第八話 疲弊の果てに
翌朝、ヴィヴィアンは激しい首の痛みに呻きながら顔を上げた。夜通しユキノの看病をしていたため、二階の自室に行かず食卓で寝ていたのだ。
解熱剤となる薬草を魔法で発芽させたものの、上手く育てられなくて苦戦した。結局、植物に関する魔法を扱った魔道書を探したりする手間もかかり、ヴィヴィアンはあまり寝ていなかった。
「痛たた……」
百八十九センチの長身にジャストフィットするわけではない食卓だから、ヴィヴィアンはかなり首や腰に負担をかけて寝ていた。身体を起こして首を鳴らしていると、ソファの上のユキノがもぞりと動く。
「おい、解熱剤は効いたか」
起きたのだろうと思って声をかけると、ユキノはしばらくソファの上で動かなかった。しかし、数秒していきなり跳ね起きた。その行動にヴィヴィアンは驚き、思わず魔法をかける構えをしてしまった。
「あれ…… 何でヴィヴィアンがここにいるの」
印を結んだ指をユキノに向けているヴィヴィアンを、向けられている本人は呆けた目で見ていた。そして、ヴィヴィアンから目をそらしてブランケットを持ち上げてみたり、乱れた衣類を直したりする。
「ここ、俺んちだけど」
手を下ろしながら言ってやれば、ユキノは目を見開く。
「え、俺、ちゃんと出てったのに。絶対出てったって。だって俺、最後に」
「そこの路地裏でぶっ倒れてたのを拾ってきてやったんだ、ありがたく思え」
ちょっと焦り始めたユキノにぴしゃりと言ってやれば、彼はまだ腑に落ちないような表情で黙り込んだ。そして、かんざしで結った髪を解いて再び結いなおし始める。
「昨日微妙に会話したけど、何も覚えてないのか?」
「全然」
確かに朦朧としていた彼だから、意識は鮮明ではないだろうという気はしていた。ヴィヴィアンはコップに水を汲み、ユキノに手渡してから自分の分も汲みに行く。
「熱は下がったのか」
魔法で冷やした水で喉を潤し、ヴィヴィアンはそのままキッチンから背後を振り返って問う。ユキノはソファに座って姿勢良く水を飲んでいたが、ヴィヴィアンの視線に気づいて頷いた。
「大丈夫っぽい。まだ何かだるいけど」
「もう少し寝てろ。たぶん朝一番でナタリアたちが来るから、何か持ってきてくれると思う。昨日何も食ってないだろ? パンが半分しかないけど、食うか」
テーブルに置きっぱなしだったパンは微妙に乾いていたが、食べるのに支障はないだろう。昨日は慣れない看病のおかげで忙しく、疲れきっていたので食事をする気力すらなかった。半分は朝食にととっておいたパンだが、今のヴィヴィアンはあまり食欲がない。
「いいよ、ヴィヴィアンの分だろ」
「病人尻目に自分だけ飯食えるほどあさましくない」
「……じゃあもらう」
ユキノは素直にパンを半分受け取った。そして、もう食べ始めた。万全ではないが、ちゃんと回復はしたようだ。少しだけ安心した。
「朝のうちに行かないと食料なくなるから、ちょっと市場行ってくる。絶対そこから動くな。帰ってきたときちょっとでも物が動いてたらまた追い出すぞ」
ユキノが家を荒らすことはあまり考えられなかったが、一応そう釘を刺しておいた。ユキノはパンを口に含んだまま頷き、空いた手を振った。
「それから、ローザが早く元気になれって」
ふと思い出して言い忘れていたことを告げれば、ユキノは急いでパンを飲み込もうとして少し咽た。
「……行ってくる」
「げほっ、いてら、っしゃい」
大丈夫かこいつ、と思いながら、ヴィヴィアンは家を後にした。施錠魔法は解かずにおいたので、出る分には良いが入れない仕組みだ。短時間の外出なら、いちいち魔法をかけなおさなくても効力は保てる。
依頼受けには何も入っていない。ヴィヴィアンはそういえば外出するのにだらしない部屋着でいることに思い至った。
昨夜は薬草の生長に二度ほど失敗し、服が汚れたので二度ほど着替えている。ナタリアが干しておいてくれた洗濯物の中から適当に手に触れたものを選んで着たので、上下のバランスというものがまるでない。上はぱりっとした黒いシャツだが、下はだぼだぼのジーンズだ。ちょっと可笑しいが、今更引き返すのも面倒だ。
市場は街の中央の広場と、海寄りの町の外れの二箇所でやることが多い。海よりとはいえエンカンタリアは広いので、この街は海に面してはいない。ここから海までは、歩いて五日くらいかかると予想される。
ヴィヴィアンは中央の広場を目指した。
「いらっしゃい! 久々だねヴィヴィアン、活きの良いのが入ってるよ!」
「魚か…… 暫く食ってないな」
「らっしゃいらっしゃい! 朝摘みの日和草だよ!」
「サラダにはもってこいだろうな」
色とりどりの魚が並ぶ魚市を通り過ぎ、八百屋の市場を通り過ぎる。日和草はエンカンタリア原産ではないが、様々な料理に合うことからたくさんの農家によって作られている野菜だ。この辺りの家庭では、ほぼ必需といっても過言ではない。
「生みたて卵はどうだね? 大きさも味も一級品だ!」
「ランチには腸詰にしないか?」
「桃が入りましたよー、さあさあどうです? この香りにこの色。食欲をそそるじゃありませんか!」
「牛乳いかがですか! 絞りたてですよー」
「早くこないと売り切れちゃうよ! 菜摘孔雀の腿肉が銀貨たったの二枚だ!」
菜摘孔雀は富豪層の食べ物なので、ヴィヴィアンはスルーしておく。ちなみにこの菜摘孔雀というのは、非常に贅沢で、放し飼いにしてもえさとなる日和草以外の雑草は絶対に食べないことから菜摘孔雀という名がついたらしい。エンカンタリアでは、わがままで偏食の激しい人のことを侮蔑して菜摘孔雀と呼んだりもする。
今のヴィヴィアンの手持ちは、銀貨一枚と銅貨がやたらとたくさんだ。この状態では、一切れの腿肉すら手に入らない。菜摘孔雀は偏食が激しくて飼育費がかさむため、かなり高価なのだ。銀貨二枚でも安いと思えるのだから相当だろう。
朝市は食材が安いので嬉しい。いつも昼まで寝ているから、朝市の安売りにいけないことが多いのだ。今日は何故か早く起きられたから、ヴィヴィアンは少しだけ食費を節約できる。
「リンゴ二つ」
青果店の赤いリンゴを二つ手に入れ、ヴィヴィアンはおまけで貰った手編みの籠に入れて市場を歩く。
「そこの魚くれ。赤いやつ」
「はいよ!」
澄んだ目の綺麗な魚だ。赤い体には黄色の斑点がある。名前は知らないが、魚といえばリリエンソール家ではこれだ。焼くのは勿論のこと、煮物にしても良いし刺身でも美味しい。
ヴィヴィアンはさばいたことがないが、帰ったらユキノに頼もうと思う。もし彼でも無理だったら魔法でなんとかしよう。
「鶏肉買っていかないかい?」
「とりあえず魚にしとくんで、また」
「山菜は身体に良いわよ! どうかしら」
「あー、山菜。どれがどんな味だか忘れるくらい長いこと食ってないなあ」
市場を抜け、ヴィヴィアンは家路についた。依頼箱の中身は相変わらず空だった。
家に入ると、暇そうに髪を結いなおしていたユキノが顔を上げた。
「おかえりヴィヴィアン。市場どうだった?」
良く見ると、微妙に服装が変わっている。レギンスのようにタイトな黒いズボンは綺麗に畳まれてソファの上に置かれ、衣類の裾は彼のくるぶし辺りまで伸ばされていた。
「魚買ってきた。さばけるか」
籠を軽く持ち上げて見せれば、ユキノはソファから降りて駆け寄ってくる。
「俺にやらせてくれるの?」
目を輝かすユキノに、ヴィヴィアンは籠を渡した。
「やったことないから」
言いながら、ユキノの手に渡った籠の中からリンゴを一つ取り出した。歩いたら微妙に空腹になったので、間食しようという魂胆だ。
「よし、任せろ! 米は残ってるかなあ。あ、ヴィヴィアン、俺の荷物どこか知らない?」
「多分路地にあると思う。まず行ってこい、花屋とうちの間だから」
「行ってくる!」
ユキノはソファの上に籠を放置し、駆け出した。ヴィヴィアンは籠の中のもう一つのリンゴを、キッチンの簡易冷暗所として使っている箱に入れておいた。冷やしておいた方が美味しいだろう。これは何となく、ユキノも食べるかと思って買ってきてしまった分だ。
しばらくしてユキノは飛び込んできた。簡素な布で包まれた包みは雨を含んで随分重そうだった。
「あった! 良かった、魔物に荒らされてもいない。ヴィヴィアン、これ洗濯したいんだけど」
「貸せ。これ全部か?」
「あ、待って」
ユキノは荷物を開き、かんざしの予備らしきものを取り出して懐に仕舞いこんだ。他にもいくつか小物を取り出し、それらはソファの上に並べてユキノはぬれた衣類を畳み始めた。もともと畳んであったものもあったが、いちいち畳みなおしている。衣類のほかにも用途不明な白い長い布や、タオルほどの大きさの平織りの布などが何枚ずつかあるのが見えた。
「おい、どうせ洗濯するんだから」
「ごめん、こういうの気になるんだよ……」
ユキノは畳み終えた衣類の上に、包んであった布を畳んでおいた。
「洗濯したらすぐ乾かすから」
「えっ、いいよ魔法使うんだろ?」
「食事できたら今後について話し合うつもりでいるから。場合によってはまた出てってもらうことになるし」
「……うん」
少し冷たい物言いになったことをまずいと思わなかったわけではなかった。けれどヴィヴィアンは濡れて重たくなった衣類を抱え、逃げるように階段を上った。樽の中には昨日入れておいた自分の衣類もあったから、一緒に洗ってしまうことにした。
洗濯機の魔法陣を作動させ、植物由来の香料が入った洗濯用石鹸をかけながら樽に水を入れる。しばらくぼんやり窓辺に佇んでいたが、洗濯機の中の泡が床にまで漏れ出してきているのを見て慌てて呪文をかけかえた。水を入れ替える呪文だ。
おそらくナタリアは昨日、わざわざ手作業で水を入れ替えてすすぎと脱水をしたのだろう。
「ヴィヴィアーン! 塩どこ?」
ユキノの声が聞こえた。ヴィヴィアンは樽の中から水を抜きながら、階段に向かって大声を上げる。
「食器棚の引き出し!」
礼を言うユキノの声には答えず、ヴィヴィアンは水の抜けきった樽に再び呪文を唱える。樽の中の水を蒸発させる呪文だ。そうして服を取り出してみれば、からっと乾いていた。しかし何となく、畳むのが面倒なのもあってヴィヴィアンは自室に乾いた服を干してきた。
昨日のナタリアは、時間の制限もあってか浴室と洗濯機近辺だけで掃除を断念したようなので、ヴィヴィアンの部屋は相変わらず散らかったままだった。
洗濯したユキノの私物を一式すべて持って階段を降りると、もう魚はおろされていた。
「炊けるまで時間あるから、魚まだ焼かないでおくよ」
「いいよ別に、やりたいようにやれ」
ヴィヴィアンはソファに腰掛けた。ユキノの私物は整理されてソファの前においてある小テーブルに載せられていたから、ヴィヴィアンは広いソファを悠々と一人で使っていた。
「……あとどれくらい?」
「三十分くらいかなあ」
「解った、じゃあ三十分で話をつけよう」
ヴィヴィアンは食卓に移動し、ユキノを促して正面に座らせた。今後どうするかは、今朝じゅうに話し合って決めておきたいのだ。