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エンカンタリア  作者: 水島佳頼
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第六十三話  真夏の木枯らし

これはユキノだと、直感的にそう思った。しかし、妙にひっかかりを覚えてヴィヴィアンは首をひねる。

「そろそろ帰ってくるな、あいつ」

「あら。ユキノの魔力の判別ができるようになったのね」

「……ああ、まあ」

 間違いなくユキノだろうが、それでも声に出してナタリアに肯定して欲しかった。ひっかかりの正体を考えながら、ナタリアに曖昧な返事をする。

 しばらく彼女の手から編み出された白い雪の結晶をつなげたようなレースを見ていると、ふと違和感の正体に思い当たった。ユキノの魔力は冬の冷気の形を借り、肌を刺した。

 違うのだ。いつものユキノなら、穏やかに流れる水のようでいて、静かな氷のような存在感のある感じがするはずである。海のように凪いでいることだってある。なんだか今感じた気配は、冷たすぎる気がした。

 何かトラブルでもあったに違いないと思うが、せっかく元気になったナタリアをまた不安にさせたくなくてヴィヴィアンは黙り込んだ。

 ナタリアは特にそれを気にする様子もなく、また編み物を再開する。ユキノが帰ってきたのは、そのしばらく後になってからだった。

 玄関のドアが、帰ってきた住人の魔力を感知してすっと内側に開いた。重いドアの向こうに見えたユキノの姿を見て、ヴィヴィアンはぎょっとする。

「お、おいユキノ」

 思わず立ち上がって駆け寄ったヴィヴィアンに、ユキノは少し笑った。笑い事じゃない、と叱ろうかと思ったが言葉が出なかった。

 どうみても弟子はボロボロだった。

 彼の左半身はほとんど砂まみれになっていて、膝のあたりは衣服が破れている。地面についたと思われる左手も傷だらけで、所々から血が出ている。治癒力の弱い彼が怪我を負って平気なはずがないと、むき出しの足首に視線を下ろしてみればやはり鮮烈な赤が目についた。膝から垂れてきたのだろう。

 トラブルに遭っている予想はしていたが、正直こんな風になって帰ってくるとまでは思っていなかったので動揺した。ユキノは時々痛そうに顔をしかめながら、ゆっくり歩いて部屋に入ってくる。きちんと結われていたはずの髪も乱れているし、着物も着崩れているのがわかった。

「ただいま。ごめん、ちょっと失敗した」

 汚れて傷だらけになったユキノは、それでも穏やかな笑みを浮かべて食卓に今日の成果を置いた。彼の懐からは二枚の領収書と、銀貨が数枚出てくる。呆然とその様子を見守っていると、背後からナタリアの悲鳴が聞こえた。彼女はやっとユキノの状態に気がついたらしい。

「ちょ、ちょっとどうしたのよ!」

 駆け寄るナタリアにそっと制止のジェスチャーをして、ユキノは小さくごめんと謝る。主語はなかったが、彼の視線はナタリアの胸元に注がれていた。ナタリアはその視線を辿って彼の動作の意図するところを理解したらしく、ヴィヴィアンの護符を撫でながら一歩下がった。

「なんでだろうな。魔法をかけたら跳ね返ってきて吹っ飛ばされたんだ。二回目は成功したんだけど」

 着物の裾を持ち上げ、ユキノは慣れた手つきでその裾を端折る。血まみれの膝からはまだ血が流れていたし、どうみても傷は深い。思ったよりひどい怪我に眩暈を覚え、ヴィヴィアンは無意識に彼に近寄って呪文を唱えた。ユキノは短く礼を口にしたが、失血のせいか顔色が悪い。椅子を引いて座らせてやると、彼は汚れた着物の裾を気にしていた。

「ヴィヴィアン、シミ抜き教えてくれないかな」

「魔力を込めた手で擦るか、水をかけて乾かすのが手っ取り早い。異物を除く呪文であれば、七文節で魔法陣がほぼ必須。どれがいい」

「一番面倒臭そうなやつ」

 着物から顔を上げ、ユキノは言った。いたずらっぽく笑っているのは、ヴィヴィアンが遠回しに手で擦るか水をかけて乾かせと言ったのを理解したからだろう。参ったという風に笑い返し、ヴィヴィアンはユキノの正面の椅子を引いて雑に座る。

 青い顔をしたナタリアが歩いてきて、ユキノの隣に座った。そして、真剣な顔で彼の横顔を覗き込む。

「ユキノ、本当にそれだけ?」

「ん、何が」

「魔法が跳ね返って転んだにしても、あんた、もっとうまく着地できそうじゃない」

 確かに、とヴィヴィアンも思った。気配にも敏感でバランス感覚が優れたユキノが、半身まるごと砂まみれになるほど転ぶことがあるだろうか。

 ユキノは考え込むように黙り、それから小さく息を吐きながらナタリアとヴィヴィアンを順に見た。

「……なんでだろうな」

 呟くようなその言葉と共に、ユキノの視線は手元へと落ちた。

 唇を噛むように、ナタリアはユキノの横顔を見つめていた。毎日ずっと魔物の襲撃に耐えてきたのは何もアイアランド家の姉妹だけではない。ユキノだって慣れない土地できっと不安も多いだろうに、ヴィヴィアンや新しくできた友人たちを守ろうと、その身を盾にして戦っているのだ。彼には守りたいものも、守るべきものもありすぎる。

「ユキノ、命令だ。今日の残りの依頼はもう手伝わなくていい、ゆっくり休め」

「そんな、俺まだ働けるよ。怪我人じゃ役立たずかもしれないけど、 足手纏いだなんて言わないでくれ」

 悲痛な顔でそう言われたら、誤解を解く以外に選択肢はないだろう。この男にとって、働くという行為は呼吸と同義なのだろうか。休めという命令をこんなに拒否する人間は、メルチスじゅうを探してもユキノだけだと思う。下手をしたら国内を見渡してもユキノだけかもしれない。

「言っておくが、お前のことを役立たずだなんて思ったことは一度もないぞ。断言できる、これからもない」

 つとめて柔らかくそう言ってやれば、ユキノは悔しそうに俯いた。てっきり安心してくれるかと思ったのにそうではない。どうフォローを入れたらいいか考えあぐねていると、ナタリアがユキノの背中を優しく撫でる。

「あんたが頼めば頼んだ分以上に働いてくれること、ヴィヴィアンもわかってるわ。だからこそ、今は怪我をしているあんたを休ませたいのよ。本調子じゃないあんたにもし無理をさせたら、これから先魔物と戦う時にヴィヴィアンは独りになってしまうわ」

 彼女のフォローに、ヴィヴィアンは内心で胸をなでおろしていた。

 こういうとき、言葉を使って人を安心させるのはヴィヴィアンが苦手としていることの一つだ。一方ナタリアは、いつも上手に感情を相手に伝えてくれる。彼女のフォローがあると喧嘩なども発生しにくいし、自分の言葉が足りない時でも補ってもらえて丸く収まりやすい。口に出さずに感謝しながら二人を見守る。

 ユキノはやはり悔しそうに俯いたまま、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「膝を擦りむいたくらいで、戦力外だなんて」

 力になりたいと思ってもらえるのは嬉しいが、彼は色々と気負いすぎだと思う。今日までユキノに頼りすぎた結果、こうやって彼をまた痛めつけることになってしまっているのだ。

 少しくらいヴィヴィアンを責めたっていいはずなのに、ユキノは全てを自分のせいにしてしまう節がある。そのうち溜め込みすぎて何もかも嫌になって、ヴィヴィアンを見限って出て行ってしまうなどということがあったらどうしたらいいのだろう。今更ユキノのいない生活には、戻れない気がする。

「落ち着きなさい」

 ナタリアの凛と張った声が飛んだ。ユキノがきょとんとして顔を上げると、ナタリアは真剣な目でユキノを見つめながら続ける。

「魔法が関わる体調不良を甘く見ちゃいけないわ。あんたは擦り傷すら自力で治せないほど、治癒力を前借りしちゃってるのよ。夜までまだ時間があるから、魔物が活発になる前に少しでも施錠の結界の中で体を休めてちょうだい。あたしからも、お願い」

「……ごめん。冷静さを欠いた」

 ヴィヴィアンが要らぬ心配をしている間に、ナタリアは見事にユキノを納得させた。心の中で拍手していると、ユキノは顔を上げてすまなそうにヴィヴィアンを見てから小さく頭を下げた。

「療養に専念します、師匠」

「ああ」

「でもその前に、シミ抜き教えてください」

「わかった」

 本棚から適当に魔道書を引っ張り出してきて、ユキノに魔法を教える。彼は早速実践し、魔法を成功させた。丁寧な魔法陣と正確な発音のおかげで、呪文の威力はなかなかのものだった。ユキノの血に染まっていた着物はすっかり元どおりの藍色を取り戻している。

 ナタリアが嬉しそうに笑って拍手して、ひらりと立ち上がる。そして、キッチンの棚から綺麗に畳まれたエプロンを出して着け始めた。

「ご飯はあたしに任せて、ユキノ」

「ごめん。頼むよ」

「早く調子を取り戻して、美味しいランチを振舞ってちょうだい。あんたの作るご飯は凄く美味しいもの」

「ありがとう、ナタリア」

 二人の会話を聞きながら、ユキノに起きた事態について考える。正直なところ、真っ先に嫌な予感がした。しかし、ヴィヴィアンはその理由をうまく説明できない。

 ここのところずっと治安の悪化でナーバスになっているのは自覚しているが、今回ユキノに対して感じた不安はこれまでの流れで感じていたものとは別物のような気がしてならない。ほぼ結婚が確定したということで色々思い悩んでいる様子のユキノが、些細なミスを起こす可能性はゼロではない。しかしこれは、ヴィヴィアンが思うに些細で済む程度のミスではなさそうなのだ。

 ユキノは本当にあの単純な修復呪文を間違えたのだろうか。それとも、何かに邪魔されたのだろうか。疑えば疑うほど色々な可能性を思いつく。今朝の街で、ヴィヴィアンとユキノを睨みつけていた女性が脳裏をよぎる。

 魔導士をよく思わない人も、ある程度の数はいる。ユキノがいくら誠実で人当たりのいい真面目な男だとしても、魔法を使えるというそれだけで嫌悪の対象になることはあり得るだろう。街は明らかにいつもの様子と違い、人がたくさん死んだのはもちろん、住処を失った人だってたくさんいる。人々の不満や不安は募るばかりなのだ。やり場のない負の感情を、恵まれた見習い魔導士にぶつける人がいてもおかしくはない。

 今、この家から一歩でも出ればそこは安全とは程遠い場所だ。街には様々な境遇の人がいて、彼らは決して善人ばかりではない。しかも、ナタリアのストーカーだってまだ捕まっていない。

 一人前の魔導士ではないユキノを、一人で歩かせていいと判断したのは誤りだった。

「ダンスパーティーが終わるまででいい。単独行動は謹んで、俺と一緒に行動しろ」

 そう告げると、ユキノは顔を上げて逡巡した後頷いた。あまり納得している様子ではない彼は、きっとヴィヴィアンに足手まといだと思われているのだと思い込んでいる。

「俺の目の届かないところでお前に何かあったら嫌なんだよ」

「はい、師匠」

「弟子を守るのも師匠の役目だからな」

 そう言ってみせると、ユキノはようやく少し笑った。ナタリアがにやにやしながらこちらを振り返るので、照れ臭くなって目をそらした。今のは結構クサかったと自覚している。

「立派に師匠やってるじゃない、ヴィヴィアン」

「からかうなよ」

「本当にあんたのそういうとこ、大好きよ」

 緑色の知的な目は、相変わらずからかうように笑っている。ヴィヴィアンは口角を上げてニヒルな笑みを浮かべると、それきりナタリアのほうを見ずに、出しっぱなしだった魔道書を開いた。

「あっそ。ありがとな」

「もう、可愛くないんだから」

 楽しげな彼女の声をききながら、音に関する魔法のページを眺める。防音の魔法をユキノが習得してくれたら、もっと快眠できるだろうか。言えば彼はいくらだって練習するだろうが、先に閃光や爆破を教えてやったほうが魔物退治に役立ちそうだ。

「ヴィヴィアン、これって部屋を無音にする魔法?」

 正面から魔道書を覗き込みながら、ユキノが興味を惹かれた様子で右のページを指差した。それはまさしくヴィヴィアンがいつも失敗している、部屋をひとつ丸ごと防音にする魔法だ。

「これを使えば外から何の音も聞こえない。例えばエストルみたいに、直接俺の魔力を辿って話しかけてくるようなものは別だけどな」

「教えてくれないかな。夜になると、どうしても魔物の声が気になるから」

「俺はこいつと相性が悪い。成功例は示してやれないが、それでいいなら」

「お願い」

 気配や物音に敏感なユキノのことだ、毎晩些細な音を気にしているに違いない。ヴィヴィアンは丁寧に魔法陣を描き、呪文の発音を聞かせてやり、ユキノに防音の魔法を教えた。ユキノは真面目に話を聞き、言われた通りの呪文を唱えて何度か失敗する。今回ばかりは師匠が悪いせいなので、苦笑しながらコツを伝える。

「この呪文はとにかく正確性を要する。音節の切り替わりがシビアすぎて、誰が唱えても全く同じ音になる呪文だ。俺がそういうの苦手なの、なんとなくわかるだろ」

 ユキノがふっと吹き出して、楽しげにヴィヴィアンを見た。ヴィヴィアンもにやりと笑い、古ぼけた魔道書に描かれた魔法陣を指で指し示す。

「魔法陣も綺麗に描かなきゃいけない上に、使い捨てだ。もう一度描け、この線が折れたのわかるだろ。さっきもここだったな」

 ペンで描いた魔法陣の一部が負荷に負けたかのような折れ方をしていて、ユキノがしげしげとそれを眺めている。音の魔法は、魔法陣の線にほとんど物理的に支えられているのだ。だから、使用時間が長ければ長いほど魔法陣を耐久させるために魔力がいる。

 半永久的に使える音の魔法は少なく、だいたいどの魔導士たちも月に一度は音響設備や室内の防音魔法をかけなおしている。知る限り唯一、アルティールのマスターは音の魔法と相性がいいようだった。彼の店にある音響設備は、特に魔法をかけ直さなくても高音質で臨場感ある音楽を再生し続ける。

「これでやってみよう」

 ユキノは、先ほど折れた線をやや強めに描き直して呪文を唱えた。なるほど、と思いながらそれを見守る。呪文を唱え終わったのを最後に、ヴィヴィアンは奇妙に静かな空間に驚いた。

 ナタリアがこちらを振り返って何か言っているし、外を通る魔道士がどうやら喧嘩をしているようなのだが、どちらの声も聞こえなかった。料理を作る鍋の音も、風の音も聞こえない。

「成功かな」

 ユキノの声だけがクリアに響いた。彼の立てる衣擦れの音が鮮明に聞こえるのは、周りの音が一切なくなったせいだろう。

 まばたきの音すら聞こえてきそうな静寂だった。自分の耳がおかしくなったのかと思うぐらいの完璧な無音の空間に、ヴィヴィアンは拍手することで呼吸の音以外にも音が存在することをこっそり確かめた。

「見事だ。この魔法、範囲は部屋全体じゃないな?」

「うん。全部だとちょっと力が足りなさそうだったから、このテーブルに限定した」

「賢いな。切っていいぞ、この魔法には集中力がいる」

「はい、師匠!」

 ユキノが指先で魔法陣を崩すと、途端に生活音が蘇る。壁の時計の秒針の音や、ナタリアが歩く足音、窓辺のカーテンレールが軋む音も一気に耳に届いた。無音の空間にいたことで、普段の家の中にも意外と音が溢れていることに気がついた。ユキノが作り上げたのは、本当に完全な静寂だったことを思い知る。

「午後は俺が依頼を受けてくる。帰ってきたら、また何か教えてやるよ」

「ありがとう、ヴィヴィアン」

 目を輝かせるユキノは完全にいつもの調子を取り戻していた。彼の発する魔力はいつのまにか穏やかないつもの魔力に戻っていたし、この完璧な魔法を見れば、集中力だってちゃんと保っていられることが実証された。ヴィヴィアンはほっとして、肩の力が抜けるのを感じた。

「ふたりとも、ご飯出来たわよ! ねえユキノ、何の魔法を教わったの?」

 楽しげにナタリアに魔法の成果を語るユキノを見て、ヴィヴィアンは大きく伸びをする。らしくもなく心配ばかりして、色々なことに焦っているのは自覚している。しかし、どうでもいいような毎日がちゃんと続くことだけを、ヴィヴィアンは心から望んでいるのだ。

 そのためにはナタリアが毎日笑っていてくれなければならないし、ユキノが真っ直ぐで真面目な性質を失わずにヴィヴィアンの弟子でいてくれなければならない。あとはローザがナタリアといつものように仲良しに戻って、細やかな気遣いで周りを和ませてくれれば完璧だ。

 ナタリアに手伝えと怒られたので、食事をテーブルまで運ぶ。それだけで仕事をした気になっていると、ユキノが笑いながら人数分のコップを用意してきた。

 今のところ、この食卓はいつもどおり朗らかだ。ナタリアにもユキノにも感謝しながら、ヴィヴィアンは昼食に手をつける。

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