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使用人がそろって出て行くところに鉢合わせした挙句、最近命を狙われている侯爵が実際に命を落としかけたところを目撃したが、アーシュラはそれなりに落ち着いていた。サイファを自室に送り、様子を見てきたジュードは、休むこともなくアーシュラの留まる部屋の準備をして、案内してくれた。この広い屋敷にジュードだけでは確かに手が回らないだろう。
ジュードはアーシュラのトランクを軽々と持ち上げた。相当量の荷物が入っているはずだが彼は両手に下げてすたすたと歩いていってしまう。最低限の礼儀は忘れていないが、あまり優しさを感じないのはジュードの性格によるものか、それともアーシュラが、嫌われているのか。
でも好かれる理由もあまりないわね、と納得したアーシュラはおとなしく無言でついていった。
その後血まみれのアーシュラを見て、ジュードは浴室の準備をしてきますと、少し疲れを滲ませていった。
手伝えるものなら手伝いたいアーシュラだが、自分がしゃしゃりでたところで足をひっぱるだけだということはよくわかっているので、おとなしく通された離れで待っていた。
広い敷地内の回廊をいくつか渡った先に、その離れはあった。離れといっても目の前には花に囲まれた品のいい池があり、窓から見渡すことができる景観に優れた客間だ。調度品も趣味のよさを伺える立派なもので統一されていた。
「バージェス侯爵様がいい人で本当に良かったわ」
アーシュラは一人呟きながら、トランクから荷物を出した。
あとは一晩と言うのをなんとか引き伸ばす算段をしなければ。
しかし、気になるのは使用人が皆出て行ったという事実だ。残っているのはジュードだけらしい。彼はこの屋敷を取り仕切り、かつサイファの秘書のようなことまでやっている。少しだけアーシュラへの態度は和らいだが、あまり感じのよい人間ではない。
「疲れているからあんなに愛想がないのかしら。でも自分の主人に対してもあの態度ですものね。誰に対してもきっとああなんだわ」
しばらくそんなことを考えていたが、アーシュラはふっと短いため息をついた。そのまますとんと床に腰を下ろす。汚れた服でソファに座るのは気が引けた。そのまま床に深く埋め込まれてしまうのではないかという勢いで身を小さく丸めた。
お父様はどうしてわたしに何も残してくださらなかったのかしら。遺産も研究成果も、そして言葉一つも。
いまさら泣きはしないが、アーシュラも理不尽を感じてはいる。
母親と父親は信じられないくらいの年の差があったが、母親が彼に一目惚れして押して押して結婚したらしい。もちろんウィルクスランド家は当時資産家だったので口さがない人々から財産目当てと言われたらしいが、母親はそんな外野の言葉など気にしたりしなかった。ただ、素直に父親を好きだったし、おそらく父親も彼女を愛していた。
何かが変わったのは、母親が流行り病で急死してからだ。
グレッグ・ウィルクスランドは幼い娘を執事と乳母に預けて、自分は研究に没頭し家に帰らなくなった。
死と一緒に彼は正気まで失ってしまうほど妻を愛していたのだと思う。そして妻ほど娘には注意も愛情も向けなかったのだと。今はそれを冷静に受け止めているが、しかし寂しさはアーシュラの心の中で自身の影のように離れず付きまとっていた。
「まあでも、お父様も悪い人ではなかったわ。きっと」
そんな他人行儀な感想でごまかそうとするあたりがまだ彼女の父親にこだわっている部分だが、それでもなんとか前向きに生きようと思っているのは確かだ。
また、気合を入れて立ち上がってトランクの整理を終わらせると、すでに客間はとっぷりと暮れていた。
ちょうどその時に、ジュードが浴室の準備ができたと呼びに来た。着替えを用意しようとしたアーシュラを制して、ジュードはそのまま彼女を離れの浴室に案内した。
疑問を感じながら身の汚れを落として出てきたアーシュラは、出たところに置かれていた衣類にぎょっとした。
真新しく、高価なことが一目でわかるドレスが用意されていたからだ。
浴室も空恐ろしさを覚えるほどに広かった。本来ならば、使用人が寄ってたかって体を洗い、服を着せてくれる場所なのだろう。
しかし完璧な没落貴族のアーシュラは自分でやることに慣れている。
アーシュラの汚れた服はどこかに持ち去られていたので、とりあえずそれを着るしかない。彼女はもそもそとそれを着込むと浴室を出た。しかしそこにはジュードの姿はなかった。さすがにアーシュラが出てくるのを待つほど彼は暇ではないのだろう。
「……とりあえず、なんだかサイファ様にお礼を言ったほうが良いような気はするわね」
アーシュラはしっとりとした着心地のその布地をつまんでから呟いた。家が没落していなかった時分にも着たことがないような高級な素材だ。
「こういうのを豚に真珠っていうのねきっと。こんな高価なものを着せていただいても、ご期待に沿える気はまったくしないわ。発禁モノの暗黒魔術の本でも頂けたなら、立派に習得して一発ドカンとお役に立ってみせるんですけど」
アーシュラはまたしても物騒な事を呟きながら、バージェス侯爵邸の本館のほうに向かって回廊を歩いていった。
「それにそろそろおなかがすいたわ」
アーシュラはそこで思案する。
バージェス侯爵様は今日ここにいることは許してくれた。しかし使用人がいなければ食事については不自由があるはずだ。でもそれは彼自身も同じこと。
「侯爵様も夕飯はどうなさるのかしら。あの不機嫌そうなジュードが作るのかしら?」
もう一度屋敷に戻ると、そこは先ほどよりさらにしんと静まり返っていた。無数の蝋燭が灯され、影が揺らめいている。回廊はすぐにさきほどのエントランスに繋がっている。蝋の落ち方からしてかなり前に灯されたもののようだ。
「もったいないけど贅沢ねえ」
香料まで入った蝋燭はアーシュラの歩みにあわせてその濃さを変えた。どこか異国情緒のある甘い香りである。
「どなたかいませんか?」
エントランスを過ぎても誰も出会わない。蝋燭は一つの通路を選んで置かれていた。とすればこの先に誰かがいるのであろう。
アーシュラが進んでいくと、ようやくそこに人の気配を感じた。扉は閉ざされていたが、内側から扉の下の隙間に光が漏れゆらゆらと影を動かしている。その扉を叩いてみると、あっさりサイファの声で返事が帰ってきた。
「失礼します」
そういって扉を開けると、執務机に向かって座っているサイファがこちらを向いた。
今は寝巻きではなく普通の服を着ている。無個性だが、伯爵として相応のものだろう。しかしその着方は、けして上品ではなく、着て楽なようにずいぶんと着崩されていた。綺麗な黒髪も無造作に括られている。
「……なんだ、使いに出しているジュードが戻ってきたのかと思ったのだ。そうだな、こんなに早く戻ってくるはずもないな」
そしてサイファは立ち上がった。
最初の寝巻き姿には仰天させられたが、こうしてみれば、彼は実に堂々とした美丈夫だった。先ほど死に掛けたとは思えないしっかりとした足取りでこちらにやってくる。
「バージェス侯爵様、お具合はもうよろしいのですか?」
「ああ。ジュードが出かける前にさらに魔術を使ってくれたからな」
アーシュラの目の前まで来ると、彼はすいと跪いた。アーシュラの手をとると恭しく自身の唇を触れさせた。
伏した目はうつむいた瞬間にはらりと落ちた艶やかな黒髪の下に垣間見えた。その目の黄金が、探るような上目遣いになってアーシュラに向けられた。
「アーシュラ・ウィルクスランド伯爵。感謝する。ジュードから貴女が俺を助けてくれたと聞いた」
「そんな……お気遣いなど無用です」
「いいや。ジュードだけではここまで回復が早くなかっただろう。その隙をつかれて再び襲われていたらもう避けようがなかった」
そしてサイファは立ち上がった。
「せめてもと思って、先ほど急いで仕立て屋を呼んでとりいそぎある服を届けてもらった。明日にはきちんと採寸をしていくつか用立てるといい。だめになってしまった制服は注文して置いた。それらは俺からの感謝のしるしだ」
「まあ、そんなことをされては困ります」
「良いんだ。それに行き先がないのなら、屋敷にいるのも仕方あるまい。しかしこちらの事情に巻き込まれないためにも、なるべく早く寄宿先をさがしてやろう。それに俺のことも、バージェス侯爵ではなくサイファで結構」
「いいんです。だって、わたしも、アレの呪文を実験……あわわ、実地で行うのは初めてでしたもの。わたしのほうこそ感謝しなければ」
一瞬の間があった。
「……何?」
「理屈として、高位の治癒呪文を時間をかけて構築するより、低位の呪文を重複するほうが、ある種の怪我には有効ではないかと思っていましたの。でもわたしもまだ見習いですらありませんから、実際に試す機会に恵まれなくて」
アーシュラはサイファの両手をぎゅっと握った。満面の笑顔で言う。
「サイファ様は、わたしの成績を見て凡庸だとおっしゃったでしょう?あれ個々をもうちょっとよく見てくださいな。ほとんどは最優秀なんです。でもさっぱり興味のもてなかった治癒系呪文が連続赤点追試三回及第ぎりぎり通過で評価平均の足をひっぱっていたんです」
確かに今までのアーシュラの才能をみれば成績書こそが一面に過ぎなかったということはサイファも知り尽くしている。
「口だけじゃないんですよ。わたし、本当にお父様に似て天才なんです」
「ここは自慢するべきところなのか……?」
「ですから、実際に自分の予想を試すことができて嬉しかったです。わたしの方がお礼を申し上げなきゃ!これで論文が一本書けます。治癒系の単位が来年も無事に取れそうです!あら?」
サイファに手を振り払われて、アーシュラは首を傾げた。
「えーと、貴様は、俺を実験台に?」
「まあサイファ様、『貴様』なんてよそよそしい。アーシュラって呼んでくださいな!」
「今俺は、アーシュラとおもいきりよそよそしい関係になりたい気持ちでいっぱいだ」
なにか見たことのない珍獣を見るまなざしで、サイファはアーシュラを見つめる。
「お前本当に、十六の娘なのか?まさか中にグレッグ・ウィルクスランドが入ってたりしないだろうな?」
「いたら、わたしはもっと天才です」
「なぜ威張る?……ああ、俺はどうして『もうちょっとこの屋敷にいていい』なんて口走ってしまったんだろう」
「発言の撤回は男らしくありませんよ?勘弁してくださいね」
サイファは額を手で押さえてしばらくうつむいていた。それから意を決したように言う。
「過程はどうあれ結果は俺にとってはありがたかった」
「サイファ様、物事には過程も大切ですのよ」
「俺の譲歩を台無しにするな。とにかく俺は結果については感謝する。物事の明るい面を見ると言うことは大切だ」
「はい!わたしも同意見です。サイファ様とは仲良くできそうです!」
「そうか。その時は、俺は俺でいられるのかちょっと不安だな」
ともかくありがとう、とサイファは短い言葉で礼を言った。
その時、アーシュラのお腹が絶妙なタイミングで鳴った。
「まあ、お恥ずかしい」
「……そうか、恥ずかしいという自意識はあるのか……なによりだ……」
小声のサイファの呟きは届かなかった。アーシュラは続ける。
「侯爵様は晩餐をどうなさるのでしょうか」
「もうそんな時間か」
サイファは外の暗闇を見た。
「深夜になればジュードが帰ってくるだろう。その時になれば何か持ち帰ってくるはずだ」
あまり彼は食に対する執着は無いらしい。しかしアーシュラとしては実に残念な報告である。
「深夜……ですか」
アーシュラががっかりしていることは、その一言からサイファも察する。
「……厨房にいけば、なにかしら食べるものはあると思うが、俺はそこに足を踏み入れたこともない。なにせ料理人も出て行ったようだから」
「わたし、勝手に入ってもよろしいでしょうか?」
「なにか探してみるのか」
「ええ。よければ侯爵様の分もご用意します」
「ああ、なら頼む」
サイファもそれなりに空腹状態であったのだろう、アーシュラの申し出には素直に頷いた。その反応に気を良くして、アーシュラは教えてもらった通路を目指してサイファの執務室を出て行こうとしたが、ふと足を止めた。振り返って問う。
「どうして使用人達は出て行ったんですか?」
「ああ、この屋敷、幽霊がでるんだ」
サイファはにやっと笑った。
「怖いか?」
「……いいえ」
一瞬つくってしまった間は不自然ではなかったとアーシュラは内心の焦りを押し殺し、淡々と続けた。
「サイファ様は信じていらっしゃるんですか?幽霊なんて馬鹿馬鹿しいもの」
「そんなところまで父親譲りだな……、グレッグも『全てこの世と言うのは道理で説明できるものだ』とか言っていた」
サイファは間違いなく父親の友人であったとアーシュラは感じた。
葬儀に来た親族や自称友人とは違う。そうと言葉にしては言わないが、サイファが語る父親のグレッグのことには、一つ一つに親しみと懐かしさ、そして彼が失われたことへの寂寥感が漂っている。どう考えても変な人だが、考えてみればグレッグ・ウィルクスランドも変人だったのだから間違いなく友人関係としては妥当だ。
「サイファ様」
アーシュラはそこだけは礼を失わず素直に言おうと思った。
「申し上げるのが遅れまして大変失礼しました。生前は、父がお世話になりました。ありがとうございます」
アーシュラが素直に頭をさげると、彼は何か後ろめたいことでもあるかのよう瞳に苦さを走らせた。アーシュラは気がつかぬまま顔をあげ、そのままするりと扉の外に出て行ってしまった。