その6・握り拳は胸の前が定位置
「ヴィクターどうした、朝から変だぞ。」
ベンがそのぽってりした腹を俺の机に乗せる。
視界が腹で覆われた。
「何が。」
「ずっとソワソワしてるだろ。何かあった?」
何か。今日は芸術の選択授業がある。
「俺は別に普通だ。」
変に身構えているのか、アナスタシアさんはいつにも増して近寄りがたい雰囲気だがな。
失敗しないだろうか。また緑辺りに、やいやい言われやしないだろうか。
そしたら、またあの泣き顔が────
「おーいヴィクター。聞いてるか?」
「ん、なんだ。」
「ボーッとしてるけど本当に大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。」
あの表情を思い出すとなんだか変な気分になるな。ベンの腹でも思い出して気を落ち着けよう。
「大丈夫じゃないだろ。次教室移動だけど。行かないの?」
「え! 教室移動?!」
もう?!
「何驚いてんだよ。俺は行くからな。」
音楽選択のベンは俺を置いてさっさと行った。
もう芸術の時間かよ………全然気づかなかった。
さっきの時間も、授業が始まってから筆記用具を紛失したことに気づいたが他人に借りることをしないアナスタシアさんが授業中にメモを取れず、教員に当てられた時の為に必死で話の内容を記憶しようとしてるのをハラハラ見てたら授業が終わっていた。
因みに結局当てられて答えられたのだが、他の生徒からは覚えられるからってメモを取らないイヤミな奴みたいに後で言われていて腹が立った。が、こうやってアナスタシアさんの高飛車悪役令嬢イメージが出来上がって行くんだなと妙に納得もした。噂が人を作るのだ。
美術室に着くとアナスタシアさんは既に着席していた。というか俺が最後だったので全員着席済だ。
チラリと見ると彼女はこちらに向けて決意表明なのか握り拳を作って見せた。なんだそれ可愛いな。
「痛っ。」
見ていたら進行方向にあった椅子の角に脛をぶつけた。彼女は手で口元を隠して小刻みに震えている。俺を笑っているな?
もっと面白いことでもして盛大に笑わせてやろうかとも思ったが公衆の面前でそんなことをしたら俺が社会的に死ぬし彼女にも凄く怒られそうなのでやめた。
くだらないことを考えているうちに授業が始まって終わり、とうとうアナスタシアさんのチャレンジタイムがやってきた。
「少し宜しいかしら。」
丁度席を立ちかけた殿下と橙のもとへツカツカと歩み寄る。
アナスタシアさん! 顔とセリフ! それ気に食わない女子をトイレに呼び出す時のやつ!
「何だ? 火急の要件か?」
ほら………その顔で行くから殿下が思い切り壁作ってるじゃねーか…
重要な話じゃなければもう行っていいですか的な空気を作ってるじゃねーか……
「……宜しかったら、お昼をご一緒したいのだけど。」
言った!
固く口を結びキリッとした表情は全くもってお昼に誘う表情じゃないが、胸元で握った拳は勇気を出して誘った風でポイント高いぞ! 俺的には!
「君はシェリーと折り合いが悪いだろう。居辛いのではないか?」
「そんなこと…」
いや、そもそもなんでシェリー嬢がお昼の固定メンバーでアナスタシアさんが外されているんだよ。
「わざわざ嫌いな相手と会うことはない。」
「わたくし嫌ってなど………!」
アナスタシアさんが叫びかけたところでネイトが間に入ってきた。
「まあまあ、いいじゃないか。女性が多い方が場も華やぐし。」
よし、いいぞネイト………。
少し女ったらしっぽいセリフが鼻に付くがナイスプレーだ。
「お前はアナスタシアが揉め事を起こすところに遭遇したことがないからそう言えるんだ。」
そういやネイトはこの前の昼もいなかったな。
こいつは友達も多いし、確か別の……体育会系の奴らとよく食べてる気がする。
他の色見本みたいにシェリー嬢にベタベタでもないし、ゲーム的に言うとまだ攻略されてないのかもしれない。
つーか殿下はアナスタシアさんをトラブルメーカーみたいに言っているが、トラブルをメークしてるのは主にお前の取り巻きだからな?
「アナスタシア様も歩み寄ろうとしてるんだ、揉めたりしないよ。な?」
「え、ええ。……ダメかしら?」
そう、それ! その上目遣い!
若干睨んでいるように見えるのが惜しいが及第点だ。
「……問題を起こさないなら別に構わない。」
よし、言質は取ったな!
問題児扱いなのが気になるが。
「じゃあ後でカフェテリアで。」
「ええ。」
殿下とネイトを見送って教室から人がいなくなると、アナスタシアさんはくるりとこちらを向き、盗み聞きする為に既に綺麗なパレットを無駄にずっと洗うフリをしていた俺のところに来た。
「やったわ、ヴィクター!」
「見てたよ、成功だな。」
普段はしないような弾んだ声で寄って来て両手をグーにしてブンブン振っている。
この人実は感情表現激しいのではないだろうか。
「今日は成功したら昼食の後出そうと思ってチョコレートを持って来たのだけど、無駄にならなくて良かったわ。」
餌付けする気満々だな。
「わたくしのお気に入りのチョコレートなの。ヴィクターにもあげるわ。」
そう言って高級そうな綺麗な紙の箱を俺の手に握らせた。
「あ、ありがとう。」
俺を餌付けしてどうするんだアナスタシアさん………!
「ではわたくし、行ってくるわ!」
「あぁ、頑張って。」
武運を祈る、と言いかけた。
次は黄色と緑がいるからな。