第六話 雨音
暫くの間、ヴィヴィアンはユキノの消えていった方を見つめていた。もしかしたら戻ってくるかもしれないと思ったのだ。自分でも何故待とうとしているのかと、馬鹿げた気分になった。
自分が追い出したのだ。冷たい態度で弟子入りを断り、雨の中を駆けていく彼を追いもしなかった。それに今更戻ってこられても、また弟子入りを渋ることは間違いない。
それでも、なんとも情けないことに、ヴィヴィアンは彼を見捨てるという行為をきっぱりと為せなかった。だから面倒なのだ、少しでも人と関われば情がうつってしまう。
立ち上がって依頼用の箱の中身をチェックし、一枚の紙切れを拾い上げて店に戻る。依頼は近所の配管工からだ。工事の手伝いを頼みたいということなので、仕事着に着替えて出かけることにした。
残っていたのはヴィヴィアンの父が使っていた傘だ。開いた傘には大きな穴が幾つも開いていたので、面倒臭いと思いながら修復の呪文を唱える。防水性もなくなってきていたので、撥水の呪文もプラスしておいた。魔法は上手くかかり、傘は新品より性能がよくなった。しかし、それでもヴィヴィアンの心はあまり弾まない。
仕事着の上着は二種類あるが、あまり悩まずにジャケットタイプの方を選び取った。黒無地のシンプルなジャケットだが、右肩に「comodin」という、店名の刺繍がしてある。流れるような筆記体の刺繍は、ヴィヴィアンの母が魔法でやった。軽いし袖をめくってボタンで留められるようになっているので、こういう夏期の作業では便利だ。
もう一つあるのは外套で、これは本当に魔力を必要とする大掛かりな依頼が来た時にしか着ないものだ。配管工の手伝いなら前にも何度かしたが、特に大掛かりな魔法は使わずに済むことが多いので、外套は使わなくて良いと判断した。
「……変かな」
鏡の前で呟いた。上と下のバランスが良くないので、ズボンを変えたほうが良さそうだ。どうせ地下に行くのだし、ズボンなど気にも留められないだろうが、一応仕事をしに行くので気になってしまう。
ズボンを白のスキニーに変えてくると、先ほどよりは見栄えが良くなった。傘を差して店を出て、魔法陣を描いて施錠魔法をかけてから指定の場所に行く。
「やあヴィヴィアン、依頼に気づいたんだね。降りて」
配管工は気さくな笑みを浮かべ、ヴィヴィアンを地下水路に招き入れた。くしゃくしゃした白髪混じりの茶髪を掻きながら、配管工はこちらを手招いている。そのタータンチェックのシャツとアイボリーのつりズボンには、かなりの泥汚れが付着している。彼はずるいことや誤魔化しが嫌いで、真面目に働く人だ。だからこうして時々は何でも屋の手を借りながらも、与えられた仕事を十分にこなす。
はしごを一段一段降りていけば、特有のよどみきった臭気に気持ちが悪くなった。持っていた傘は路上に放置するわけにもいかず、とりあえずはしごに引っ掛ける。
「相変わらず最悪な職場だ」
思わず呟くと、配管工は笑った。地下水路の壁には等間隔で燭台が設置してあるが、蝋燭の明かりは弱弱しいものだから、足元がよく見えなくて危ない。
「今日も上司がサボりだからね。帰ったら上へはこの依頼料の倍請求してやるよ。そうしないとやってられん」
配管工は足元で何かやり、唐突に明かりをかざしてきた。どうやら足元にランタンがあったらしいが、ヴィヴィアンは暗所での視力が特に悪いので気づかなかった。明かりに照らされた水路に流れる水は濁り、よどんでどろどろしていた。じめじめした空気と臭いに耐え切れなくなり、ヴィヴィアンは呪文を唱えて空気を清浄化してみた。
「あ、今回の報酬いくらですか」
「銀貨二枚でどうだね? これだけしかやれなくて悪いな」
銀貨二枚あれば数日は凌げる。後は他の仕事を見つければ問題はないから、ヴィヴィアンは頷こうとした。しかし、仕事を見つけられない可能性も考えて、少しだけ要求を高くしてみる。
「んー、じゃあ少しだけランクアップしてください。銀貨三枚にして、後で上からふんだくる分を増やすっていうのは?」
「ふむ、いいアイデアだ。君はいつも良く働いてくれるから、文句はないよ」
「じゃあ、取り掛かりましょうか」
大概の場合、ランクアップの申請は認められる。ヴィヴィアンはポケットから領収書として使っている上質な紙と愛用の万年筆を取り出し、小さく魔法陣を書きこんで自分の名前を描いた。そして、万年筆を配管工に渡す。
「誓約書にサインを。後ほど領収書に変化します」
「毎回その瞬間が楽しみなんだ。魔道士は本当に面白い」
配管工は上機嫌でサインし、支払い金額を記入した上でヴィヴィアンに紙とペンを返した。それをジャケットの内ポケットにしまうと、ヴィヴィアンは配管工に続いて地下水路を遡っていった。
「今日はね、水路の分岐点を増やす魔法をかけてもらいたいんだ」
彼に案内された場所は、チョークで大きくバツ印が描いてある壁だった。
「この壁を掘り進んで金物屋の路地裏まで水路を引きたいんだ」
「とすると、結構長くなるな…… 全体図はありますか? 距離までわかるともっといいんですが」
ヴィヴィアンは配管工に渡された地下水路の全体図を元に、空中に大きな魔法陣を描きすすめていく。魔法陣は淡い黄色に発光しながらその場に留まり、ヴィヴィアンの命令を待っていた。配管工は楽しそうに魔法陣が形成されていく様子を眺めている。
やがて距離や深さのイメージが終わると、魔法陣は完成する。ヴィヴィアンは、今度は右手の人差し指を今描いたばかりの魔法陣の縁にくっつけながら呪文を紡ぐ。
「……ティアロ・ヴィル・レウツ」
方向指定もあったので、長い長い呪文になった。二十の単語による、掘削の呪文だ。掘削の呪文単体なら簡単なほうに分類されるが、深さや距離に指定をつけるとなると途端に長くて難しい呪文に変貌してしまう。
ひときわ明るく光った魔方陣は、壁に焦げ付いた。そして、じわじわと壁を崩し、石造りの壁が削げたところで勢いよく掘削を始めた。
掘った時に出た土は、全て森の奥に積み上げることを命令してある。森の奥に拓けた場所があるので、そこに積んでおけば問題はない。
「そろそろ止まるかな」
「……ヴィヴィアン、お前は本当にすごいな」
「これくらいの呪文だったら街のほかの魔道士でもできますよ。まあ、正確な場所を掘れるのはごく少数でしょうけど」
やがて掘削の音が止まった。しかし、舗装していない地下水路は、水を吸ってしまって水路の役割を果たしていない。
「ここからはこれから来る仲間と共同でやるよ。本当に世話になったね」
望みがあれば料金を割り増ししてこの先の作業をやってもよかったが、たぶん配管工には割り増しできるほどの所持金がないだろうという予想がついた。
「報酬の銀貨三枚だ。ありがとさん」
配管工は財布から銀貨を三枚取り出し、ヴィヴィアンに渡した。ちらりと見えた財布の中身には、銀貨が四枚しか入っていなかった。
「確かに受け取りました。領収書になります」
ヴィヴィアンは持っていた契約書を配管工に渡した。配管工の手の中で、ヴィヴィアンが書いた文字は流れるように変化していって、最終的には契約書から領収書に文面がチェンジした。その最後の瞬間まで、配管工は食い入るように見入っていた。
「今日も楽しいもの見せてくれてありがとうな。また頼むから」
「ありがとうございます。それじゃあ」
ヴィヴィアンは薄暗い地下水路を歩き、傘が引っ掛けてあるはしごまで一人で歩いていった。水路から出ると大雨で、地下で作業する配管工が心配になってきたので、こっそり魔法を使って水路の入り口に真空の蓋をしておいた。これで地下水路に浸水して配管工が溺れることはないだろう。簡単な呪文だから、たぶん彼の仲間が入ってくるときには破れてしまうだろうが。
店に帰って、まずはユキノがそこらで様子を窺っていないかどうかを確認した。それらしき姿はどこにも見えない。びしょ濡れの身体で酒屋に駆け込んでいく若者が一人見えた以外は、まず人の姿がなかったのだ。
鍵の呪文を解除し、傘を畳んで傘立てに入れた。依頼受けには何も入っていなかった。ジャケットを脱ぎながら、報酬の銀貨を使って何を買うか考えた。夕飯は何にしよう。
しばらく食卓に伏せていたが、やがて眠くなってきてソファに移動した。銀貨をつまみ上げ、手に握りこんで目を閉じる。起きたら夕飯を買いに行こう。
ソファに寝転がって目を閉じ、しばらく虚ろな感覚を彷徨っていた。やがて、誰かが来たという合図の呼び鈴で深淵から浮上する。
「はい、どんな御用でしょう」
起き上がって髪を整えながら、一度は脱いだジャケットを再び羽織る。上がってこないところを見ると、どうやらまた依頼人らしい。
そう思って玄関まで出て行くと、見知った顔にヴィヴィアンは思わずため息をついた。
「何だ、ローザか」
どうやら傘を返しに来たらしい。傘を口実に明日もナタリアが飛び込んでくることを予想していたので、少し意外と言えば意外だった。
まあ、どうせナタリアは傘があっても無くてもここに来ただろうとは思うが。
「夕飯の買出しをした帰りなの。傘も借りてたし、ユキノさんが心配で来ちゃった。うまくやってる?」
ローザは自分のものらしいライムグリーンの傘を差していた。そして、ヴィヴィアンに二本の傘を差し出し、にこりと笑う。
その真っ直ぐな笑顔を見ると、嘘はつけなかった。けれど、嘘をつくのと同じくらい、本当のことを言うのも嫌になった。
傘を受け取りながら、なるべく自然にローザから目をそらす。
「……あいつなら出て行った」
「えっ」
「一応引き止めたけど、行っちまった」
顔を見なくても、ローザがどんな表情で固まっているかはだいたい解っていた。
「行ったってどこに? ユキノさん、泊まるところなんて」
「あいつ金も置いてった。つか、てっきりお前んちにいるんだと……」
しばらく返答はなかった。不安になってローザを見ると、彼女はちょっと泣きそうな目をしていた。
「ヴィヴィアンがあんな冷たい態度ばっかりとるからだよ」
わかってはいた。けれど、実際にそう言われると刺さるものがあった。ヴィヴィアンは暗い赤色の髪をかき上げ、言い訳を探す。ちらりとさえ、もっともらしいことが浮かばない。
「しょうがないだろ」
かろうじてそれだけ言い返した。ローザはヴィヴィアンを不信感たっぷりに見つめ、ライムグリーンの傘の柄を指の色が変わるほどきつく握り締めていた。どうやらヴィヴィアンは今の一言で、温和で優しいローザをとことん怒らせてしまったようだ。
「何がしょうがないの? 遠い国から、わざわざヴィヴィアンだけを頼ってきてくれたのに。中途半端な気持ちでヴィヴィアンに会ったんじゃないのにっ」
徹底的にユキノの肩を持つローザに、何だか居心地が悪くなる。いつだって中立の立場でいてくれた彼女に、裏切られた気分になった。そうだ、思ってみれば彼女は、今までだってこうやっていざこざが起きたときに誰の肩も持たなかったはずだ。
「あいつの言い分がそうなら、俺だって同じことが言える。俺も中途半端な気持ちであいつを弟子にすることはできなかった」
本心だが、言わなければ良かったと思った。ローザは俯いて、歯がゆそうに表情をゆがめる。傷つけたことは明白だった。感情的になりすぎたのだ。
「……そろそろ魔物が出る頃だぞ。送ってく」
ローザは黙って頷いた。そして、ヴィヴィアンが施錠魔法をかけて歩き始めるまで、じっと挙動を窺っていた。
歩き始めてからも彼女はずっと無言だった。雨の音だけが空しく響く。本格的に気まずくなった空気をどうしたらいいのか途方にくれているうちに、アイアランド家まであと少しになった。角を曲がって少し歩けばもう彼女の家だ。
「気をつけろよ。何かあったら手紙よこせ」
何か言わなければいけないと思い、話しかけてみた。ローザはこくりと頷いた。ここでいう手紙とは、ヴィヴィアンに依頼をするための紙だ。魔法陣が描いてある紙で、送り主が手紙を放り投げて飛ばせばヴィヴィアンの元にたどりつくようになっている。
「十時でよかったか、依頼」
「……うん」
家の前についた。ローザは玄関のドアを開け、小さくヴィヴィアンに礼を言って手を振った。ヴィヴィアンも手を振り返し、家に戻らずに商店街へ向かった。
パンを買ったが、その他にはもう食材が殆ど売り切れていたので、家にあるバターをつけて食べることにする。幸い昼食が豪勢だったから、ヴィヴィアンはさほど空腹を感じていなかった。
雨はどんどんひどくなっていた。雷も鳴り始めた。店に入ってすぐ、ヴィヴィアンはテーブルの燭台に魔法で火を灯した。本来なら蝋燭がある位置に、火だけが留まって揺れている。こうすれば蝋燭が切れる心配はないし、勝手に消えて困ることもない。
しばらく燭台の火を見つめ、物思いにふける。屋根や窓に叩きつけるような雨の音を聞きながら、買ってきたパンを食べるか食べないかで迷う。
「ヴィヴィアン」
後ろから名前を呼ばれた気がして振り返る。振り返っても窓があるだけで、特に誰がいるわけでもない。一応窓に歩み寄ってみたが、何も変わった様子はなかった。
「……何か調子狂う」
それでなくとも、ローザとあんな空気になってしまった後なのだ。ヴィヴィアンは深く思考の渦にはまっていく。魔道書でも読もうかと席を立ち、本棚を探っていると、聴覚に何か叫び声を捕らえた。魔物の吠え声だ。
時刻は九時で、アイアランド家からの依頼の時間はまだ一時間も先だった。けれど無性に不安に駆られ、ヴィヴィアンは仕事用の外套を羽織った。防水呪文をかけて、雨の中でも傘を差さずに戦う用意を整える。眼鏡にも防水呪文をかけ、ヴィヴィアンは家を出てすぐに施錠魔法をかけた。