第七話 雨夜
ローザが返しにきてくれたおかげでまた三本になった傘の中から自分のものを選んでいると、足元で黒い影が躍る。即座に電撃を放つ。子ネズミほどの大きさしかなかった黒い影は、その場で焦げ付いて消滅した。傘を片手に夜の街へ踏み出せば、雨音の中にブーツの足音が異質に響く。
酒屋は明るい。もともと扉が無いに等しいほどの仕様だし、ここには毎晩色々な人が集まるのだ。流れ者から街の政治家まで、本当にあらゆる人があの酒屋で酒を買っていく。酒屋の中に酒場も入っているので、そこで酒を飲み交わして酔っ払い、ヴィヴィアンに道を尋ねてくる人も多い。酔って支離滅裂なことを言った上に、そのまま玄関で寝てしまうとか。
「ん?」
酒屋は明るいが、その他は漆黒の闇だった。隣の花屋は早々に店を閉めていたし、斜め向かいの帆布店はもともとそんなに明るくはない。それでもいつもは、もう少しだけ明るいはずなのだ。
「あ、街灯が消えてるのか。どうりで良く出るわけだ」
魔物は闇夜を好む。常識だ。付近の街灯は街の整備課の人たちが毎晩蝋燭に明かりを灯すというだけの簡単な仕組みなので、風や雨の強い日はほぼ意味がない。
ヴィヴィアンは家の付近の街灯を全てともしなおすことにした。魔物は光を嫌うため、閃光で攻撃すれば一発で消滅する。だから閃光とまではいかなくとも、魔物の好きな闇を少しでも減らそうと思ったのだ。
酒屋の前の街灯を魔法で灯し、にぎわう店内を少し覗いてみた。この中の気楽な連中は、誰も魔物の心配などしていなさそうだった。ヴィヴィアンの家の付近で魔物があまり出ないのは、この賑やかさと酒屋の明るさが幸いしているのかもしれない。
自宅の門灯はどうだろうと思い、振り返る。二階建て屋根裏つきの、深緑色の屋根をした家。なるべく魔物の被害を避けたいので、魔物避けの結界呪文を庭から門まで全てに張ってある。今のところ、どこにも異常は見られない。
ナタリアとローザは無事だろうか。雨の日には水を嫌う魔物が出なくなるから、大丈夫だと思いたい。そう思いながら、ふと自宅と隣の家の間にある細い路地に目を移すと、人の脚らしきものが見えてぎょっとした。
まさか魔物にやられて死んだのだろうか。ヴィヴィアンは水溜りを避けもせず、倒れている人物に駆け寄った。近くまで寄ると、その足が見覚えのある変な履物を履いていることに気づく。
全身を見なくても、その変わった履物や衣類の裾を確認しただけでヴィヴィアンにはこれが誰か解った。
「……ユキノ」
倒れたユキノの全身はずぶ濡れで、濡れた黒髪が白い頬に張り付いている。息はしているように見えたが、浅く速く上下する胸以外の部位はぴくりとも動かない。ヴィヴィアンは息を呑んだ。
そのときユキノの背中あたりに小さな魔物が忍び寄っているのに気づき、ヴィヴィアンはとりあえず呪文を唱えて炎を起こした。炎の明るさで、路地の魔物たちは消滅するか、あるいは怯んで近寄らなくなった。
「おい、起きろ」
声をかけて、少しためらってからその首筋に手を差し入れて上半身を起こしてやる。濡れた衣類はずっしりと重く、おまけに冷えきっていた。しかし、対照的に衣類に包まれたユキノの身体は驚くほど熱かった。
「ユキノ、しっかりしろ」
「……、だ」
少し焦って彼を揺すってみると、薄目を開けてうわ言のように何か呟いた。激しい雨の音で掻き消え、何を言っているかは聞き取れなかった。
「何だ、もう一回言ってみろ」
「ばかだ、俺」
「意識あるじゃねえか……」
ヴィヴィアンはユキノの右腕を掴み、肩に背負うようにしてその身体を持ち上げた。ユキノはつま先で地面をこするような形でヴィヴィアンに引きずり上げられているが、全く何の抵抗も示さなかった。
施錠の魔法を解いて家に入り、内側から施錠呪文をかけてユキノをとりあえず床に降ろす。仕事着の外套を脱いでコート掛けに引っ掛け、ヴィヴィアンは空中に魔法陣を描いた。ユキノは床に伏せたまま起き上がろうとしない。
ヴィヴィアンは、雨水を全て流しに移す魔法をかけた。水を蒸発させても良かったが、そうするとユキノが熱さでひどく苦しむことになる。
びしょ濡れのユキノは、すぐにもとの濡れていない状態に戻った。ヴィヴィアンは再び彼を背負い上げ、ソファに寝かせた。
「待ってろ」
高熱で苦しんでいるユキノを見ているといたたまれなくなってきて、ヴィヴィアンは小さなタオルを濡らしてきて額に乗せてやった。衣類が二、三枚ほど重なっているように見える襟元を少しあけてやり、腹は冷やさないようにブランケットをかけてやる。人を看病するのなんて初めてだが、幼い頃母にやってもらったやり方を真似てみた。
ヴィヴィアンは二階に上り、自室のドアを開けた。机の上にいくつか小瓶があるのを見て、その中から一種類だけ選び取る。これは前に、友人から貰ったものだ。中には植物の種子が数粒入っている。解熱に有効な薬草の種らしいが、詳しい名称は忘れた。
「……ヴィヴィアン」
階段を降りると、ソファの上で苦しそうにしているユキノがこちらを向いていた。虚ろな青い目に見つめられ、一瞬だけ体の動きが止まるのを感じた。
「何」
「俺、帰る」
「アホか。どこに帰るつもりだよ、寝てろ」
小瓶の蓋を開けながら、そういえばナタリアとローザの依頼の時間を過ぎていることに気がついた。ヴィヴィアンは小さめの魔法陣をテーブルに描き、描いた魔法陣のふちに指を這わせて呪文を囁く。
「ナタリア、ローザ。俺だけど」
呪文が完了してすぐに喋りかけてみた。これと同じ魔法陣がナタリアとローザの部屋にも描いてあって、呪文をかければ二つが通じる仕組みになっているのだ。家に行き来することはできないが、音や匂いや振動ならばこの魔方陣でやりとりできる。
「……おい」
「用件は何よ」
「何怒ってんだよ」
原因なんて一つしか見当たらない。ローザのことだから、姉にヴィヴィアンがユキノに対してどれほど酷い仕打ちをしたかなんて、洗いざらいぶちまけているに違いないのだ。
「ユキノを追い出したんですってね。失望したわ」
「そのことで話がある。うちと花屋の間の路地あるだろ、そこにあいつが倒れてて」
ソファでだるそうに目を閉じていたユキノが、少しだけ反応する。
「……えっ。ユキノ、大丈夫なの?」
「とりあえず拾ってきたけど、凄い熱で寝込んでる」
「よかった、雨の中放置したりしなかったのね」
「当たり前だろ、魔物に食われる」
あの時、ユキノの存在に気づいて本当によかったと思う。もしも明日の朝、家を出てすぐに路地裏のユキノの死体を発見してしまったらどうなっただろう。少なくともヴィヴィアンは、追い出してよかったとか、これでもう弟子入りを志願されなくて済むなどと笑い飛ばせる非情さは持ち合わせていない。
「今ユキノは話せるかしら」
ナタリアの声に、ソファに横たわるユキノをちらりと一瞥する。ユキノは薄目を開けて虚ろに天井を眺めていたが、ヴィヴィアンの視線に気づくことはなかった。
「無理っぽい、起き上がれないから。あ、依頼なんだけど」
「いいわ、ユキノの看病で忙しいでしょ? 雨の日は水が苦手な魔物があんまりでなくなるし、明るくしておけば大丈夫よね」
言いたかったことはナタリアがすべて解っていた。ヴィヴィアンはほっとして、肩の荷が下りたような気になる。
「こいつを置いて俺だけ店を離れるわけには行かないからな」
もっともらしい理由は簡単に思いついたが、こうしてユキノを介抱しているのは割り切れない感情での判断に従った部分が大きかった。それは、ヴィヴィアンの中でもうユキノを見捨てたくないという気持ちが固まってきているからなのかもしれない。
自分が一度放り捨てたおかげで、今ユキノは苦しんでいる。その様子をまざまざと見せ付けられたわけだから、ヴィヴィアンもかなり参っていた。クライアントを楽にしてやるのが何でも屋の仕事なのだ。
自分が関わった人々が魔法のおかげで笑顔になることを、ヴィヴィアンはきっと深く望んでいた。おそらくそれが、ヴィヴィアンが何でも店をやりたいと思う理由なのだ。
「ちゃんとついていてあげるのよ。明日あたしたちお見舞いに行くけど、もしこじらせたりしてたら」
「解ってるって、心配すんな」
この言葉には、長らく返事が返ってこなかった。魔法陣の向こうの方で微妙に何か言いあっている雰囲気はあるから、ヴィヴィアンはナタリアかローザの声が聞こえてくるまで待った。
「あ、あのね」
ローザの声だ。ほら早く言っちゃいなさいよ、などとナタリアが後ろで急かす声も聞こえた。急かしているというより、からかっているような声色だ。
「えっと、ヴィヴィアン。さっきはごめんなさい。私、ひどいこと言った」
「別に、何も気にしてない。俺も大分感情的だったし」
「よかった。もう許してくれないかと思った」
どこまで気の小さい子なのだろうとヴィヴィアンは少し笑った。ヴィヴィアンがローザを切り捨てようとするはずはない。色々な不満を抱きつつも、ヴィヴィアンはそれなりにこの姉妹とは上手くやっているのだ。
「ユキノさんに、早く元気になってって伝えてくれる?」
「ああ。言っとく」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみヴィヴィアン!」
ナタリアの元気の良い声を聞いて、ヴィヴィアンは繋がりを解除する呪文を呟いた。
ソファに寝たままのユキノは相変わらず苦しげに呼吸を続けていたから、ヴィヴィアンはその額に乗せたタオルをもう少しだけ冷やす魔法をかけた。一向に止まらない雨の音を聞きながら、ヴィヴィアンは買ってきたパンを半分に割る。この雨はなかなか止みそうにない。