15
剣を震える手でつかみなおしたサイファが彼に駆け寄る。
「ジュード!どうしたんだこれは!」
抱きかかえられたジュードはひどい有りさまだった。服はあちこち裂け、そこから見える深い傷からは血が溢れている。
彼は呻いていて息はあるようだったが、意識が朦朧としている。
「サイファ様!」
「アーシュラは治癒術を使えるか」
「ごめんなさい!わたしこんな大怪我は治せる自信がありません。多分内臓に損傷があります。それは複雑な術が必要です。わたし、お医者様を呼んできます!」
「頼む……ああいや、ダメだ!これは罠かもしれない。アーシュラまで襲われたら大変だ」
「でも!」
このときほど屋敷に人がいないということを悔しく思ったことは無い。サイファはでられないのだ。そして他者を呼ぶ手段は無い。
ジュードが呻いた。うっすらと目を開く。アーシュラを見ると苦しそうに表情をゆがめた。ゆっくりと手を上げ。
そしてアーシュラを指差した。
「……」
何か言いかけたようだったがそのままふうっと気を失ってしまった。
「おいジュード!」
「……サイファ様」
アーシュラはジュードの脇に座り込んだ。今の指を差した意味はわからない。アーシュラとはあまり仲がよくない彼にそうされるとまるで糾弾されたような気持ちになる。ジュードの真意を恐れつつアーシュラはポケットから禍石を出した。
「なんとかできることをします」
「アーシュラ」
「わたし、本当に治癒系が苦手なんです。もっとちゃんと学んでおけばよかった」
「でも俺を助けただろう」
「だから低位の呪文でも治せる手段なんです。ごまかしているだけなんです」
体内の水をつかさどりひいては細胞を支配するウンディーネの禍石をアーシュラはジュードの最も深い傷口の近くに置いた。
「『ウンディーネ、マーストリヒシア。定まらぬ揺らぎの姫……』」
好きでないことは敬遠していた自分を呪いたいような気持ちだ。
「アーシュラ」
サイファの低い声は祈るようなものだった。
「頼む、ジュードを助けてくれ」
多分、興味を持てなかったのは父親のこともあるのだろう。父親は人体に詳しく、それゆえ治癒呪文を最も得意としていた。関係ないという顔をしながらもアーシュラはずっとその彼に対してわだかまりがあったのかもしれない。
興味を持たないふりして、手をつけず、だからこそ彼に追いつきもしなかったが追いつけないという事実とも向き合わなかった。
……なんて卑怯なのかしら、わたし。こんなことではだめだ。
アーシュラは内心で呟いた。
自覚をするということは打ちのめされること。
だが、その先にある『困難に立ち向かう』という気力は、自覚無しには生まれない。
「『豊穣の髪を我に梳かす術を与えたまえ、艶やかな光を持って我に恩寵を』」
アーシュラは教科書に書いてあった基本の呪文を唱え続けた。それでは追いつかないはずの傷口がじわじわとふさがり始める。アーシュラがウンディーネの禍石を限界まで引き出している証拠だ。少なくとも血が止まればその先を期待できる。朝になればアーシュラがもっと治癒術に詳しい人間を呼びにいくことも可能だろう。
集中しすぎて頭が痛い。額から汗が一つ落ちた。だが残念なことに一歩及ばず、ジュードの出血は止まらない。
「……せめて、魔術書があれば」
アーシュラは無念をこめて呟いた。
魔道の基本は、呪文の暗記だ。呪文は禍石の魔力を引き出すために必要な媒介である。基本的には呪文は暗記して我が物としていなければならない。本を読みながらでは集中力が落ち、魔力を引き出す効果が薄れる。
それでも今アーシュラが唱えている低位の呪文よりは、高位の呪文を読みながらでも唱えたほうがはるかに効果が得られるだろう。今のアーシュラの呪文ではジュードの重篤な状態に対しては追いつかない。
しかしそれほどに高位の呪文が記された魔道書をアーシュラは持っていなかった。おそらくサイファも持っていないのだろう……彼にはまったく必要のないものだから。
ジュードの部屋に行けば見つかるかもしれないが、アーシュラは手を放せないし、魔道を扱わないサイファでは呪文の難易度もわかるまい。
「……待っていろ」
しかしサイファは低い声で言った。そして床を蹴るような勢いでどこかに走っていった。その行方を目で追いたかったアーシュラだが、ジュードの治癒に手が放せない。ふと気を緩めれば、すぐに血は溢れてくる。
「アーシュラ!」
サイファはすぐに戻ってきた。その手には立派な装丁の分厚い書籍があった。
「これでいいのか?」
アーシュラの前の床にページを開いて差し出した。
「サイファ様、こんなものをどうして……?」
アーシュラすら見たことのない高位の呪文が載せられた書物だった。しかも治癒系に特化した専門書だ。
「目次を!」
アーシュラは叫んだ。慌ててサイファが書物の前の方のページを開く。目次をざっと見渡したアーシュラは、特定のページを開けるように示した。
「ああ。あった……」
アーシュラは今度はジュードの首飾りを服の中から引き出した。この屋敷に来た日に一度見たきりだったが、ジュードの禍石の首飾りにはなかなか価値の高い禍石が集められていることを覚えている。
「ジュード、借りますよ!」
アーシュラはその一つを外し、手の中に置いた。
「『ウンディーネ、アルビア』」
たどたどしく、書物の呪文を読み始める。高位のものだけあって、尋常でなく呪文が長い。
「『露の一滴、雪の一片、赤の一筋、積もりて大河、流れて歴史』」
「『失せて無常、深き森の根に住まうは芽』」
「『果ての水盤、姿を見るを適わず、影のみ揺らぐ』」
しかし、その一節一節が読みあげられる程に、ジュードの身体は目に見えて回復を見せ始めた。血が止まり、内出血痕が薄れ、血の巡りがよくなり、苦悶の表情が和らぎ始める。
「ああ、すごい」
アーシュラは今まで自分が興味を持たなかった世界にあるその奇跡を見つめていた。そしてその先を更に見たいという気持ちに駆られ、呪文の先を進める。
正直今のアーシュラにとっては荷の重い呪文だ。時折間違えたりもしたが、必死でやり直し、集中して構築を崩さないように勤める。
全て読みきったときには、ジュードの怪我は薄まり彼の落ち着いた呼吸が聞こえ始めていたが、逆にアーシュラは朦朧として今にも伏してしまいそうだった。夜明けの光がホールに差し込み始める。
「アーシュラ」
サイファが声をかけたのはそんな時だった。
「実は、一つ言っていないことがある」
「え?」
アーシュラが彼を向くとサイファはその視線に戸惑ったようだった。
「俺は」
その時だった、急に正面玄関の扉が激しく叩かれた。
「恐れ入ります!」
外から聞こえたその声はアーシュラも聞き馴染んだものだった。
「カイル?」
アーシュラは立ち上がった。それからはっと気がついてサイファを見た。
「あの……多分わたしの知人だと思うんです。でもどうしてこんな朝早くに……」
「俺がこの時間にしか起きていないと知っているからか?」
「ああでもカイルなら治癒術もわたしよりずっと得意だわ!サイファ様、彼に助けてもらってもいいでしょうか」
「いや……」
サイファは言葉を濁した。
「いや、やめよう。ジュードが何かに巻き込まれたとして、君の知人までそれに関わらせるのは気が進まない」
「あ……」
「大丈夫、アーシュラの力で大分ジュードは落ち着いた」
そしてサイファは扉に向かっていった。
「少々立て込んでいる、しばし待たれよ!」
この場の混乱などみじんも感じさせない朗々とした声だった。扉を叩く音が止む。
「アーシュラ、少し力をかしてくれ。ジュードをとりあえず一番近い部屋に運ぶ」
「あ、はい」
屈強な体を持つサイファでも男を一人担ぐのは難しい。ジュードは怪我こそ治ったものの、深く眠り込んでしまっている。二人掛かりでなんとか一番近い客間の寝台に横たわらせることができた。
そのままサイファは着替えるためにほとんど走るようにして自室に戻った。アーシュラも、高位の呪文の本を閉じて、ホールの隅に隠そうとした。
その時、ふいに開いたページに、アーシュラは不思議なものを見つけた。
見慣れた文字。
書籍に思いつきでも記したのか、走り書きのそれは、アーシュラの父のグレッグのものだった。
……これはお父様の魔術書?
アーシュラは目を見開いた。
なぜこれがここに。
「お開けください」
考えるより先に、また外の声が大きくなった。アーシュラはとりあえず魔術書を閉じホールの目に付かない場所に置いた。そして扉を開ける。
「あ」
アーシュラを見てカイルは驚いたようだった。
「アーシュラ、起きていたのか」
「ええ」
「そうか……実はバージェス公爵のことで大変なことがわかったんだ。それを問いただしにきたんだ」
「まあ」
カイルは大分焦っているようだった。走ってきたのか息が切れている。
サイファはああ言ったがアーシュラとしては心配だ。ジュードの怪我を彼に見てもらえたらこれほど心強いことは無い。
サイファが来る前に切り出そうかと思ったアーシュラだがカイルが続けていった言葉にぎょっとする。
「バージェス公爵は、君のお父さんの研究を極秘に持っている」
「……えっ?」
「本当は君には聞かせたくなかった。でも起きているなら仕方ない……」
「極秘に持っているって」
「……それは語弊があるぞ。カイル・オルセン君」
いつの間にかホールにはサイファが戻ってきていた。先ほどまでのだらしなくそして血に汚れた寝巻き姿ではない。客人を迎えるきちんとした身支度だった。
「サイファ様」
アーシュラは二人の間で顔を見比べた。
カイルはサイファを親の仇のように睨んでいるし、サイファもカイルに向ける視線は鋭い。
「アーシュラ」
サイファはアーシュラにも声をかけた。
「いつか言おうと思っていた。ちょうど良い機会だ。一緒に話をしよう。オルセン君も来るが良い」
「……そんな」
アーシュラはカイルの顔を見上げた。
サイファのことは変わり者だと思うし不幸な人だと思う。だが悪い人ではないと思い始めたところでの糾弾だった。アーシュラは混乱する。
「アーシュラ、行こう」
カイルがアーシュラの肩を押すようにして歩き始めた。
サイファが起きて二人で牛肉の煮込みを食べて……そこまでは平和な始まりだったのにどうして今日はこんなことになってしまったのだろう。
アーシュラは力ない足取りでカイルに導かれるようにしてサイファの書斎に足を踏み入れた。先に待っていたサイファが二人を見つめる。
散らかっている書斎、その中央にサイファは立っていた。
「これはグレッグの残した貴重な魔術書と……そして彼の研究成果だ」
サイファは自分の執務机の横に無造作に置かれた三つの木の箱を示した。それはアーシュラが来たその日からあったものだ。
アーシュラはもちろんだが、カイルもぎょっとしたようにそれを凝視した。
「すまなかったアーシュラ」
サイファはアーシュラをまっすぐに見つめられないままだった。
「グレッグから、頼まれていたんだ」
「なにをですか?」
「アーシュラの才能は彼自身も認めていた。でも性格は彼自身にもわからなかったんだ。だから俺にアーシュラを見て、これを託せる相手だったら渡して欲しいと。もし不相応ならば、これは相応しい誰かを探してほしいといったんだ」
アーシュラは今まであまり揺れ動くことのなかった自分の感情が、激しい波として心の壁にぶつかっているのを感じた。壁を壊して荒ぶるなにかが出てきてしまいそうだ。
「お父様は、わたしを信頼もしていなかったし、娘としても理解していなかったんですね。まったくの他人に判断を委ねるなんて」
「アーシュラ……」
カイルが近づいて気の毒そうにアーシュラの肩を抱こうとした時、サイファは言葉を続けた。
「俺だって思ったよ。でも、父親のくせにと言ったら『父親だからこそ、欲目がありすぎて何も見えないんだ。アーシュラが愛し過ぎる』と返してきた」
アーシュラは泣かない。
しかし彼女は喉の奥でこわばるものを感じながらサイファを見つめた。あまりにもいろいろな事実がいきなり出てきて感情を整理できない。サイファも今度はしっかりと見つめ返してきた。
「誰が使うにしても、これは君のための研究なんだよ、アーシュラ」
「どういうことですか?」
「その前にこれを」
サイファはふいに自分の左の拳をアーシュラに向かって差し出した。そこにはもうすでに見慣れた、まるで人骨のように乾いた白い石の嵌った指輪がある。
「なんだかわかるか?」
「指輪……いいえ」
アーシュラは意識して凝視したそれの正体に気がついて息を飲んだ。
「禍石?いいえ、それにしては魔力の質に方向性がないわ、魔力自体はかなり内包しているみたいだけど……」
「これは、俺の指の骨に食い込んで取れないんだよ。いや、取らないがね。指輪は見るものに怪しまれないように装飾してあるだけだ」
指輪の石は、禍石でもなく、けれどただの宝石でもない。アーシュラはうっすらとその正体に気がつき始めていた。
「俺は、グレッグ・ウィルクスランド伯爵の研究の被検体なんだ」
「……そんな」
アーシュラは息を飲んだ。
「お父様がそんな、誰かを使うなんて」
「これは俺が望んだことだ。それに俺じゃなければできない」
「……それはもしかして、人骨を禍石とする装置ですか?」
カイルがグレッグの研究の手伝いをしていただけあって何かを思い出したのか口を挟んだ。
「そう。禍石から放出された魔力はけしてなくなるわけではなく、大気中に浮遊している。それをまた回収できないか、というのが彼の研究だ。数十年生きる人間の骨を媒介として魔力をこの石に集積していくのが彼の研究だった。問題はまだ実用化どころか完成すらしていないことだ。誰かで試したくても問題がある」
「魔術の才がある人間を使えば、その人の魔力と反応して何が起きるかわかりませんよね。だからサイファ様が選ばれたのですか?」
察しのいいアーシュラに、サイファは安堵したようだった。
「そう。俺にしかできないだろう?」
「でもそれがどうしてわたしのためなんて。わたしは魔術が使えます」
「そうだな。そして魔術の汎用化は進んでいる。俺もそれは願っている。いつか多くの人間が魔術の恩恵を受けることになる。でも……なあ、禍石は一体いつまであると思う?」
「えっ?」
そんなことはアーシュラは考えたこともなかった。カイルも急にでた突拍子もない想定の話に一瞬言葉を失う。
「俺もあと数百年は持つと思う、思っていた。でも使う人間が増え、そして使う量が増えればいつかは枯渇するんじゃないだろうか。その時に残った禍石を巡って争いが起きるかもしれない。それでも終わりが来れば、今まで魔力の恩恵を受けていた人間は、どうやってもとの不自由な生活に戻る?どうしたって、悲惨なことがおきそうじゃないか。グレッグはそう考えたんだ」
それでもアーシュラには理解することができない。父親は何を望んでそんな研究に手を出したのか。
「俺は一字一句覚えている。グレッグが酒を飲んで一度だけ吐露した心情を」
アーシュラ、と呼びかけるサイファの声は、グレッグの言葉を正確に伝える使命を帯びて悲しいまでに真摯だった。
「『ステラが子どもを残してくれて、自分は未来が急に怖くなった。アーシュラは可愛い。アーシュラの子どももきっと可愛いだろう、その更に先の子孫もすべて思うだけで愛しい。でも未来に俺は一体何を残せるんだろう。今まで考えてそして評価されたのは便利さと破壊の呪文だけだ。そんなことだけの為に俺の才能はあったわけじゃない、アーシュラを見て俺は初めて未来を考えた』。そう言った」
アーシュラはしばらく声が出なかった。
伯爵家の資産などなくても、魔術の才があるアーシュラはたくましく生きていける。そのための協力者としてサイファを選んだ。サイファ・バージェス侯爵は娘のことは託すに値する存在だと認めて。
そして娘を信じた先に、彼が伯爵家を投げ打って全ての力を向けたのなら。
「お父様は愚かです」
アーシュラは呟く。
「未来を考えることはできても、娘の気持ちを見ることはできなかった。せめて見ようとしてくれたら、わたしももう少しお父様を許せたのに」
サイファの表情が曇る。アーシュラは父を許さないのだろうかと彼は怯えている。
アーシュラは思い出していた。
夏の始まりに、父と母とアーシュラでピクニックにいった時のことを。
あの時、父が母に何かについて、ありがとうと言っていたのだった。その言葉をアーシュラは今まで思い出すことができなかった。しかし今、サイファの言葉に触発されたかのように明瞭に甦った。
『ステラ、俺に家族という未来をくれてありがとう』
……父は、妻と娘という大事なものを持って、ようやく自身の研究に……過ごしてきた過去に意味を持てたのね。
父の見た未来はさすが天才だけあって、はるか彼方までのものだったけど。
アーシュラは呆れながら、不安そうな顔のサイファに言った。
「でも、今の言葉でわたしは父の信じた未来を信じます」
親というものは子どもに対してなんらかの形で愚かさを持ち合わせてしまうのかもしれない。彼の場合はちょっと方向性がおかしくて、奇妙な形となったが、なぜかアーシュラは父親を認めた。形はおかしいが、彼が娘のためにできる限りの力を尽くしたということは変わらない。するりと胃の底の重いものが溶けていく。
アーシュラの穏やかな言葉にサイファは安堵したように頷いた。
「いつか君がこの研究を引き継ぐのなら、俺はそれを支持する。この箱にはもちろん彼の見つけた未発表の新しい呪文についても多く記されている。そういったものを上手に捌いていけば資金も得られるだろう。グレッグですら完成できなかった研究だ。きっと道は遠い」
「知ってます」
アーシュラは微笑んだ。
「でも大丈夫です。わたしは天才の娘ですから」
サイファはそれに笑顔を返そうとしてうまくできないようだった。それでも精一杯言う。
「そうだな」
それではあまりに言葉が少ないと思ったのかサイファはまた続きを足そうとした。その時。カイルが口を挟んだ。




