。
「ご友人方は……」
アーシュラは次に続ける言葉を失っていたが、サイファは察したようだった。
「まああれだな、確かに侯爵が付き合うような相手じゃないかもな。他の侯爵連中には俺はバカと思われているだろう。あんな貧乏人と付き合って資産をむしりとられているって」
「どんな方々なのですか」
「貧乏人だ」
サイファは言葉少なく語るだけだった。
「でも」
アーシュラは考えていった。
「サイファ様は、先日わたしに『ここから出られない』とおっしゃいました。わたし不勉強で申し訳ありませんでした。この間初めてそういった噂を聞きました」
「本当に、社交界に興味がないんだな……グレッグそっくりだな」
「……父ももしかして深夜にこちらにお邪魔していたんでしょうか」
グレッグ、そう呼ぶ彼の声に少なからぬ親愛の情を見つけてアーシュラはふと父親も彼と親しかったのではないかと気がついた。そう思ってみれば、最初のあの失礼な言葉も、本当に自分の友人とその娘がよく似て嬉しかったという話だったのかもしれない。
「……まあな」
「でもそれならば少しだけほっとします」
「なんでだ」
「だって出られない上、誰も来なかったら寂しいじゃありませんか」
アーシュラの言葉は単純で、そして本質だった。
「わたしも変人だといわれます。あまり他人に興味もなくて。でもそれでも寂しくないのはやはり数は少なくても友人がいるからだと思うんです。サイファ様にもそういった方がいらっしゃってよかったです」
サイファはしばらく言葉をかみ締めていたが、そのまま無言でソファに座り、残っていた酒を新しい杯に注いだ。サイファがいつも左手の中指にしている指輪の石が、赤い酒の色をわずかに写し取って染まっていた。
「サイファ様?」
「俺のことはどう聞いた?」
「え?」
「どうしてここに閉じ込められることになったのかということだ」
「ええと……相続争いが切欠だって」
「よく聞いていないんだな。いや、街中の噂はそんなものかもしれない。結局のところ、俺だってどうしてここに閉じ込められているのかわからないんだ」
アーシュラはその言葉にえっと短い声を漏らしただけだった。当人も理解していないという事情、それに目をしばたかせる。
「アーシュラ、座れ」
サイファは自分の向かいの席を示した。アーシュラが恐る恐る座ると、彼は先日以上に乱れている髪をかきむしった。
「まあ俺も酔っているしな。たまには話に付き合ってもらってもいいだろう。第一お前は俺の妻になりたがっているくらいだ。聞いておいて損はなかろうよ」
いい加減な口調の裏に何かが潜んでいる。
「そもそもは後継者をきちんと指名する前に急死した父親が悪い」
サイファは言い切った。そのまま杯の酒を煽る。
「父親が何を考えていたのかは、正直わからないんだ」
アーシュラのほうを向いたサイファはこんな時でもうっすらとふざけたような笑いを浮かべていた。
「ただ、俺の母親のことはある程度は大事にしていたのでは無いかと思うくらいだ」
「それがどうしてあなたをこの屋敷の閉じ込めることに」
「閉じ込める……?ああ、それをしたのは兄だ」
「えっ?」
以前、ビビアンから聞いた話では、先代当主の手によってこの屋敷に閉じ込められたとなっていたはずだ。アーシュラが怪訝そうな顔をしていると、サイファはどこか納得したような表情で続けた。
「父が死んだ後、後を継いだ人間は三人もいるんだ。それぞれ十日程度だったが」
サイファの口調は淡々としている。しかしそこにはあまりにも血生臭い話があった。
「まず継いだのは俺の兄だ。長兄。父の別の愛人が産んだが、魔術の才が大変豊かだった。しかし彼はまもなく亡くなった。禍石が急に思わぬ反応を見せて、自らの魔術で大怪我したんだ。そんな失敗をするような人ではなかったのにな」
「それって……」
「長兄が死ねば順当に言って今度は次兄だった。ところがそこに父の弟……俺の叔父が割り込んできたんだ。無理やり自らを当主とした彼はそれはそれでやり手だったのかもしれない。人脈は豊かだったようだ。しかし叔父もすぐに死んだ。忍んできた暴漢によって刺殺されたんだ。そうなるといよいよ次兄の番だ。彼は魔力こそ優れていなかったが、父の正妻が産んだ跡継ぎだ、王家も議会もこれで落ち着くと思ったんだろう。しかし彼もまた、まもなく臥せって病死した。毒殺らしい」
「それはサイファ様がなさったことなんですか?だから恨まれたんですか?」
「……真顔で正面切って聞かれたのは初めてだ」
サイファはまた一瞬、唖然としたが、アーシュラに悪意がないことはわかっているよ、とばかりに、にやっと笑った。
「まあ大方の人間はそう思っているだろうよ。実際、死んだ次兄もそう思ったらしい。俺を呪ったのは彼だ。死に行く床で、俺に向かって言い放った。『お前が家督を継ぐなら、仕方ない。くれてやる。家がつぶれるよりましだ。でもお前にやるのはそれだけだ、他のものなど何もやらない。お前の血など許さない』とな」
サイファはアーシュラの表情に怯えがないか探していた。それは彼の嗜虐心だったのかもしれない。しかしアーシュラの顔にそんなものはなかった。純粋な好奇心が隠し切れず漂っているだけだ。幽霊以外はあまり怖くない。
「そして俺は確かにバージェス侯爵になった。愛人の子で魔力も持たず人脈もない漂泊の民の末裔がな。次兄は腕のいい魔術師を雇い、そしてよほど価値ある禍石を手に入れたのだろうな。俺の呪いは未だに解けず、外に出られないままだ」
「それはとばっちりでしたね」
「……お前は俺を疑わないのか?」
「え、やっぱりサイファ様が真犯人なんですか!?」
「いや、だから正面きって聞くな。大体お前は疑っているのかどっちなんだ」
「知りません。だって信頼関係なんてまだ築けていないじゃありませんか。正直、今、何か食べ物を勧められたら口にしようか迷います。毒とか入れないでくださいね」
「すごいな、無礼が突き抜けている」
「本当のところはどちらなんですか?」
「さあな」
サイファは興味すらないように短くそう答えた。
「でも俺が自身を評価しても別に出られるわけじゃない。まあ俺はこの暮らしにおおよそ不便は覚えていない。ありがたいことに侯爵だ、何か用事があれば概ね相手からやってくる。出かけなければならないときは、ジュードが代行してくれる」
「サイファ様はジュードをとても信頼されているんですね」
「付き合いが長いからな」
ジュードの話になったときサイファの表情は少し和らいだ。
「魔術の使えない俺では侯爵にならずともいろいろ不便があろうと父が探して来てくれた」
「ジュードは魔術が得意そうでしたね」
「得意どころの話じゃない。アーシュラにしてみれば先輩にあたるんだ」
「魔術学院に通われていたんですか?」
「優秀な成績で大学部に在学中だ」
アーシュラは彼の冷ややかな表情を思い出す。自分も少し変わっているのではないかと言う自覚があるが、ジュードといい、魔術学院の優秀な成績者というのは少し変わっているのが当たり前なのだろうか。
「大体のことは彼が代行できる」
「そうなんですね」
何気なくうった自分の相槌にアーシュラは心臓が跳ね上がるような気がした。
ジュードはサイファから絶対の信頼を得ている。彼はバージェス家の資産についても代行であるが多くの権限を有しているであろう。サイファは彼を信頼しているが…………もし彼がそれに値する人間ではなかったら。
ジュード自身に悪意がなかったとしても、バージェス侯爵の地位を狙う連中は多いであろう。
……だがそれは今のアーシュラが言うべきことではない。ジュードに冷たくされたからといってそんな風に思うのは失礼というものだろう。
だからアーシュラの次の言葉は凡庸なものだった。
「でも、サイファ様も、ここにいながら家の資産を管理していらっしゃるのだから、有能なんだと思います」
アーシュラは慣れない慰めの言葉に、サイファの顔を見ることはできずただ目の前の倒れた酒瓶を眺めていただけだったが、顔を上げていたら見慣れないものが見えただろう。急に褒められて表情に困っているサイファの顔なんていうものが。
「ウィルクスランド伯爵」
そう声をかけたときには当然彼の顔にはいつもどおりのふざけたような薄笑いといういつもの表情があるばかりだった。
「俺はこの屋敷で不自由はしていない。それは本当だ。外に出ればわずらわしい諍いもあるだろうが、この屋敷の中まで届くことはあまりない。静か過ぎると言われればそれまでだが、別に俺はこれでかわいそうじゃないんだ」
そう彼は淡々と告げる。
「ただ昼間は外の明るさが届くだろう。だから嫌なんだ。夜は平等に静かだからな」
それが単純に光を示しているのではないのだということは、アーシュラにはよくわかった。日中はどれほど閉じこもっていても、この屋敷の外の人々の気配と言うものは感じ取れてしまうのだろう。
この屋敷に郵便を届ける配達員は恋をしているかもしれない。酒の業者は家族の誰かが誕生日かもしれない。屋敷の窓からは道を通りかかった優しい母子の姿が見えてしまうかもしれない。若い娘がはしゃぐ甲高い声は屋敷の中にまで届くこともある。
人々の自由と幸福が破片となってサイファには届くことがある。それは彼が手に入れることのできないものだ。……少なくとも彼はそう信じている。破片であるがゆえにその切っ先はそんな彼の心を鋭く傷つけるのだろう。
「それで昼夜逆転なんですか?」
「夜は静かで良い」
サイファはそれだけ答えた。
「俺がここから出られないと言うことは、知るべき人間は皆知っていることだ。ここにくる人間は俺をそう扱う。そう扱わない人間……俺が外に出られないと知らない人間はここには来ないんだ。だから俺は、俺を外に誘う人間の言葉なんて久しぶりに聞いたよ」
「え?」
アーシュラは彼をまじまじと見た。
「外に出かけませんか……か。お前の誘いはとても嬉しかった」
「サイファ様」
彼の感謝に、逆にアーシュラは悔しさを感じた。
彼が魔術によってここに幽閉されていることは紛れもない不幸だ。そしてそれ以上の不幸は彼がそれを諦めて容認しつつあることだろう。もちろん諦めちゃダメですなどということはアーシュラには言えない。サイファ自身は見た目こそずぼらだが、才気ある人物のようだ。彼が今まで外に出るために努力しなかったなどということは考えられない。その努力の果ての諦観だということは想像に難くない。
「わたしは……えっと」
「ああ、悪かった。変なこと話したな。気にするな。お前のせいじゃない、もちろん俺のせいでもないけどな、まあ運が悪い人生ってもんもある。良いじゃないか、ここにいる限り、わけのわからない舞踏会だの祝典だのに出なくて良いんだぞ。まあ五年に一回ぐらいは義理ってもんがあるからこの屋敷でパーティをせざるを得ない時もあるが。その時だってこの容姿だ。それはそれは珍しげな目で見られるわけだ。その機会が減った分だけ気が楽だろう」
「だって」
それでもやはり。
アーシュラは自分の中の不愉快な気持ちを整理する。サイファが良いと言っているのに自分の気持ちが静まらないその気持ちを。
「さ、もう部屋に帰れ」
サイファはソファから立ち上がった。そのまま自分の執務机に戻る。
ニヤニヤして傍若無人でいい加減な青年だと思ったが、いつも悪ふざけのように振舞っているのは彼なりに精神の安定を図っているためにも思えた。そしてそんな苦心を見せることもない彼の強靭さに。
このままじゃおかしい。
アーシュラは、サイファが血縁を殺したとは思えなかった。アーシュラには珍しく理屈ではなくただ感覚的なことであったが、その直感を疑うことはなかった。
とばっちりで彼がここから出られないのはやはり不快な話なのだ。
定められた呪文を間違えずに詠唱すれば、定められた結果が現れる……魔術と言うものはそういうものだ。何かが予想通りにならないのは、どこかが誤っているだけだ。
それが魔術師の定理でありアーシュラの父は偉大な魔術師だった。そしてアーシュラもこの年にしてすでに魔術の多くを知りつつある。
だから、こうしたつじつまの合わないことがとても気になる。
もう一度、その理不尽とは戦うべきだとアーシュラは考える。しかしそれとすでに戦って疲れ果てているサイファにそれを強いるのは酷だろう。でもこの屋敷の居心地をよくすることにアーシュラが手助けするなんて非現実的だ。あのまずい料理ときたら!
手助けすることがあるとすれば。
アーシュラ自身、単独で、もう一度サイファの不運と向き合うことか。
しかしアーシュラはくじけることがなかった。魔術であれば自分にできることはおおいにあるはず。気力がみなぎってくる。
長期休暇中で暇だし。
新しい実験結果とかでたら、自分としてもうれしーな。
そんなわけでサイファ様のために!
……毒々しい色でもしていそうなアーシュラの下心も混ざっているが、一応善意だ。
アーシュラはサイファの呪いの謎を解くことに決めた。
「サイファ様」
「なんだ」
「わたし、そういえば夜這いに参らねばならないと思ってましたの。あらサイファ様、こぼれています」
ちょうど酒を再び注ごうとしていたサイファの手もとが狂い、テーブルに赤い滝が零れ落ちる。慌ててサイファは瓶を立てた。
「よ、夜這い?」
「そうです。口説いた相手がつれない時はちょっと強引に迫ったほうがいいと小説には書いてありました」
「そうなのか……最近の世と言うのは乱れているのだな、いや積極的な娘が増えたということか……俺も外の状況についてはいろいろ調べているつもりだったが……」
サイファはアーシュラのガウンの下のむき出しの首筋にちらりと視線を走らせた。しかしなんとなく微妙な顔をする。
「しかし俺は、お子様に手を出す気は……」
ごにょごにょと言った言葉が聞こえなかったのかアーシュラはにこにこしながら続けた。
「無事夜這いができてよかったです。サイファ様とお話したいと思っていたんです。やっぱり妻になりたいというからには、夫のことをより理解すべきですよね!」
「そうか……」
「成果を収めることができてよかったです。ありがとうございます!また機会があったら参りますね!」
「え、終わり?」
「まだ何かあるんですか?」
「……いや……」
アーシュラは立ち上がった。
「明日からわたしも頑張ります、よろしくお願いします!」
アーシュラはサイファに手を差し出した。ためらうサイファの手を奪うようにして固く手を握る。
愛情というより友情ではないか?もはや夜這いは影も形もない、とサイファの目には浮かんでいるがアーシュラは気がつかなかった。
カイルから急な連絡が入ったのはその翌日のことだった。
ウィルクスランド邸の片づけをしていたオーガストが何者かに襲われたという知らせにアーシュラは真っ青になった。