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over・the・in・the・world!!!

作者: 蒼理アオ




「―――ほう。ではキミは、友人たちと図書館で勉学に励んでいる最中に睡魔に襲われ、気づいたらあの場所にいた、と」

「ええ、まあ…」


 耳に心地いいテノールが先ほど話した内容を要約する。

 瓏衣は今しがた淹れてもらったコーヒーを啄むように飲みながら、目の前のキッチンに立つ彼の様子をうかがう。


「くわえて、もしかしたらここはキミがいた世界ではないかもしれない…」


 なぜか、どこか楽しそうに、まるで目の前の謎に翻弄されながらも真実を見出そうとする名探偵のように、肩ごしにこちらを見やる瞳は紅、揺れる髪は雪のように白い白髪。両方とも日本人どころか、外人にしたってまず見かけないものだ。

 名をカイナというらしいこの青年は珍しい髪色と瞳を持つだけでなく、さらに端整な顔立ちをしていた。

 涼しげな眼差しにスッと通った鼻筋。形のいい唇には常に笑みが浮かんでおり、素なのか意図的なのかはわからないが、その表情は常時優しい微笑みを絶やさない。間違いなく彼はさぞ女性にモテることだろう。


「信じらんねぇっすよね…」


 瓏衣は肩をすくめた。

 突然現れた見知らぬ人物が、あろうことか《私は異世界人です》と言い出したのだ。これが逆の立場でも相手の頭を疑わずにはいられない。

 自分としてもどうしてこのような状況になってしまっているのか。まったく頭が痛い。

 待ちに待ったゴールデンウイークに入ったはいいが、特別な何かが起きるわけもなく、いつも一緒にいる幼なじみから勉強会に誘われ、特にやることも無いので了承。

 したはいいがそれほどまじめな性格でもなかった瓏衣は、開始三十分ほどではやくも睡魔に意識を根こそぎかっさらわれた。

 そして不意に意識が浮上し、しまったと食いながら、きっとぷっくり顔を膨らませて拗ねているであろうかわいい幼なじみに謝ろうと顔を上げてみれば、目の前にあったのは図書館の机でなく、かわいい幼なじみのふくれっ面でもなく、そよ風が草木をそっと揺らす見知らぬ林道だった。

 意味が分からず途方に暮れていたところを、近くの村に買い出しに行った帰り道だというこの青年に拾われ、こうしてコーヒーをごちそうになりながら事の顛末を聞いてもらっていたというわけである。

 だが人生はそう甘くない。次にカイナのうちから発される言葉が瓏衣にとって優しいものだとは限らない。

 次の言葉が心にのしかかる前にお暇しようと、瓏衣はコーヒーを一気に飲み干してマグカップをテーブルに置いた。

 そして、謝罪と礼を述べようと席を立ちかけたその時、彼は再び振り返ってこう言ったのだ。


「いや、キミの言葉を信じよう」


 思わず、瓏衣は動きを止めていた。


「…え?」


 いま、なんて…?

 テーブルに手をついて、椅子から立ち上がった体勢のまま硬直し、彼の言葉を反芻していると、カイナが皿を手にこちらへ歩み寄ってきて、それからこちらと目を合わすや否やおかしそうに笑った。


「どうした。ずいぶん面白い顔をして固まっているな?」


 からかうようなそのセリフにどんな顔だと突っ込むよりも前に、問い詰めるべきは別の言葉だ。


「信じて、くれるんですか…?」

「では聞くが、キミは私に嘘をついているのか? さっきすぐそこの道で出会ったのも、こちらでは見慣れない服を着ているのも、たった今聞かせてくれた話も、全て出まかせのでたらめだと?」


 ためすような言葉と共に、カイナの纏う空気が少しだけ冷たくなった気がして、瓏衣は慌てて力の限り首を振った。ここで彼に頭のイカれた狂言者だと見限られることがなによりも怖かった。

 すると余りの勢いに、彼は首がちぎれるぞと苦笑交じりに茶化す。


「そうだろう? キミが嘘を言っていないなら、わざわざ私がキミの言葉を疑う必要はないさ。それに見たところキミはむやみに嘘をついて人をからかうオオカミ少年というわけでもなさそうだ」


 私も、多少驚いてはいるがね。と付け足す。

 それでも、信じると言ってもらえたことが嬉しくて、瓏衣は笑った。


「ありがとう、カイナ!」


 返事の代わりに彼は微笑んで返して、手に持った皿を瓏衣に差し出した。


「さあ、座って。落ち着いて、これでも食べるといい」


 静かに座りなおして目の前に置かれたのは、ガラスのような透明で涼しげな皿に盛られた白いなにか。瑞々しく光る光沢を纏ったそれは、一見すると果物のようであった。


「これは…?」


 答えを求めて正面に腰かけたカイナに問いかけると、彼はやはり紅の目を細めて微笑み、答えた。


「甘い肉を意味するカルチェという名の、木に実る やや大きめの木の実だ。甘くて美味いぞ。村の特産品で今が旬なんだが、この前村の人がたくさん取れたからといくつか実を分けてくれたんだ」

「甘い肉……?」


 率直にいうと、その言葉からおいしそうなイメージは湧かなかったが、どんな味がするのだろうという興味は湧いた。

 一緒に置かれたフォークを手に取り、手を合わせていただきますと呟いてから、こちらで言うところのリンゴのような切り方をされ、さらにそれを半分に切ったような形をしたカルチェを一切れ口に入れ、咀嚼してみた。


「あ、うまいやコレ……」


 一口噛んでみると、口内にじゅわりと甘い果汁が広がる。味と食感は桃に近いが、確かにとても柔らかい肉を噛み砕いているようでもあった。

 なるほど甘い肉の名の由来はそこにあったらしい。果物が好物である瓏衣にとっては嬉しい限りである。


「それはなによりだ。ところでルイ。さっきの行動はなんだ?」


 落ち着き払った雰囲気を漂わせていたカイナが若干食い気味で問いかけてくる。

 カルチェを食べ進めながら、瓏衣は彼がなにに疑問を持ったのか思い返した。


「さっきの……。ああ、いただきますのことか」

「イタダキマス、とはどういうことだ……?」


 知的好奇心が強いのか、たずねる彼の目は妙に輝いている。


「いただきますってのは、食べ物を育んでくれた全ての自然の恵みに感謝し、オレ達が生き長らえるためにその食べ物の命を謹んで、ありがたくいただいきますっていう意味を持った挨拶、かな……?」


 今までされたことのない質問だったためにうまく説明できた自信はないが、大まかには伝わったはずだ。

 さながら未知への探求に燃える研究者よろしく興味深そうにふむ、と呟いたカイナは腕と脚を組み、顎に手を添えて返す。


「牧師や修道女たちが行う神への祈りと同意義であり、ルイたちの場合は、祈りの対象が自然そのものである、といったところか……」

「たぶんそんな感じ……」

「ほぅ。興味深いな、ルイがいる世界は」


───なるほど。コレが日本に熱烈な興味を抱く外人の心境なわけか。


 外人たちの間で日本文化が大ブームになっている昨今。カイナが口にした疑問もまた、彼らが日本に魅せられた原因の一端と言えよう。

 それにしても、最初に顔を合わせたときは外見年齢に見合わず随分と落ち着いた印象を受けたものだが、かわいいところもあるじゃないか。


「それにしても、ホントにコレ美味しいな」

「気に入ったのならなによりだ」


 そう笑ってコーヒーをすすりながら、カイナは子を見守る親のように、温かな眼差しで瓏衣を見やる。

 そして、とあるイタズラ(冗談)を思いついた彼は、マグカップの影で口角を上げた。


「……ッフフ。やはりキミは、与しやすい単純な性質のようだ」

「は?」


 目の前にいるカイナが手にしていたマグカップを端に置き、肘をついて組んだ両手で口元を隠し、悪辣な笑い声をこぼし始めた。


「君は人がいいのだな。出会ったばかりで見ず知らずの人間が出した食べ物をなんの疑いもなく食すとは。いやいや、とんだ阿呆だ」


 ククク……、と彼はこらえ切れないという風に顔を伏せ、喉の奥で笑い続ける。声色は低くなり、さっきよりも冷たい。

 フォークを握る瓏衣の手が止まり、手元の皿に目をやる。

 なんの冗談だ。何を言っている?

 彼の言い方では、まるで……。


「カルチェの実には《猛毒が含まれている》から、人が食べることなど無い。それも、《一口大の大きさで致死量》ときているが、既にキミは半分以上平らげてしまっている。さて、死に至るまで、あとどれぐらいだろうな……?」


 組まれた手から見え隠れする口元がいびつに歪んでいた。楽しそうにこちらを眺める双眸はさっきまでと打って変わって闇に覆われ、冷たい氷のようだった。


 まさか、騙された───?


 狙われたその理由を考えているうちに、チリチリと喉が熱くなり、背筋と額をいやな汗が伝う。

正体を現した青年に恐怖したのか、それとも毒が回ってきた証拠だろうか。まるで鈍器で直接頭を叩かれているようにガンガンと動機が頭を叩いて、呼吸が乱れる。体が震える。

 とりあえず指を口に突っ込んで吐き出せれば……。そう考えるも、死が迫る恐怖に縛られた体はいうことをきかない。


「て、め……!」


 涙と汗で瞳が潤み、青年の姿がぼやける。

 まずい。まずいまずい。しまった。こわい。こわい。まだ。まだ死にたくない!


───ちくしょう……。なにこのイケメンこわい!?覚えてろよ……!!


 夢なら覚めてくれと、瓏衣は祈るように、縋るようにぐっと目を閉じた。


「お、おい今のは冗談だぞ!? 大丈夫か!?」


 まるで冷たくなった死人のように顔を青くし、本当に、今にも死んでしまいそうな瓏衣の様子にカルチェの実を喉に詰めたのかとも思ったが、それにしては様子がおかしい。驚きながらも、椅子を蹴り倒さん勢いで立ち上がったカイナは慌てて瓏衣のもとへ歩み寄り、背に手を添えてさする。


「え、……え……?」


 カイナの言葉を聞いた瓏衣は、再び動きを止めて目尻に涙を溜めた目で彼を見やる。


「だから、今の話は全部、ただの冗談だ。このカルチェの実には人体に有害な毒なんて含まれていない」


 いま水を用意しよう、とカイナは簡素なキッチンに駆けていく。

 ちょっと待ってほしい。ということは、自分は今、《ただの冗談を真に受けて、思い込みだけで死にかけた》というのか……?

 顔に熱が集中するのがわかった。羞恥に耐えかねた瓏衣は右手で顔を多い、現実から目を背けるように頭を伏せる。


───アホかよ……! いやアホだけども……!!


 自身に向けてありったけの罵倒を並べ立てていると、戻ってきたカイナが目の前に水を汲んだコップを差し出し、こちらを案じるも落ちた声色で大丈夫か……?と尋ねてくる。


「大丈夫、です……。ぜんぜん……」


 顔は手で覆ったまま小さな声で返すと、瓏衣はコップを引き寄せて二口ほど飲んでから、その冷たさで顔の熱を取り去ろうとする。

 困った。顔が上げられない…。


「その、驚かせてすまなかったな。あんまりおいしそうに食べてくれるものだから、つい魔が差したというか……」


 向かいへ座り直したカイナのバツの悪そうな謝罪に胸が痛んだ。

 彼は悪くない。他愛もない冗談をこれ以上ないくらいに真に受けたこちらが悪いのだ。

 しかし彼の演技もタチが悪い。あの顔はどう見ても悪巧みが成功し悦に入る悪役そのものだった。


「っくく……」


 恥ずかしすぎる失態に苦悩していると、不意に前から押し殺したような笑い声が耳に届く。

 犯人はわかりきっている。顔を上げると、軽く握った手を口元にあて、顔を背けているカイナの姿があった。

 気づかれまいと懸命に喉の奥で笑いを噛み殺しているが、肩が小刻みに揺れているので明白である。

 恨めしげな鋭い視線に気づいたカイナが振り向く。その目尻が若干湿っているのを見逃す瓏衣ではない。

 彼は破顔したまま壁代わりに左手を前に出して、


「まあ待て。いや……、すまない……! ……っ……くくっ……!」

「謝る気ゼロじゃねぇかっ!!」


 頭にきた瓏衣はテーブルの下にあるカイナの長い脚を足の甲でべしべしと蹴り上げる。


「わっ! 足クセ悪いな!? いやそれよりも暴れるな!」

「誰のせいだ! あ! 逃げるなこのっ!」


 瓏衣の攻撃から逃れるべく、カイナが席を立って後ろに下がると、まだ怒りがおさまらない瓏衣は立ち上がり追いかける。


「案外単純だなぁルイは!」

「ぶちのめす……!」


 それほど広くもないリビングを逃げ回りながら悪びれることなく笑うカイナ。脚の長さから生じる歩幅の差を利用され追いつけないが、意地で追いかける般若面相の瓏衣。

 子供のような追いかけっこが繰り広げられた五分後、疲れて、我に返って、飽きた二人はテーブルに腰掛け、少しの間という名の休憩。


「とりあえず、残り食べるから……」

「そうするといい」


 涼しい顔で笑ったカイナを相手に、様々な意味で敗北を認めざるを得ない瓏衣はしかめっ面で残りのカルチェの実をかき込むのだった。



「……ふぅ」


 カルチェをたいらげ、水を飲んで一息。

 空になった皿はすぐにカイナが下げ、ただいま洗浄中である。

 特に意味もなく彼の背を眺め、ジャーという流水音を聞きながら、手持ち無沙汰になった瓏衣は改めて現状を頭の中で整理する。

 ゴールデンウィーク半ばの今日。昼食を各自自宅で済ませた昼過ぎに幼なじみを家まで迎えに行って、それから図書館に向かい、日当たりのいい角の席を陣取った二人はマジメに勉強に取り組んでいた。

 昼食のせいか睡魔に襲われたのは、確か午後三時を過ぎた辺りだった気がする。ぐっと背伸びをして眠気を振り払おうと努力したが、気づけば意識を刈り取られていた。

 そして、意識が戻ったかと思えば、体はまったく身に覚えのない草原地帯に転がっていた。

慌てて起き上がり、混乱しながらも辺りをさまよっていると、たまたま買い物帰りに通りかかったカイナと出会って、現在に至る。

 はて困った。どれだけ思い返してみても今起きている事象に繋がる出来事が何処にもない。

 出たのは答えではなく、重いため息のみだ。

 とりあえず、なによりも一番大事な事柄はただ一つ。


───オレ、帰れるよな……?


 このままこの世界で一生過ごさなきゃならないのか?頼りに出来る知り合いはすでにできたが、そういう問題じゃない。

 どうしていきなり、自分はあの世界から切り離されてしまったのか。これが夢ではないと決まったわけでもないが、ここまで見聞きし、触れてきたものはすべて感覚が不気味なほどにリアルだ。

 まるで、本当に存在しているかのような生々しさがある。それは返って、瓏衣のなかの不安を煽っていた。


「難しい顔をしているな」


 不意に言葉が振ってきた。皿洗いを済ませたカイナだ。


「戻れそうか?」


 君が、()るべき場所へ。

 瓏衣は首を振った。


「わからない。情報が少なすぎるんだ。ただでさえ何が起きているのかも満足に把握できてない有様だしな」


 瓏衣の眉間に寄ったシワの深さと、重いため息から事態の深刻さに察しがついた彼はテーブルの上で組んだ両手に視線を落とす。


「そうか……。ならば、キミさえよければ、解決の見通しがつくまでここにいてもらってかまわないが?」

「え? マジで!? いいの!?」

「こうして会えたのもなにかの縁だ。この小屋に住んでいるのは私一人だし、困っているのなら、私は君の力になろう」


 やった!勢い余ってガッツポーズをとる。


───異世界──かどうかも定かではないが──も捨てたもんじゃない!


「これからよろしく頼むよ」

「こちらこそ。何かあったら言ってくれ」


 子供のような無邪気な笑顔に、カイナの表情も綻ぶ。

 と、そのとき。瓏衣の目に映る世界が大きく揺れるようにぶれた。


「っ!?」


 視界を正そうと頭を押さえ、テーブルに寄りかかった様子がただ事ではないように見えたのだろう。眉尻を下げたカイナが心配そうに顔をのぞき込む。


「ルイ……? どうした?」

「わか……ない……。なんか、フラッとして……」


 まるで頭の中に直接濃い霧を流し込まれたようだった。

 前触れもなく意識が朦朧としてきて、自身の体重を支えきれず、体が震え始める。


「疲れているのだろう。本当に狭いが、空き部屋が一つだけある。案内するから、少し体を休めるといい」

「う、ん……」


 ガタンと席を立ったカイナに続き、瓏衣もテーブルに体重を預けながら立ち上がる。

 だが力の入れ方を間違えたのか、瓏衣の体はまっすぐ立たなかった。糸が切れ、支えを失った人形のように、重い体が傾いていくのがわかる。


「っ!? ルイっ!」


 気づいたカイナが抱き止めようと手を伸ばす。

このままでは床に倒れ込むだろう。すでに視界は閉じ始めていて、彼の手をとる力も出ない。

 闇に埋もれた瓏衣の意識が、衝撃と痛みを感じることはなかった。



「ん……。う……、あれ……?」


 ここはどこだ。自分は、今までなにをしていたのだったか。ともかく起きなければ。

 瓏衣は腕に力を入れ、そっと体を持ち上げた。


「あ! やっと起きたね瓏衣くん!」


 聞き覚えのある、しかしどうしてかどこか懐かしさの感じる声がした。口調と声の高さから、その声が女性であることは明らかだ。

 図書館であるということを弁え、普段よりも声は抑えられていたが、それでも少なからずの怒りが顕著であった。

 顔を上げれば、目の前にはやはりふくれっ面をした少女が一人。


「ご、ごめん千鶴……。つい……」

「瓏衣くんたら放ってたらいつまでも寝てるし、起こしても起きないし……!」

「すいません……」


 肩下まで伸びた焦げ茶のお下げに、今は閉じられている瞼の向こうにあるのは榛色の瞳。華奢な体躯が纏うのは子供のようにぷくりと頬を膨らませ、拗ねるようにぷい、と顔を背ける彼女は千鶴といい、幼稚園時代からのもはや腐れ縁を通り越した長い付き合いである。

 しかし何を隠そう、彼女の顔立ちは平均よりもかなり整っていて、あどけなさの抜けきらないかわいらしさが目を引くし引かないわけがない。

 とどのつまり、怒っていてもかわいい。


「……瓏衣くん反省してないでしょ」


 不意にこちらを一瞥した千鶴がこちらを睨む。思わず頬が緩んでいたらしい。


「してるしてる。本当にごめんね、千鶴」

「もう……」


 手を伸ばして頭を撫でてやると、唇を尖らせながらも大人しく撫でられてるところがまたかわいいとか、考えているとつい笑みがこぼれてしまってまた睨まれるので控えることにする。


《───単純だなぁルイは!》


 不意に脳裏に響く青年の笑い声。無事に戻れたことは喜ばしいが、カイナと過ごしたあの時間は、ただのタチの悪い夢だったのか。

 それとも───。


「瓏衣くん?」


 頭を撫でる手が止まり、目を向けると、瓏衣はなにやら思い詰めた顔をしていた。

 声をかけると、我に返ったらしくわずかに目を見開いて、それからすぐに笑った。


「ごめん。なんでもないよ」

「そう……?」


 不思議そうに首をかしげたものの、千鶴はあともう少ししたら帰るからねーと手元のノートに目を落とす。

 あの夢はなんだったのか。どうしてあんなことが起こったのか。

 いろんな疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡るが、その疑問に答えてくれるものはない。

 あやうくどこぞの三流マンガよろしくイケメン青年とののんびりスローライフが開幕するところだった。いや、まあ、彼のような心優しいイケメンとであれば、それも悪い気はしないが。

 瓏衣はすぐそばにある大きな窓の窓枠に肘をつき、傾いた太陽に照らされ橙色に染まる町並みを眺める。深いため息を吐いた口内には青年が食べさせてくれたカルチェの実の、果物のような甘い果実の風味が残っていた。



 物思いに耽る思考に、それどころじゃねぇよとつっこんだのもまた瓏衣だった。

 ゴールデンウィーク半ば。しかしレポートをその連休の半ばまでに提出しろとはどういう了見だろうか。普通休み明けまで待つものだろう。

 課題を今の今まで忘れていたこちらが文句を言えたものでもないが。


───にしたってパソコンなら早いのに原則手書きとか、新手の嫌がらせかあのメガネ……。


 昼間の勉強会の際に終わらせる計画だったが、あの状態で終えられるはずもなく。瓏衣は自宅の自室でレポート用紙を相手に頭を抱えていた。

 うんうん唸り、数える程度の文字を並べて出だしを書き、そして消す。進むのは消しゴムのすり減り具合だけだった。

 どうにも、集中できない。昼間の件が気になり過ぎて。

 本当にアレは、頭の中だけに広がっていた空想の夢だというのか。あんな平穏な山奥の辺境に小屋に一人で暮らすイケメンな青年に会い、果物に似た木の実をごちそうになって、からかわれて、《ああ初めての、とても不思議な明晰夢だった》の一言で片付く話なのか。

 考えながら、何度も書き直して上部がボロボロになったレポート用紙を手に取ると、気分転換に紙飛行機を作り始める。


「カイナ。お前はいったい、なんだったんだ……?」


 届くはずの無い問いかけの言葉とともに、完成した紙飛行機をゆっくりと飛ばす。

 その先にあるのは室内に二つあるうち北側に設けられた窓。その方向に投げたことに意味は無い。紙飛行機はすぐに窓を覆い隠すカーテンにぶつかり落下。

 ───すると思われた。


「ん……?」


 不意にカーテンがひんやりとした冷たい空気を吐き出し、こちらに向けて一人でに靡いた。その拍子にカーテンが左右にわずかに開き、見え隠れする窓に吸い込まれるように向かっていく紙飛行機。

 鋭角な先端が窓に触れた瞬間、落ちた葉が水面に立てる波紋のような小さな波を立てる。そして紙飛行機は引きずり込まれるようにするすると《窓の中へ吸い込まれていった》。


「っ!?」


 驚きのあまり瓏衣は学習椅子を蹴り飛ばして飛び退る。


「う、そ……だ……?」


 いまのは、なんだ……?

 何事も無かったかのように再び窓を覆い隠し、沈黙するカーテンを呆然と見つめながら、瓏衣はしばしその場に立ち尽くしていた。

 耳に刺さるような無音のなか、三拍ほどの間があって、瓏衣が動いた。ゆっくりと足を動かし、北側の窓におそるおそる歩み寄る。

 目の前に来てもなお、その窓とカーテンは沈黙を貫いたままだ。

 意を決して、瓏衣は片側のカーテンをめくる。

確かにそこには窓があった。何の変哲もありはしなくて、そのガラスには険しい表情をした瓏衣の姿が映り、ガラスの向こうには夜闇に包まれ静まり返った町並みが広がっている。

 なんの変化もないことに、瓏衣は一先ず安堵した。だがその反面、さっきの光景はいったいなんだったというのか。瓏衣の表情はまだ晴れない。

 一度ならず二度までも目の前で起きた理解不能の異常な現象に言い知れぬ恐怖を感じながらも、好奇心を抱いてしまったのか、その正体を解き明かしたいという気持ちが少なからず瓏衣のなかに芽生えていた。

 カーテンはめくったまま、今度はもう片方の手で直接窓に触れてみた。肌寒い夜の空気によって冷やされたガラスの冷たさが指先から伝わり肩を揺らしながらも、そっと窓ガラスに触れてみる。

 時間差のスイッチが起動したように、少しの間を置いてからやはり同じように窓ガラスに触れた指先を中心に波紋が広がり、手が窓ガラスの中へと飲み込まれた。


「うわっ───!?」


 驚いた瓏衣は反射的に手を引っ込めようとするが、それを上回る強い力で窓ガラスの中へと引き寄せられる。

 咄嗟に踏ん張ろうとしたが、間に合わなかった。


「───っ!!!」



 カイナはソファーに腰掛け昼下がりの読書に興じていた。しかし、内容がてんで頭に入って来ず、読み始めてすでに一時間は経過したというのにまだ二ページほどしかめくっていない。

 昨日現れた不思議な来訪者、ルイのことが気がかりなのである。きっと普通の出会い方をして普通の別れ方をしていたならばこんなにも気になることはなかったろうに、まるで想い人を求めるように気づけば彼のことが気がかりになるほど、彼との出会い方、そして別れ方はカイナが感じた以上に印象に残るものだったらしい。

 ルイと出会ったのは近くの村に買い出しに行った帰り道だった。ごくたまに定期便の馬車や商人たちの馬車が通るため二つの車輪の轍がくっきりと目立つ林道を歩いていると、立ち並ぶ木々の中に呆然と立ち尽くしている人影が見えた。

 村の者かとも思ったが、どうにも違う気がして、カイナは声をかけてみることにしたのだ。


「おい、キミ」

「うわあっ!?」


 声をかけると、その人物は大きく肩を揺らしながらこちらに振り返った。

 あまりに声が大きかったが錯乱しているというよりは、ただひどく怯えているようだったので、ひとまず下手に近寄らず、少し距離を開けた状態で様子を見る。

 そう小さくはない背丈に、見慣れない雰囲気の服を着た子供と大人の中間ほどに見える子だった。

綺麗に整えられ耳の高さで縛られた髪は夜闇のような漆黒。茶色がかった黒い目が、怪訝そうにこちらを窺い警戒している。


「私はカイナ。この近くに住んでいる。キミは、見ない顔だが…?」


 安心させるために笑って見せると、少しだけ彼の肩の力が抜け、構えていた腕が下がる。


「る、瓏衣…」


 ためらいながらも小さく発されたそれが、どやら彼の名であるらしい。


「ルイ、か。いい名だ。こんなところで何をしていたんだ?」


 見たところ、身なりはいいようだ。だが貴族にも見えない。

 直接問うと、ルイは少し戸惑った顔をして俯いた。カイナは焦らず、ただじっと彼が口を開くのを待っていた。


「それが、えっと…」


 言葉を選んでいる。いや、どう言葉にすればいいのか考えあぐねているようにうかがえた。

 なんらかの事情があると察し、カイナは自宅の小屋で落ち着いて話そうと誘うと、彼は小さく頷いてくれた。

 そして話を聞くと、彼は自らをこの世界の人間ではないと言った。まるでおとぎ話のようだと思った。聞いた直後は、さすがに耳を疑ったものだが、彼のまとう空気が、雰囲気が自分たちとどこか違うと本能的に悟っていたせいか、とても嘘をついているようには見えなかった。だからキミを信じると告げた。

 ルイも、信じてもらえるとは思わなかったのだろう。それこそ信じられないというように目を見開いて、それからとても嬉しそうにありがとうと笑った。

 腹に何か入れるといいだろうと思い、少し前に村人たちに分けてもらったカルチェの実を剥いてやると、気に入ったらしく子供のように頬張る姿が実に愛らしい。つい冗談半分にからかってみると、そのときの彼の反応ときたら、《毒がある》という言葉を真に受けて、本当に苦しみだしたときはさすがに焦ったものだが、まさかあんな言葉に引っかかる人間がいるとは思わなくて、つい笑っていると、気づいたルイが飛びかかってきた。

 逃げてみれば、それを皮切りに始まる幼稚な追いかけっこ。そこで思い出し笑いにまた肩を揺らして、カイナは頭上を仰ぐ。


―――あんなに笑ったのは、いつぶりだっただろう…。


 相手に失礼の無いように会話の途中で笑みを浮かべることはしょっちゅうだが、あんなにも涙が出るほど大笑いしたのは、ひどく久しぶりな気がする。

 空になった皿を洗っている間に、ルイはこれからどうすべきかを考えていたようだったが、やはりとても晴れやかとは言えない表情だった。

 このままでは彼は行く宛てもないだろうしと、この小屋に留まることを勧めてみると、ルイにとっては予期せぬ申し出だったのだろう。沈んでいた表情を明るませ、彼はよろしく頼むと頷いたのだった。

 すると不意に、ルイは突然苦しそうに頭を押さえ、俯いた。きっと今後の安全性が確保されたことで、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。少し休むよう勧めて、空き部屋に案内すべく席を立ったそのときだった。

 眩暈でも起こしたのかフラリとルイの体が傾く。驚きながらも床に倒れ込む前にと咄嗟に手を伸ばしたが、その手がルイに届く前に、あろうことか彼の体は眩い光に包まれ、音もなく消え失せたのだった。まるでタイムリミットが訪れ、かけられた魔法が解けていくように。

 カイナは目を見開き、空を切った手をそのままにまるで足を床に縫い付けられたようにその場からしばし動けずにいた。

 それから、ルイの姿を見ることはなかった。

夜。寝床に入ったカイナはその出来事を《不思議な夢》という位置づけにして、記憶の中にしまった。

 当時は不思議なこともあるものだと思ったが、今朝目覚めてからは、ルイとの出会いが本当にただの夢であったようにすら感じられた。


「ルイ、キミはいったい……」


 栞を挟み、パタンと本を閉じる。まったくなにをしているのかと、カイナは自身を嘲笑した。

 そのとき、


「ん?」


 足元から、カサという軽い音がした。本を脇に置き、足元を見下ろす。

 そこにあったのは、見たことのない形をした紙らしきものだった。それはカイナのものではないし、この小屋のなかにも存在しないもののはず。窓も玄関も開け放していないので、外から入ってくることもない。ではなぜ今ここにあるのか。

 手に取って見てみるが、特に不審な点は見当たらない。


「どこから入ったんだ……?」


 紙を観察しながら右に左に首を傾げていると、頬にやわらかな風がぶつかり、カイナは顔を上げる。

 それはどうやら、日当たりのいい南の方角をむいた窓から吹き付けていた。だが驚いたことに、その窓は開いていない。隙間風でもない。けれどもわきに束ねて括りつけられたカーテンの裾がひらひらと揺れている。

 カイナは訝しげに眉を潜めた。

 近づいてみると、その風をより確かに感じられた。決して荒々しくない、例えば春を連れてくる温かなそよ風のような。しかし、変わらず窓はしっかりと閉じられたままで、ガラスの向こうには穏やかに晴れわたる草原と、いくつかの連なる山々が見える。

身構えるカイナの指先が、その窓に向けてそっと伸びていく。

 だがその指先が触れる前に窓の中心から波紋が波たち、外の景色共々その形を崩した。


「な───」

「───うぎゃあっ!?」


 なんだ、と続くはずの言葉が、叫声にかき消され、同時にカイナの体はなにかに押し倒された。ゴト、と硬い音がして、体の後ろ側、特に後頭部が痛む。


「う、……?」


 確認できたのは、後頭部の痛みと体に覆い被さる重み。顔を顰めながらも、薄目を開けてその正体を探る。


「いったい、なにが……」


 その声に、どこか覚えがある気がした。

 最初に見えたのは垂れ下がり揺れる黒い髪。カイナはハッと目を丸くし、その姿をよく見る。

びっくりした……と呟きながら、その人物はゆっくり顔を上げた。

 こんなおかしな現れ方をする黒髪の人間に心当たりがあるとすれば、一人しか浮かばない。


「まさか、ルイか……?」

「へっ?」


 同じく名を呼んだ声に覚えがあったのか、それともいきなり名を呼ばれたからか、素っ頓狂な声とともにその素顔があらわになる。


「あ」


 目が合うなり、彼は案の定知り合いにあったときのような反応をする。


「やはり、キミか……」

「カイナだ。なにしてんの?」

「キミこそどこから現れている……」


 瓏衣はカイナの言葉にピクリと反応し、カイナに覆い被さったまま周囲を確認する。そして、みるみるうちにその血色を変えて、背後の窓に飛びついた。

 隠されたスイッチでも探すように、窓をくまなく調べる瓏衣の様子を、上体を起こしたカイナはその場に座り込んでしばし眺める。最終的には窓を突き破らんばかりの勢いで開け、瓏衣はその拍子に落ちそうになる。

 瓏衣が窓にいかなる動作を施しても、その窓はもうなにを発することもしなかった。

 彼は文字通り頭を抱えてうんうん唸り出す。

 ちょっと待て。

 もしかして。

 まさか。


「オレ、今度こそ本当に帰れない……?」


 深刻そうな、絶望しかけているような青い顔をしたルイがこちらを向く。

 お互いに状況が理解出来ていないため、聞かれても答えられないのだが、カイナは苦笑しながら口を開いた。


「とりあえず、座って話そうか……?」


 腰を上げたカイナは瓏衣にテーブルに座るよう促すと、キッチンに歩いて行く。カイナが客人に出す飲み物は三種類ある。水、コーヒー、もしくは紅茶のいずれかである。

 初対面であれば問いかけて選ばせるのだが、今回はその必要は無い。彼に出すものは昨日と同じもので構わないだろう。

 ドリップケトルに水を汲み、火にかけている間にミルにコーヒー豆をいれてガリガリと砕く。

 用意するものは自身の分とルイの分と合わせて、コーヒーを二つだ。

 そしてこのあと、二人は昨日とよく似た会話をかわすこととなるのだった。








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