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エンカンタリア  作者: 水島佳頼
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第五十八話  面倒くさい師匠

 ヴィヴィアンは微笑し、ユキノと自分の合作が思いのほか上手くいったことを心の中でだけ喜んだ。魔道士同士が一緒に魔法を使ってその魔力が暴走しないのであれば、それは共に闘ったり作業したりする上で非常に良いことだし、練習を重ねていけば意思疎通も簡単に出来るようになる。

 言うまでもなく、ヴィヴィアンとエストルと魔力の相性は抜群に良い。炎と植物という基本的に敵対するものを扱うヴィヴィアンとエストルだが、根本的な部分で波長が合うのだ。魔力の相性は、そのまま人間としての相性だともいえる。

 かといって、弟子に面と向かって『自分たちの魔法の相性はとてもいい』と言ってしまうのは恥ずかしい。何だかそれでは師弟の絆が深まってしまったようではないか。

「ん……?」

 そこまで考えて、『深まってしまったよう』ではなく本当に絆が少し深まったのは事実だろうということに思い至ってしまってヴィヴィアンは複雑な心境になる。


 彼は弟子であり友達ではない。


 当たり前のことを忘れそうになっていた。

 どんなに相性がよく、師弟として絆が深まっていたとしても、彼は故郷に帰ったらもう戻ってこない。いつかは成長して自分のもとを巣立っていくのだ。

 エストルのように放浪のあと必ずこの街に帰ってくるのとは違い、ユキノの帰るべき場所も守るべき家族もここにはない。

「なあヴィヴィアン、この『同時に反属性の呪文を扱う場合、接続詞のほかに補助呪文を用いる場合がある』って、補助呪文は基本的に使わないってこと?」

 じっと考え事をするヴィヴィアンに、ユキノは嬉々とした様子で話しかけてきた。

「ん? ああ、それか。複雑で大きい魔法のときは補助呪文があったほうが格段に上手くいくってこと。補助呪文を使うかどうかは好き好きだな。嫌う人は嫌うし、なんでもない魔法にまで補助呪文を使う人もいる」

 この短期間でユキノはどんどん使える人材になっていき、一緒に戦ったときは息の合った動きでお互い何度となく命を救いあった。そうしているうちに、いつしか彼の存在は友達のようになってしまっていた。ヴィヴィアンは今、それを思い知ったのだ。

 それではいけないだろう、ユキノは何年かしたらいなくなるのだ。言うならば、彼とのこんな奇妙な関係は期限付きだ。

 終わりの見えている人間関係なんて初めてだ。

 それも、期限が来て別れる相手は自分の教えで成長し、自分の考え方を受け継ぐ相性の良い人間なのである。

 全く想定外のことだったが、ヴィヴィアンはただの依頼だったはずのこの仕事にかなり感情を持ち込んでしまっている。彼が帰って長老の後を継ぎ、二度とこの街に現れないと考えると、それは寂しいとほんの少し思ってしまうのだ。

 仕事なら、報酬のことだけ考えていればいい。しかし、ユキノを育てるこの仕事に報酬は要らないとヴィヴィアンは本気で思っているのだ。金貨十二枚で引き受けた仕事だが、それもそっくりそのまま故郷へ帰る資金にさせるつもりでいる。

 雨の夜に路地裏でユキノを拾ったときから分かっていたことだった。自分はどうやら、仕事とプライベートを切り分けるのが特別に下手な人間らしい。だからユキノをエストルやロジェ達と同格に見てしまうし、弟子という存在をどういう距離で扱うべきかでこんなに悩んでしまう。

 小さく溜息をつく。何をこんなに考え込んでいるのだろう、自分は。自分自身の思考回路が面倒くさくなって、ヴィヴィアンは考え事をするのをやめる。

「ユキノ、故郷と連絡を取る呪文をまだ教えてなかったな」

「え? 今から教えてくれるの?」

「信頼できる人間に手紙を書け。魔法陣を書き込んでやる。送ったらその紙がそのままナタリアの部屋に描いてある魔法陣と同じ働きをするから、失くさないように念を押しておけ」

「わかった!」

 依頼書に使う紙を渡してやると、ユキノは喜んで手紙を書きはじめた。そんなユキノを見ながら、ヴィヴィアンはひっそりと深呼吸する。

 何にせよ、彼がここで力をつけて帰ることは確定しているのだ。それまでの彼の扱い方や帰るまでの期間については、とりあえず後回しにしたほうがいいかもしれない。

 きっとヴィヴィアンは魔物の急激な増加で神経質になっているのだ。自覚できるほどだから相当だろう。

 真剣に手紙を書いていたユキノを見ていると、彼はふと顔を上げて手を止める。

「あのさ、ヴィヴィアン」

「何だ」

「さっきから何を考え込んでるんだ?」

 まっすぐな視線を真正面から受け止めてしまい、ヴィヴィアンは一瞬ひるんだ。どうしてこうも測ったようなタイミングで彼はこんなことを言うのだろう。

「いや…… お前が帰る日のこと、考えてた」

 つい本音をこぼすと、ユキノは驚いたように数回だけ瞬きをした。それから、大きな青い目を翳らせて黙ってヴィヴィアンを見つめる。自分もこの困惑が顔に出ているとは思うが、彼もまた複雑な表情をしていた。

「いつになるか分からないが、何年か以内にはお前を送り出す日がくるから。それを決断するのもきっと俺だし、故郷へ無事に送り届けるのも俺の仕事だ」

 沈黙が長くなるのが嫌で、ヴィヴィアンはそう言った。とりあえず口を開いてしまったが、思ったことを中途半端に口にしただけになってしまう。何が言いたいのか自分でも分からなかった。

 ユキノはヴィヴィアンから視線を外した。彼はそうして少しの間だけ目を伏せていたが、再びヴィヴィアンを見て微笑んだ。

「なんか寂しいな」

「……あのなあ」

 何もこんなところで気が合わなくてもいいではないか。ヴィヴィアンが言えなかった感情を、ユキノは簡単に口に出してしまった。

 この素直さが彼の良い所でもあるが、今のタイミングでそれを言われたヴィヴィアンは言葉に詰まってしまう。

 友達にならないために距離をとって壁を作り、完全に師匠という立場に徹しようかと思っていた所だというのに。

「わかってるよ。立派になって、堂々と胸を張って帰るべきなんだ。でもここの人たちみんな優しいし、俺はこの街にも居場所ができちゃったから。それも、こんなに早く」

 ユキノはヴィヴィアンの困惑した胸中を知ってか知らずか、少し寂しそうにそう切り出した。

「ここではみんなが俺の存在を認めてくれるし、倒れたり怪我したら心配してくれる。料理も美味いって残さず食ってくれる。みんな大事な友達だよ。ヴィヴィアンだって、最高の師匠だ」

「一日ぐうたら寝てる奴がか?」

 買いかぶりすぎだ。そう思いながら呟くと、ユキノは苦笑する。

「言うほど寝てないじゃん、最近」

「まあな。でも平和になったら」

 なんとしてでも平和にしたいが、魔物の増殖を抑える手段を見つけない限りは眠れない日々が続くのかもしれない。魔道士としてユキノが成長すれば結界を貼れる範囲も広がって万々歳だが、相棒がいなくなったらヴィヴィアンはひとりで魔物と戦わなければならないのだ。それはとても厄介なことだと思う。

 かといって、ユキノに帰るなとは言えないのだ。また考え込んでしまうと、ユキノはいたずらっぽく笑った。

「……まずはそっちだな。ヴィヴィアンが最高の師匠からちょっと駄目な師匠にランクダウンできて肩の荷を降ろせるように、魔物を退治しなきゃ」

「何だよそれ」

 思わず笑った。肩の力が抜け、更に笑いがこぼれてくる。そして、悟った。難しく考える必要などないのだ。

 ユキノはヴィヴィアンがどう動こうとちゃんとついてくるし、別れが来たとしてもそこで縁が切れるわけではない。

 やはりヴィヴィアンは疲れているし、過敏になっているのだ。いま悩むべきことは、ユキノがいなくなることではない。

 少しのあいだユキノはヴィヴィアンに釣られて笑っていたが、やがて姿勢を正してこう言った。

「俺、いつかイリナギに帰るよ。だけど、ヴィヴィアンは一生ずっと俺の師だ。俺が死んだとしても、ヴィヴィアンがいなくなったとしても、ずっと」

 自分がどんな反応をしたのか、まるで自覚がない。

 まさか彼がそんなことを言うと思わなかったが、そう思う反面彼らしい言葉だとも思った。

 彼がとても義理堅く、受けた恩を大事にする男だというのは分かっている。しかし、すでに自分が彼にとって一生ものだと言われる存在なのだとは思っていなかった。

「いつかお前が俺を超える日が来るとしてもか?」

 何と返していいか分からずに、やっと振り絞った言葉だった。ユキノはそれを聞いて無邪気に笑うと、マグカップの氷を指で転がしながら穏やかに言葉を紡ぐ。

「ヴィヴィアンだってそうなんじゃないの? 街で一番って言われたって、魔法の先生や自分に魔法を教えてくれた人は今でも尊敬してるだろ」

 彼の言うことは当たり前だと思ったが、その当たり前をこの関係にも当てはめるのならば自分は尊敬される立場なのだ。すごいだとか格好いいだとか言われるだけでなく、教え子にとって死ぬまで忘れない人間であるということなのだ。

 何だか変な感じがする。こんなに真正面から尊敬の意を示されたことがないので、くすぐったい。

「……そうか、俺はそういうポジションなのか」

「あんまり自覚してなかったみたいな言い方だけど、それって俺があんまり弟子らしくない態度だから? それちょっと気にしてたんだよね、俺も」

 ユキノは首を傾げる。この聡い弟子には、どうやらヴィヴィアンの考えていることが分かってしまうらしい。いや、単に自分が感情を声に現しすぎているのかもしれない。

「それなんだよユキノ。俺もあまりにも師匠らしくなさすぎるから、お前の扱いを考えていたところ」

「変にへつらったらヴィヴィアンが鬱陶しがるだろうと思って、敬語とって接してたらそれが定着しちゃって…… 思ってみれば師匠にタメ口ってどうなんだろう」

「俺はあんまり堅苦しいの好きじゃないから、言葉に関してはこのままでいい」

「そっか、わかった」

 ユキノは頷いたが、ヴィヴィアンとしてはまだ問題がある。言葉遣いだけではまだ根本的に解決したとはいえないのだ。

「なんつーか、対等なんだよ関係が。言葉だけじゃなくて」

「対等なのってやっぱりまずいかなあ? だけど、弟子は俺一人だろ。だったらヴィヴィアンがやりやすいように自由に師弟関係を作ったらいいと思う。俺は師匠の方針に従うから」

「お前はそれでいいのか?」

 そう尋ねてから、師匠は自分なのだから決定権があって当たり前だということに気づく。これだって、すでに対等な関係が位置づいてしまっているからこその言動だ。

 ユキノはくすくす笑った。彼が笑うときの顔は本当に楽しそうで、見ていて安心する。

「誓約書の最後の言葉にあったじゃんか。『魔法は楽しく使うこと』って。ヴィヴィアンが俺に教えるために威厳たっぷりに接しているうちに、魔法使うのが楽しくなくなっちゃったらそれは嫌だから。今みたいに、楽しく学んで力になっていくなら俺だってそのほうがいいし」

 思わず溜息が出た。この弟子は本当に出来た弟子だ。

 決めたではないか、彼をちゃんと育てて一人前にすると。全力で彼の師匠をやると誓い、どんなことがあっても彼の誠意に答えようと決めたのだ。それが、彼の扱い云々でこんなに揺れているようではいけない。

 もっとしっかりしなければ。

「わかった。真面目に楽しくやろう。それが一番だ」

「よし! それじゃ続き!」

 ユキノは嬉しそうに笑うと、マグカップをよけて手紙を出してきた。文面はもう書き終わっているようで、下の方に余白があった。そこに魔法陣を描くことになるのだろうと、ユキノはわかっていて余白を作っておいたのだろう。感心だ。

 ヴィヴィアンは身を乗り出して、ペンをとった彼の手元を覗き込んだ。インク瓶を丁寧にあけて、彼はペン先をゆっくりとインクに浸す。

 難しいことを考える必要はなかった。この弟子はあまり手をかけずとも、勝手に育ってくれるのだから。

「偉いぞ、言わなくても余白を作ったんだな。そこに、まずは基本の魔法陣を描け」

「はい、師匠!」

 元気良く返事をしたかと思えば、真剣な顔で紙に丁寧な円を描くユキノ。手先が器用なのもあってか、最初に見たときよりもだいぶ円を描くのが上手くなっている。

「描けたらデミエルの定理を表す正の星形と、無属性魔法の強化として菱形を描きいれる。こことここだ」

 彼の描いた魔法陣に指を触れないようにしながら指し示し、彼の挙動を伺う。ユキノは一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに魔道書を引っ張ってきて索引からデミエルの定理を調べ始めた。

 その動作の手馴れているところを見ると、彼は今までたくさんの調べ物をしてきたのだろう。そして、大家族で貧しいながらも、知的で心の潤った生活を送っていたに違いない。

「デミエルの定理は…… 物質転換の掟を効率的に文章化する際に要する。えっと、それってつまり…… この魔法で俺の声や振動をあっちに届けて、向こうからも同じように声をもらうから? それが『物質転換』に引っかかるわけか」

「その通り。これをもっともっともっと複雑にして、もっと高度な魔法を使えるようになれば応用として遠くの町に行くこともできる。ただし、暫く魔法が使えなくなるぐらい魔力を多用するがな」

「すげえ…… でもそんなに魔力使うなら帰っても村を護る役目が果たせないね」

「そうだろうな。だから俺はこの魔法をもっと極めて、お前を送り出せるように訓練する」

「……ヴィヴィアン」

「何も心配するな。俺がちゃんと故郷に帰してやる」

「ありがとう。俺がんばる」

「続けるぞ。今度は、この線の交わりに被るように小円を三つ入れる。円同士は接するように、けど交わるのはだめだ」

 コンパスをあえて使わせないのは、フリーハンドで上手く円を描けるようになっていたほうが後々便利だからだ。彼はこの作業にもっと慣れなければならない。

 実戦ではコンパスを備えていることなどないだろうし、そんな道具で悠長に魔法陣を描く暇はない。正確さよりは迅速さが求められる場なのだ。

「わ、ちょっと歪んじゃった」

「指で直せ。消したときのように、魔力を込めてなぞる」

 自分がそれをやってやるのもよかったが、これは彼にすべてやらせたい。ヴィヴィアンは腕を組んだ状態で彼のすることを見守った。

 慎重にインクの線を指で触り、彼はゆがんだ線を見事な円にした。ほっとした様子の彼を促し、次に進む。

 ヴィヴィアンの目から見ても十分綺麗に仕上がっていると思うその魔法陣を、几帳面なユキノは少しでも線がゆがむたびに指先で慎重に直していた。そうして、少々複雑な魔法陣はほどなくして完成した。直した跡が少しだけ見えること以外は、完璧な線だ。

「出来たな。それじゃあ転写」

「転写?」

「媒体は二つないとだめだろ、声を送るほうともらうほうと」

「あ、そっか」

「また描いてもいいぞ? けど、同じものを転写して作るほうが労力も少ないし精度も高くなるんだ」

「転写の仕方を教えてください、師匠」

「うむ」

 師匠と呼ばれたので、わざとらしく胸をそらし、腕を組んだままゆっくりと頷いてみる。もちろん冗談のつもりだ。

 ユキノはくすりと笑い、ヴィヴィアンも口の端をにやりとゆがめる。

「俺は手をかざして、その手から拾った魔力を記憶と手のひらを媒体に移してる。だけどお前はちょっとまだ無理そうだから、紙自体を使おうか。もう一枚の紙を出してみろ」

 差し出された真っ白な紙を受け取って、ヴィヴィアンは彼が描いた魔法陣の上にかぶせた。

「このままなぞれ。消したときみたく、指に魔力を込めて。浮き上がって来いって念じながら」

 ユキノはヴィヴィアンが言うとおり、白い紙を慎重に指でなぞった。指でなぞった下から、インクの線が少しずつ浮き出てくる。その様子は、まるでユキノが白い紙に指を這わせただけで黒の細い線を描いたかのように見えた。

「出来た!」

「ここから別の魔法陣にしていくぞ。手紙のほうに、黒の小円をふたつ。お前が持つほうには負の星型をふたつと正方形をひとつ。さあ、どこに入れる? ヒントはデミエルの定理の応用編、物理転換の強化」

 それぞれの紙を指しながら言うと、ユキノは難しい顔をして考え込んだ。真剣に二つの紙を見比べ、指で線をなぞってみたり魔道書を開いてデミエルの定理のページを調べたりしながら、彼はううんとうなる。

「難しかったら別に使わなくてもいいんだぞ。ただ、ものすごく回りくどい方法で魔法を使う羽目になるけど。覚えちまえば効率よく魔法が使えるし、楽だからな」

「効率よく楽をするんだな!」

「そういうこと」

「これは、ここに置けばいいのかな」

「いい線行ってるぞ。だが、その二重円はなんのために描いたか思い出せ」

「えっと…… あ、そうだ。これに他の線を貫かせたら意味が変わるんだ」

「そう。触っちゃいけない線は無視、消去法だ」

 ユキノはひたすら線の意味を理解しようとし、わからなくなったら魔道書に戻って無言で考え続けていた。その様子を見ているとめまぐるしく走る彼の思考回路が分かるようで、ヴィヴィアンも無言で彼の様子を眺めていた。

 やがてユキノは何かどうしても解らない壁に行き当たったようで、神妙な面持ちで顔を上げた。そして、ヴィヴィアンを真っ直ぐに見て首を傾げる。

「無属性魔法のために描いたこの線、触っても大丈夫なの?」

「それは教えてなかったな。無属性魔法のこの形は、他の線に侵食されても干渉を受けない。無属性だけの特例だ」

「じゃあ、こことそっちだ!」

「正解」

 ユキノは楽しげに魔法陣を完成させていった。ヴィヴィアンはその様子を見守りながら、彼のこれからの成長について思いを馳せる。彼はきっと、教えれば教えるほど伸びていくのだ。

「できた!」

「仕上げに呪文をかける。この呪文が終わったら、手紙には防水呪文もかけておけ。消えたら敵わないからな」

「はい! 師匠」

 相手に届くほうの紙には呪文を唱えなくても作動するような仕掛けを施すから、少し呪文が違う。ユキノにその点を説明し、魔道書にある呪文の発音を丁寧に教えた。何度か練習するとまずまずの響きになったので、本番に挑戦させる。

「失敗したらやりなおし効く?」

「そうだな…… 失敗の程度による」

 ユキノは真顔で黙り込み、静かに目を伏せてじっと何か考え込んだ。ヴィヴィアンの講義を思い返し、集中しているのだろう。

「よし、やる」

 凛とした表情で、ユキノは魔法陣を眺めた。そして深呼吸すると、丁寧に呪文を紡ぎだす。時々発音が危ないところがあったが、まあまあ良かった。これなら大丈夫だろうと思いながら、彼の挙動を伺う。

「……出来たのかな、これ?」

「もう一個かけてみないことにはな」

「こっちは、五番目から文章が変わるんだよな」

 不安げに紙を見下ろしながら、ユキノはヴィヴィアンに尋ねた。

「そう。ティオ・エンダの後から分岐。受け取るほうの面倒くさいやつは先に終わらせてるから、さっきのよりは楽だぞ。七文節短い」

「どっちもあんまり変わらないよ、緊張する」

 ユキノはそう言って笑うと、魔法陣を見つめる。その真剣なまなざしは、いつ見てもこちらまで緊張させられる。

 薄い唇が静かに呪文を紡ぎだした。たった今まであまり自信はなさそうだった態度だったのが嘘のように、しっかりと張った声は良い具合に魔力を導いていた。やがて、呪文が終わると魔法陣の黒いインクが青白く淡い燐光を放つ。魔法が終わると燃えるような強い光を放つことが多いヴィヴィアンとは対照的な、儚い変化だった。

 少しの間魔法陣を見つめていたユキノだが、思い出したように手紙に防水呪文をかけた。

「ふー、なんだか頭がくらってした」

「立て続けに集中力の要る魔法をかけたからな。お疲れさん」

「ちゃんと出来てるかな」

「試すか? 作動の呪文は教えたな」

「ラニ・ウィエル・コール」

「じゃ、やってみろ」

 手紙を預かり、ヴィヴィアンは席を立って玄関まで行った。ユキノはテーブルに置いた白い紙を拾い上げて、ヴィヴィアンの方を向く。頷いてやると、ユキノは魔法陣に向かって囁くように呪文をかけた。その瞬間、ヴィヴィアンの手の中にある手紙の魔法陣が淡く輝き、そこからユキノが戸惑うように『繋がってるのかな……』と呟くのが聞こえた。

「合格」

 魔法陣に向かってそういえば、ユキノはがたんと椅子から立ち上がって嬉しそうに笑った。こちらからの声も伝わっているらしい。これで本当に合格だ。

「やった! これで故郷と連絡が取れる」

「ちょっと強化しといてやる」

 このまま送ってもよかったが、距離が離れるほど精密な魔法をかけなければならない。ヴィヴィアンは送るほうの魔法陣の右下に、古語でユキノの名前を記した。目隠しの呪文でその名前を隠すと、魔法陣がオレンジ色に煌く。

 術者の名前を入れると魔法陣が強化されるが、悪用の危険や術者への負担があるため一般的に毎回用いられるわけではない。

 ユキノの名前を入れたが、書いたのはヴィヴィアンだ。これで魔法陣を作動させるときには、ヴィヴィアンが込めた魔力をユキノが作動させるかたちになり、遠い国との声の行き来を安定させる。

 ヴィヴィアンから弟子への、ささやかなご褒美だ。

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