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厨房からアーシュラの持ってきたものを口にしたサイファは微妙な顔をした。それは美味いか不味いかでいったら確実に不味いに分類できるものだった。
「なんだか美味しくありませんね」
アーシュラ自身も素直に認めるところである。ちなみに持ってきたものは、カチカチのパンと薄く斬ったつもりのようだが切れていない厚切り状態の燻製肉、それに得体の知れないスープだった。
「これは一体」
一端執務を中断し、サイファは執務室の横の応接間で、その不味いか普通か美味しいかでわけたら、やっぱり不味いに分類されそうな料理に向かっている。
「パンは棚の上にありました。燻製肉は……わたし初めて見ましたけど腿の形で天井からぶら下がっていたので、ああこれは切って食べるものなのだと察しました。察したのですけど実際に薄切りにするのはたいそう難しいのですね。スープは作りかけて釜戸にありましたので、仕上げて見ました」
薄切りであればとろけるような舌触りだが、現状かなり厚く切られた状態で歯が通らないような燻製肉をなんとか一片食いちぎったサイファは疲れたようにため息をついた。
「先ほどは聞きそびれたが、お前は料理をしたことはあるんだよな」
「ありませんとも」
「なるほど、澱みなく、そしてつじつまの合うすばらしい返事だ。すばらしくないのは俺のとぼけた質問だけだな!」
「わたしが父の浪費を知って、家が火の車だと気がついたのは父の死ぬ十日前なんです。ですから普通に料理人がおりました。そもそも貴族の娘は手慰みの菓子作りくらいしかしませんもの。わたしはそれさえしませんでしたけど。父は勉強さえしていれば良いという立場でしたし」
「それにしては自信ありげに厨房に向かったが」
「料理なんてやればできると思っていましたけど、できないものですね」
アーシュラは噛み切れず歯形ばかりが多く残る燻製肉を手ににっこりと笑ってそう答えた。
「スープも味がなかったのでわたしが仕上げをしました。でもどうやっても希望の味にならないんです。料理人ってさすがですねえ」
「……うまく作るのは技術だが、不味くつくるのもまた技術だな。いやあ、俺は、粗末なものなら結構食べたが不味いものを食べたのは初めてだ」
「侯爵様が粗末なものなんていつ食べるんですか?」
「俺の母親は踊り子だったからな。父の愛人だったんだ。侯爵家が迎えにくるまでずいぶんな暮らしをしたものだ」
いきなりそんな『侯爵家のヒミツ』を暴露されて、反応に困ったアーシュラは不味いスープをむせさせた。
「さ、サイファ様」
「なんだ、不味すぎてむせたか。しかし毎日これはつらいな。早めに料理人を募集する。明日する。明日から働いてもらう」
「サイファ様は結構ずけずけとおっしゃいますのね。自分の家のことも、わたしがせっかく作った料理のことも」
「俺は正直者なんだ。というか言葉を選ぶのが面倒くさい。母親が踊り子だったのは本当のことだし、アーシュラの料理が不味いのも変えようのない真実だ」
「確かに。水の精霊ウンディーネの禍石からは水が溢れる、くらいの紛れもない真実ですね」
「まあ禍石の質を変えるのとアーシュラが料理上手になるのと、どちらが不可能の表現として正しいかはこれからの課題だな」
サイファは力強く言った。そして黙々と食事を進める。アーシュラもとりあえず作った手前、それらを一生懸命片付けた。
時折目の前のサイファを盗み見た。
言うことは無神経極まりないが、アーシュラもそれは人のことを責められない。自分が変人なのかもしれないが、けなされてもサイファに嫌な印象を持つことはなぜかできなかった。その言い方に湿っぽさがないからだろうか。
アーシュラはどちらかというと彼に好意的な気持ちを抱いていた。そもそも父親が変人なのだからそういった人には自分も耐性があるのだろう。サイファのいい面に……主に「お金を出してくれてありがとう!ついでに結婚して!」という部分に惹かれる。しかしそういった親切に自分ができることはトンマな料理だけなのだが。
それは歯がゆさだった。
一通り食べ終わったところで、アーシュラは部屋を辞すことになった。サイファはまだまだ仕事があるらしい。皿をもって立ち上がったアーシュラを彼は扉まで見送った。
「バージェス侯爵様」
アーシュラは空になった皿に一瞬目をやってから彼を見た、
「よろしければ、明日も料理人が見つからなかったら、外に行きませんか?わたし、美味しくて安い店をこの間教えてもらったんです」
サイファはその言葉をかみ締めるようにアーシュラを見下ろしていた。そして半開きの扉に手をかける。
「アーシュラ・ウィルクスランド」
その瞬間の彼の表情は先ほどまでと何も変わらない。精悍な顔立ちにそぐわない飄々とした皮肉っぽい微笑。しかし、この瞬間、瞳の黄金にはまるで亡霊の呪いのように張り付く影があった。
「教えておこう」
彼の陽気さとぶしつけさは、なにかの裏返しだとアーシュラはうっすらと、気がつく。
「俺は夜型だ。夕刻に起きて、朝眠る」
だから彼はさきほどあんな寝巻き姿だったのか、と納得するアーシュラに畳み掛けられたのはもう一つ。
「あとな。俺は、この屋敷から出ることはできないんだ。それが俺の呪いだよ」
えっ、とアーシュラの顔が上を向いた瞬間扉は閉まり、サイファの姿はもうなかった。
「ど、どういうことかしら」
閉ざされた扉の向こうをさぐるように見つめていたアーシュラだったが、やがてとぼとぼと力なく歩き始めた。
長い回廊はひっそりと暗く物音がしない。少々不気味ささえ漂っているが、あまりアーシュラは気にしないようにした。両脇に庭園をそなえた渡り廊下を歩き始めると、なんとはなしに足を止める。柔らかい月光が美しい庭園に降り注ぎ幻想的な光景を作っていた。
「屋敷、というとこの回廊もダメなのかしら。とても綺麗なのに……」
その景色の向こうで急に何かが動いた気がした。潅木に隠れるようにして走っていくのは人陰ではないか?
「ジュード?」
彼は深夜にならなければ戻ってこられない遠方に使いで出ているのではなかったか、とアーシュラはさきほどのサイファの言葉を思い出す。確信は持てないが、あの長身なわりに細身のシルエットは彼ではなかろうか。
しかし声をかけられず見守っているうちに彼は走り去ってしまった。
それから数日立って、アーシュラは自室として与えられた離れで魔術書を読んでいた。それは新学期からの参考書である。専門課程にすすまなくても一般教養として貴族は魔術を習うのだ。他人よりいくらか才のあるアーシュラにしてみれば、この程度の魔術は正直鼻歌を歌いながらでもできそうな代物であるが、基礎を大事にしないものに成長は無いと父親から言われ続けていたせいもあって、暇さえあれば読み直して復習していた。
ジュードが部屋を訪れたのは昼過ぎだった。
「アーシュラ様、お客様です」
「お客?」
「ご友人だとおっしゃられています」
そしてジュードが告げた名前に、アーシュラは部屋を飛び出していた。長い回廊を渡り主たる屋敷に飛び込むと、玄関ホールまで駆け抜けた。
「アーシュラ!」
玄関ホールに立っていたのは、アーシュラも見知った少女だった。癖のない柔らかい金色の髪をした彼女は、アーシュラの姿を見つけると、軽い足音を立てながら走ってきた。
「ビビアン、どうしてここに?」
駆けた勢いを殺さぬままにビビアン・ナイトリーはアーシュラに抱きついた。一瞬よろけながらも受け止め、アーシュラも女友達との再会に笑顔を浮かべた。
「オーガストに聞いたのよ。迷惑かもしれないと思ったけど来ちゃった」
ビビアンは現在の学院の同窓生だ。それも最近のものではない、入学した五年前からの友人だった。彼女もまた貴族の生まれで、アーシュラの屋敷にはよく訪れていた。基本的に学校の制服しか着ていないアーシュラと違って彼女はいつも気の利いた服装でいる。今日も春に相応しい淡い色のドレス姿だった。
「カイル・オルセン様もアーシュラを心配していたわ」
「そう、屋敷で二人に会ったのね。来てくれて嬉しい」
アーシュラを覗き込むビビアンの緑色の瞳は、本来の澄んだ色に心配という陰りを落としていた。本当ならば彼女も学校が休みの間家族そろって休暇であろうに、それを途中でやめて来てくれたのだ。
「ウィルクスランド伯爵」
アーシュラから少し離れたところで追いついたジュードが声をかけた。
「バージェス侯爵様?」
「いいえ、私はただの家令です。旦那様は申し訳ありませんがただいまお会いすることはできません」
「そうですか……残念です。でもアーシュラとはお話できますか?」
「応接間にご案内いたします」
「いいえ、いいわ。天気が良いから庭を通って離れで話します」
アーシュラはそういってビビアンの手を握った。
「バージェス侯爵様によろしくお伝えください」
ジュードがちらりとアーシュラを見た。そのまま軽く頭を下げると自分は屋敷の別の仕事をするべく立ち去ってしまう。
すらりとしたビビアンは、整った容姿もあって、アーシュラも見とれるほどに立ち振る舞いが優雅なものだった。淑女としての手習いを放棄して魔術学にばかり熱心だった自分にはとてもできない。ああいったことができれば、自分にも嫁の貰い手くらいあったのだろうか。いや欲しいのは別に夫じゃなくて支援者だと思っている自分が問題だった……、とビビアンを見つめながらアーシュラは考える。勉強だけしていれば良いという主義であった父に、すこしだけ恨み言を言いたくなる。
ただアーシュラの偉いところは、それが妙な卑下や嫉妬に結びつかないところだろうか。
一緒に回廊を渡り、離れの自室に戻る道すがら、ビビアンの目には好奇心が溢れかえっていた。自室でソファに座った瞬間、口火を切る。
「バージェス侯爵のお屋敷でお世話になっているなんて全然知らなかったわ!」
「お父様が亡くなってからのことで、連絡する術がなかったから。父も親しい人たちでだけでひっそりとお葬式にしたの。噂で父が死んだことを知っている人は多いでしょうけど。ごめんなさい不義理だったわね」
お金がなくて……と信実を言うべきではないなとアーシュラが飲み込んだときビビアンが吠えた。
「別に怒ってなんていないのよ!……ううん、違うわね、怒ってる。アーシュラがいろいろ困っていたのにまったく気がつかなくて長期休暇を楽しんでいた自分に怒っているわ」
「ビビアン……」
ビビアンはその華やかな容貌と大人びた性格で、学院の友人達の中でも中心的な存在である。べたべたとしないが面倒見のよさで慕われていた。ぼんやりした性格に、あまりぱっとしない容貌のアーシュラと一緒にいる理由は無いのだが、付き合いが長いこともあって彼女はアーシュラのことを何かと気にかけていた。
「屋敷まで売りに出されてしまうなんて……」
「いいのよ。屋敷なんて、大きくて邪魔なものが一杯なだけで。中身の蔵書にはたしかにちょっと未練があるけど。どちらかといえば、休暇に昔家族で一緒に過ごした地方の別荘のほうが惜しいくらいだわ……」
「アーシュラ」
ビビアンは横に座ったアーシュラの手を握った。
「力になれることがあったら言ってね」
「ありがとう」
ビビアンの申し出に感謝してアーシュラは彼女の手を握り返した。ビビアンも貴族の娘とはいえ、それほど裕福ではなさそうだし、お金の工面を口にするのはさすがに気が引ける。
ああこの世の問題の九割はお金があれば解決できそうだわ、と若い娘らしからぬカサカサに乾いたことを考えてしまうアーシュラは問題である。
そういえば、とアーシュラは思いついた。
「ビビアンは社交界でいろいろな話を聞いていそうだからちょっと聞いてもいいかしら。バージェス侯爵のこと」
「ええなんでも聞いて。でも私もお目にかかったことは無いの」
妙に含みのある声をしていた。ひっかかってアーシュラはビビアンの顔をまじまじと見つめる。それに催促されたようにビビアンはため息を一つついてから話し始めた。
「バージェス侯爵は呪われているらしいの」
「どういうこと?」
「このお屋敷から一歩も出られないんですって」
サイファの言葉の裏づけのようだった。
魔術は時に人へも影響を及ぼす。魔術でこの屋敷から出られないように行動範囲を制限することはできないことではない、しかし。
「もちろんどこまで本当かはわからないけど、先代のバージェス侯爵様が次代の侯爵にそういう呪いをかけたというお話よ」
「先代……サイファ様のお父様がということかしら」
「だと思うけど。でも理由を知っている人なんているのかしら。ただ、先代は今のサイファ様以外にも正妻に息子がいたし、彼自身の弟だか兄とも相続で争っていたと聞いたわ。サイファ様は、えっと、その」
ビビアンはそこで言いにくい言葉にはにかむ。アーシュラはあっさり良家の子女らしくなく口にした。
「愛人?妾?そうえばお母様は踊り子だったって」
「そ、そう、それのお子様らしいわ。だから相続権の順位は低かったんですって。でもその頃になにがあったかを知る人はいないの。結局確実なのは、サイファ・バージェス様は呪いでこの屋敷から出られない、公務は代理がいつも出席している、それだけよ」
「そうなの……。ビビアン、ありがとう、とても興味深いお話だわ」
「アーシュラもこんな俗っぽいことに興味を持つのね」
「相続の頃からと言うともう何年も出ていないことになるわ。それほどに長い時間に渡って相手の行動を制限できるとすればなかなか高度な魔術よね。魔力の供給源となる禍石だってかなりのものが必要よ。でもそうであったとしても、術者の定期管理がなく術を維持し続けるなんて相当のものだわ。対象者に魔力に対する耐性がないならまだわかるけど」
「……ああ、そちらのほう……」
アーシュラが、そういったことが可能である魔術についてぶつぶつと呟き始めたのをみて、ビビアンはまた呆れた視線を送った。噂話じゃなくて魔術として可能かどうかを考え込んでいる。
「本当にアーシュラは、俗っぽいことに興味がないのね」
「あるわよ。でも身の回りにないだけ。ビビアンは最近どう?」
アーシュラは思索を中断して彼女に話をふる。
「そりゃあ私は俗っぽいですもの。恋の話くらいあるわよ。でもうまくいかないつまらない話」
「え?」
恋愛話などあまり興味がないアーシュラだが、それでも親友の事となれば話が違う。もしビビアンが片思いであれば、図書室の蔵書を隅から隅までからひっくり返してでも恋愛成就の呪文をさがさなければならないと思っている。
「うまくいったら話してあげる」
アーシュラの視線にビビアンは少し痛みを抱えたように苦笑いをした。
「そう。ビビアンでもうまくいかない人間関係なんてあるのね」
「あら、アーシュラが人間関係のことで悩むなんて」
「わたしもちょっとサイファ様のことで悩んでいて。せっかく手助けしてくださる方がいるのに、その人になにもお礼ができないのがつらい。お金なんてわたしよりずっと持っていらっしゃる方だし、わたしもそれについてはまったく力になれないでしょう。でもそうしたらどうやってお礼の気持ちを示したらいいのかしらって」
「アーシュラ……」
ビビアンはアーシュラを見つめた。その視線には驚きが混ざっていた。
「わたし、今までそんなこと考えたこともないから……変かな。余計なお世話なのかもしれないと思うのよ」
「アーシュラがそんなこと言うなんて」
「どういうこと?」
「あまりアーシュラって他人について興味を持たないように思っていたから。私なんか太刀打ちできないくらい魔術については優秀だけど、学校の中では浮いているよね。自分で言うのもなんだけど友達といえるのは私くらいだし……。一人でいても不自由ないんだなって思っていたから、こんな風に誰かを気にするなんて思ってなかった」
「そんなふうに見えていたのかしら」
確かに図書館に入りびたりで、友人とどこかに遊びに行ったりすることはあまりなかった。それは自分としては苦もなく自然なことだったが、ある意味で異端だったのだなあと初めて気がつく。
「自分をちゃんと持っているアーシュラは凄いと思うけど、そうやって他人と関わろうとするアーシュラも自然だと思う」
余計なお世話なんてことは無い、とビビアンは言い切った。
「恋愛とかそういうことだけじゃなく、好意を示されて嬉しくない人はいないと思う。何か考えましょう」
アーシュラはビビアンの言葉に励まされつつも、先日の失敗してしまった料理について語った。それを聞いたビビアンは呆れるかと思ったが、最後に短く笑っただけで、明るい顔で言った。
「しかたないわ。慣れないことをすれば失敗するのはあたりまえだもの。でもくじけてそこで諦めちゃったらそれ以上は無いと思うの。できることからもう一度やっていきましょう」
アーシュラにはビビアンのその前向きさが救いだ。でもアーシュラ自身は今までの人間関係が薄すぎて、経験といえるものがない。前向きになれば少しでも前進するのだろうかと明るく考えることはできないままだ。それでもビビアンがついていることで勇気と言うものは沸いて出た。
「とりあえず、料理は簡単なものをつくれるか考えて見ましょうよ。料理人がいなくて、バージェス侯爵様が厨房への出入りを自由にしているのなら逆にチャンスですもの」
肉を切る、パンを切る以上に簡単なことがあるのかは二人とも疑問には思っていたが、それでもアーシュラは口にしなかった。人が努力するためには希望が必要である。
「それでバージェス侯爵というのはアーシュラからみてどんな人物なの?」
「多分……変わっていらっしゃるわ」
「……アーシュラに言われると、アーシュラに磨きをかけて変人なのかそれとも逆に普通の人なのかが迷うところね……」
ビビアンは日ごろのアーシュラを知るだけに悩んでいるようだ。
「ともかく次にくるときにはなにか料理の本を探して持ってくるわ」
アーシュラがそんなものを持っているはずがないということを理解しているビビアンはそう続けた。そのあとは二人でもうすぐはじまる新学期のことなどを話しているうちに時間が過ぎ、ビビアンは帰る時刻になった。
ビビアンを門まで見送ってから、アーシュラは敷地内の散歩もかねて屋敷に戻ることにした。