第六十二話 夕立に打たれる
しばらく無心に彼女の頭を撫でていると、ナタリアは涙で濡れた目でヴィヴィアンを見上げた。その不意打ちにドキッとして、思わず目を逸らす。なぜこうも、女の子の赤らんだ目元は色気を孕んでいるのだろう。
「叔母さんも、いとこも、帰ってこないの」
「ああ」
「みんな遠くへ行ってしまったわ」
「……そうだな」
「もう嫌よ。誰もいなくならないで」
搾り出すような呟きは、ヴィヴィアンの胸をじわりと刺した。人付き合いが上手で友達の多いナタリアのことだ、訃報は他にも受け取っているのかもしれない。優しく気丈な彼女は周りの落ち込んでいる人を励ましつづけ、自分の心の痛みはずっと我慢していたのだろう。
思わず、ナタリアを引き寄せて少し強く抱きしめた。この優しい友人が、これ以上一人で張り裂けそうな胸を押さえて泣かないで済むためにはどうしたらいいのだろう。
弱弱しくヴィヴィアンの胸に縋る彼女がひどく儚げに思えて、真剣に悩んでいるのだがそろそろ呼吸が辛い。
「ナタリア」
「なあに」
「そろそろ腹が苦しい」
「ごめんなさい」
素直に離れたナタリアの頭を撫でる。ナタリアは涙で濡れた目で、斜め前の床を見つめていた。その細い肩は次第に震えだし、ナタリアはまた泣き出す。いつまでも止まないこの雨は、どうすれば上がるのだろう。さっきからずっと土砂降りではないか。
「……ごめんな。最近ずっと我慢させてたろ。俺やユキノやローザに、心配かけないように無理ばっかりしてたんじゃないのか」
背中を撫でてやりながら顔を覗き込むと、ナタリアは泣きながら笑ったが再び顔を歪ませる。とめどなく流れる彼女の涙を親指で拭ってやると、ナタリアは声を上げて泣きじゃくった。
抑えていた感情の爆発は、無理に止められない。暫く吐き出させて落ち着かせるしかないと判断し、優しく肩を抱いた。ナタリアの細い指が弱々しくヴィヴィアンの腕を掴むので、ヴィヴィアンは座ったままの姿勢で彼女を引き寄せる。彼女の体重がかかる位置を腹ではなく腰骨と太ももあたりに調整しながら、柔らかでいい香りのする金髪を優しく撫でた。
「ぐすっ…… なによ、ユキノ並みの、鋭さじゃない…… あんたは、鈍感なままでいて、ちょうだい。大丈夫よ、あたしは平気だから」
どう見ても平気ではない。気丈に振る舞う昨日までの様子を思い出してヴィヴィアンは胸が痛くなった。彼女をこんな風にしてしまった責任の一端はヴィヴィアンにもあるのだから。血まみれになったりナーバスになったり、ナタリアには心配をかけっぱなしだった。
「助かったよ。お前が明るく振舞ってくれたおかげで、俺らも持ち直したから」
素直にそう伝えると、ナタリアは泣きながら頷いてヴィヴィアンのシャツの背中をくしゃりと握る。彼女の震える背中を優しく撫でながら、ヴィヴィアンは深く息を吸った。
覚悟を決めよう。どんなに疲れていても、どんなに辛くても、悲しみのどん底にいてもなおヴィヴィアンの助けになってくれるナタリアを、今度はヴィヴィアンが救い上げてやらなければ。
しゃくりあげながらナタリアがヴィヴィアンを見た。ヴィヴィアンは弱りきった彼女の泣き顔を目に焼き付けながら、ついに覚悟を口にする。
「だからさ、今度は俺の番」
涙に濡れた彼女の目が、真っ直ぐにヴィヴィアンを見つめた。その赤らんだ目でじっと見つめられると落ち着かないが、彼女を落ち着かせるためにはまっすぐ向き合わねばならない。
こんなに頼られ、期待されているのだ。たまには応えてやろう。ヴィヴィアンはあまりにも、ナタリアに負担をかけすぎている。ギブアンドテイクで成り立っているこの関係では、一方的にもらうばかりではいけないはずだ。
「特別だぞ、俺がなんでもワガママ聞いてやる。今日一日だけな」
その提案に、ナタリアは鼻をすすりながら笑った。
ヴィヴィアンは経験上、泣いているナタリアにはいつもより甘くなる。そう自覚している。どうせ甘やかすなら、いっそのこと最初に恩着せがましくこう宣言しておくほうが後々面倒くさくないのではないかと思いついたのだった。
この調子で明日も明後日も抱きつかれて恥ずかしい褒め言葉で持ち上げられるのは絶対にごめんだ。ヴィヴィアンも恥ずかしいが、きっとユキノがそれ以上に気まずくなる。
「それじゃ、早速ひとついいかしら」
「おう」
「あたしに愛を囁いてちょうだい」
……来ると思った。
八割がたこのパターンだろうと思った。
彼女が泣き出したときから、もう運命は決まっていたのだ。抱きしめてやった時点で、もう毒を食らわば皿までという心境になりつつあった。だから腹をくくった。どう考えても遂行不可能な依頼も、今日だけは受けなければナタリアを安心させてやれない。
大丈夫だ。今日色々恥ずかしい思いをすれば、明日以降は今日を引き合いに出して全力で断り続ければいいのだから。
もうなんとでもなれという心持ちである。ヴィヴィアンはナタリアの潤んだ目を見つめると、静かに抱き寄せてその耳元に唇を寄せる。そうして、ゆったりと言葉を紡ぐ。
「お前のことは、ずっと俺が守ってやるよ」
大事な呪文を囁くように、一音一音丁寧に発音した。
癪なことにわかってしまう。ナタリアはいつもの無気力なヴィヴィアンが、たまに真面目だったりキザなことを言ったりするときのギャップが好きなのだ。だから魅惑の低音ヴォイスでこう言ってやれば、たぶんナタリアは真っ赤になって黙る。
ちらりと確認すれば、彼女の色白な頬はリンゴのように色づいていた。最大限、これで譲歩したと思う。頑張ったと思う。リンゴのようなのはたぶんヴィヴィアンの方だって同じことだ。
彼女に顔を見られないようにするためだけに強く抱きしめておく。もうしばらく顔を上げさせてやらないつもりだ。
胸に伝わってくるナタリアの心音が、やたら早い。というかたぶん、今は自分の鼓動だってペースを上げている。
「ばか」
胸に押し付けたナタリアの、くぐもった声が聞こえた。彼女が顔を上げそうな気配を察し、ヴィヴィアンは彼女の頭の上に顎を乗っけてそれをさりげなく阻止した。
「なんなのよ、今の。本気で愛を囁いてくれちゃって! 何よこれ、ひどいじゃない…… 心の準備が、馬鹿!」
あからさまに照れている彼女にやや満足した。(しかしひどいって何だ)
全力でキザな男を演じてみたが本当に恥ずかしいし、こんな決死のリップサービスをしだす自分は本気でどうかしていると思う。彼女の泣き顔は、それほどまでにヴィヴィアンの胸を抉り、なんとかしなければならないという危機感を煽っていたということで間違いない。
「いや、だってお前が囁けっていうから。もっと色男風に言ったほうがよかったか? 悪いな、演技力なくて」
「十分すぎるほど色男だったわよ! 卒倒しちゃうじゃない、馬鹿。あんたそんな声出せたのね…… どうして今まで隠してたのよ馬鹿!」
「普通友達にこんなキザなこと言わねえよ! エストルじゃあるまいし。つーかエストルに言ってもらえよこんなこと」
本当に仕方のない友人である。苦笑するしかない。腕が緩まった隙をついてヴィヴィアンの胸から離れたナタリアは、こちらをチラチラ見ながら満足げに微笑んでいる。何が良いのかまったくもって分からないが、ヴィヴィアンの低音ヴォイスは思いの外効いたらしい。
「はあ、はあっ、だめよ息切れしそう、さすがあたしの見込んだ格好良い男子の筆頭…… 最高よ、明日からも思い出して悶絶できるもの。人生ってすばらしいわ! 奈落の中にも光はあるのよ! 幸せすぎて鼻血出そう!」
こいつもしかしてやばいんじゃないか。いつもヴィヴィアンはこう思うのだが、周りの人たちはまるで取り合ってくれない。
なんでも他の男子たちが相手だと、たとえキュンとくるようなことを言われてもこんなに暴走せず、微笑んで照れたように目をそらすようないかにも女子らしいリアクションをとるらしいのだ。
どうしてヴィヴィアンに対してだけこんなに変人加減がフルオープンなのだろう。折角なので、もっと可愛く振舞っていただきたい。
「お前、友達に何てことやらせてんだよ。冷静になって考えてみろよ。ウィル先生が号泣するぞ。ローザにドン引きされる上に、おばさんは間違いなくあきれ返る」
「何とでもいいなさい! なんかもう今のですごく元気になったわ」
まだ赤い目元で彼女は笑った。適当にソファに放置してあったクッションを拾い上げて頬をすり寄せながら、彼女は満足げにニヤニヤしている。その顔を見て頬が緩むのを感じて、ヴィヴィアンは溜息をついた。
なんやかんや文句をいいつつ、ヴィヴィアンは彼女のこういう顔を見ないと安心できないことを自覚した。しかし、ちょっと頭を引っ叩いてやりたい気持ちも次第に膨らんでくる。
「単純だなお前はっ」
言いながら、向かいのソファに置いてあったクッションを彼女の側頭部に軽く叩きつける。叩かれてなお清々しい笑顔なのだから、救いようがない。本当に厄介で距離感の取り方が下手くそな友人を持った。
ナタリアはクッションに頬を預けながら、甘えるようにヴィヴィアンを見上げる。次はどんな攻撃がくるのかと身構えると、彼女はヴィヴィアンを見つめて夢見るようにこう言った。
「ねえ、お姫様抱っこで庭まで連れて行ってくれないかしら」
また爆弾発言だ。なんでも言うことを聞くと言った手前聞かないわけにはいかないが、十代とはいえ成人を迎える女性がこんなにべたべたとくっついてくるのは如何なものか。もちろん役得ではあると思うし、本気で嫌なわけではないが、気分が落ち着かない。
「まじかよ。落とすぞ」
「いいわ。落とされて怪我してもいい。あんたに抱き上げられて見る世界が知りたいの!」
「片付いた店の内部と小さい庭だな」
「最高じゃない! 早く早く!」
こんなにムードのかけらもないお姫様抱っこは初めてだとヴィヴィアンは思う。というかそもそも、お姫様抱っこ自体やったことがない。初めて両腕で女性を抱き上げる経験をするというのに全然心が躍らない。俺の初めてを返せと思う。
戸惑いも悔しさも一周回って平静な気持ちで、ヴィヴィアンはナタリアの背中と腰に腕を差し入れて抱き上げる。一応華奢とはいえ人間を一人持ち上げるので、気合を入れて力をかけたら思いの外軽かった。
ナタリアは嬉しそうにヴィヴィアンの首に腕を絡めてこちらを見上げているのだが、ヴィヴィアンはあえて前しか見ずに庭へ向かう。この至近距離で恍惚とした彼女の顔を見たら、絶対照れて顔に出る。
扉をどう開けるか一瞬迷ったが、呪文を唱えて静かに開く。足でやろうとか思ってしまうあたり、本当に自分はものぐさだ。両腕に大事な友人を抱えているので思いとどまったが、普段なら絶対足でやる。
ナタリアが知りたがった世界への扉が開いたのだが、少し出るのをためらった。なぜなら鬱陶しいほどの快晴なのだ。外套を羽織っていないので、もわっとした熱気が直接肌に当たって不快だ。期待に満ちた視線が下から強く注がれているのを感じるので、しぶしぶ歩く。
庭に置かれたベンチにナタリアを下ろすと、彼女は夢見心地といった表情でにんまりする。非常に単純な女だ。
庭の噴水と小さな池は、この間エストルが植物を弔った時に一緒に綺麗になった気がする。睡蓮の花が一輪咲いていた。
生垣の間からは裏通りの家が見える。その家から落ちたと思われるがれきの散乱した道を、魔導士の女性が三人で歩いていた。このところ、魔力を持たない人が屋外に出ているところをほとんど見かけない気がする。
「暑い。中戻るぞ」
首筋を汗が伝うのを感じた。ヴィヴィアンは暑いのが苦手だ。こんな炎天下に外套なしでいるなんて、不快極まりない。
「えー! 今来たばかりじゃない!」
「このまま俺が干物になってもいいのか」
魔導士の干物。魔物に大好評かもしれない、と思うとじわじわきて笑ってしまう。ナタリアに変な顔をされ、慌てて真顔を取り繕った。
「何よ、やっとあたしと一緒に居られる幸せを実感したわけ?」
見当違いだ、と言い捨てたらやっと直ったナタリアの機嫌を損ねそうだ。無言で微笑んでみると、ナタリアは照れたように笑ってそっぽむいた。可愛い。
いつでもこういう女の子らしい反応を心がけてくれればいいのにと思うが、それではいつか親友の彼女に恋心でも抱いてしまいそうだと思ってしまってため息が出る。じゃじゃ馬で無茶苦茶なところを除けば、ナタリアは明るく聡明で可愛い女の子なのだ。
この関係は本当に何なのだろう。友達にしては近すぎる、あまり考えないようにしているがもちろんそう思っている。
ナタリアが素直で無遠慮だからこんな距離の近すぎる関係が出来上がるのだと思っていたが、それを受け入れてしまう自分の方にもかなり問題があるのではないか。しかも、今までこれで通してしまったのだから今更拒否できない。もう面倒だから考えるのをやめようか。それにしても暑い。
ちらりとナタリアの方をみると、汗ばんだ細い首筋が目に入る。思わず目をそらした。
「やっぱりちょっと暑いわね」
「戻ろうか」
戻るときは抱き上げることを要求されなかったので、ヴィヴィアンはゆっくり歩いて店の戸を開けた。ナタリアがすぐについてきて、二人で店に戻る。
「ヴィヴィアン、隣で編み物してもいいかしら」
「いいけど俺の髪は編むなよ」
「じゃ、道具持ってくるわ」
ナタリアは軽やかに階段を駆け上がり、ヴィヴィアンの隣の部屋に入っていった。ヴィヴィアンのものでも父母のものでもない部屋は、ナタリアとローザとユキノで片付けてもらった部屋のうちの一つだ。
戻ってきたナタリアは真っ白な糸の玉を持って、籠に入った編み物セットを腕に下げている。何を編むのだろう。
「今ね、ローザに服を作っているの。飾りのレースを頑張って編むわ」
「へえ。そんなものまで手作り出来るんだな」
「おしゃべりしながらちまちま編んでいくの。だんだん模様が出来ていくの、楽しいわよ」
「じゃあ見てる」
彼女の繊細な指先は白い糸をたぐり、複雑な動きを機械的に繰り返して形にしていく。細いかぎ針が行ったり来たりを繰り返すごとに、少しずつ編み目が増えて魔法のように形が現れる。
時々ヴィヴィアンになんでもないような雑談を振りながらも、ナタリアの手が止まることはない。彼女はものすごく作業が早かった。いつも制作されている彼女の作品がどんなふうに出来ているか見たことがなかったので、ヴィヴィアンはしばしその手の動きに見惚れた。
なんとなくロジェの気持ちがわかる気がした。どうやったらこんな風に効率よく無駄のない動きで、なんの変哲も無い素材を思い通りの形にできるのだろう。原理が気になるかもしれないが、聞くのは面倒くさい。
「ふふ、どうしたのよ。ずっと見てるじゃない、珍しいわね」
「才能だよな。すげえ。ロジェの織り機みたいだ」
ロジェが都市の大工場で見学してきた織機を模して作った大きな機械は、ティエール家の一階にある。ロジェの小屋には収まり切らず、本邸のほうに置いてあるのだ。
「あれ便利だからたまに借りてるわ。もう少し大きな布を織れる新作を、できれば年内に作って欲しいってリクエストしてるの」
「けどあいつ、色んなもんに手を出しては試行錯誤しているからなあ。たぶん今別のもんに夢中だろ」
「そうなの、あの子忙しいのよ。ロジェが一日中寝たりぼーっとしたりしてるところなんて見たことないわね」
「それは俺に対する皮肉のように聞こえるが」
横目で彼女を見れば、指先を休めないままナタリアはいたずらっぽく笑った。彼女の手で織り成されたレースの帯はもう手首に巻いて結べそうな長さになっている。
「あんたのだらけ具合は先生たちが嘆くレベルよ。最近はよく働いてくれてるけど、基本的には才能を文字通り眠らせまくってるじゃない。本体とともに」
「本体って」
思わず笑ってしまい、ナタリアもつられて笑った。笑ったその一瞬で手元が少しだけ狂ったが、また制作が再開される。さくさく編まれていくレースは更に長さを増していった。しばらく彼女のレース編みを観察しているが、意外と飽きない。
しばらくたわいの無い話で談笑していると、ふと空気の中に冷たく澄んだ冬の気配を感じた。その年初めての木枯らしを身に受けた時と似た感覚に、少し背中が震える。どうやらユキノが近づいているらしい。




