第五十七話 覚醒する力
食事が終わり、後片付け(ユキノが全部やってくれた)が済むと、ユキノは古びた魔道書をテーブルに置いた。ヴィヴィアンが彼に与えた物だ。いくつか付箋のように紙切れが挟んである。
「師匠、よろしくお願いします」
ユキノは席につくと、まずそう言って頭を下げる。ヴィヴィアンは釣られて姿勢を正し、彼の正面に座る。
「まず、この呪文なんだけど」
付箋のついたページを開き、ユキノは顔を上げる。古びた魔道書を扱う手先はとても丁寧で、ヴィヴィアンが与えたこの本をとても大切に扱っていることが見て取れた。この真面目な弟子は基本的に物を大切に扱うが、この魔道書の扱いは特に慎重に見える。
「いきなり難解なところから入るんだな。難易度三だぞ」
ページの右上の星マークを指差して言ってやれば、ユキノは大きな目をしばたいた。
「あ」
「でも、これはお前の属性だからな。レベルが飛んでても多少は問題ないだろう」
ユキノが頭を悩ませていたのは、氷系統の呪文だった。物を凍らせるというそれだけで難易度がいきなり三なのだから、氷の呪文がいかに面倒くさいかということを物語っているとヴィヴィアンは思う。
しかし、ユキノはそんな氷系統の魔力をもっているのだ。これを制御しないことには、前に進めないだろう。
「手っ取り早く習得するには、まずイメージトレーニングだな」
「はい、師匠」
ユキノは懐から前に与えた日記を取り出して、新しいページを開いた。ヴィヴィアンはそれを手で制して止め、きょとんとしてこちらを見上げるユキノに尋ねる。
「氷の印象って、どんなだ」
「え? ……冷たいとか、硬いとか?」
「そうなる過程。そうなった後。どんなふうに氷になっていくのか、その様子を辿れ。ノートは今はいい、お前の中の魔力がどんなものか確認する作業だから」
真顔になったユキノは、氷河の色をした瞳を伏せる。そうして彼が瞑想を始めると、彼の魔力が活発になるのがヴィヴィアンには手に取るようにわかった。
目に見えているわけではないが、形のない魔力はどう在るべきか考えあぐねている様子に感じる。魔力というもの自体に意思はないが、術者の深層心理が色濃く影響を与えるのだ。だから彼の心が定まらない限り、魔力は落ち着きなく動き続ける。
「見えてきただろう?」
尋ねると、ユキノは小さく息を吸い込んだ。
そのひそやかな息吹は、まるで物陰からこっそりと小動物の様子を伺うときの様子に思える。ユキノは自分の魔力のルーツを、慎重に慎重に探っていこうとしているのだろう。
理論で形式的に魔力に形をつけてることも出来るが、感受性の豊かなユキノにはこうしたイメージトレーニングの方が適している。彼がちゃんと彼自身で自分の魔力を探り当てたら、あとは勝手に彼の力になっていく。
「……冬の訪れだ。澄んだ冷たい空気の中で、ひっそりと変化が始まる」
ユキノは目を閉じて、囁くようにそう言った。彼の活発になった魔力はすでに冷気となって、徐々に彼の周囲のものを凍てつかせている。主の心の変化を喜んでいるかのように、魔力が彼の押し殺した呼吸に合わせて辺りに巡っていく。
その調子だ、とヴィヴィアンは心の中で呟いた。
「それは、穏やかなものか」
「穏やかに見えて、力強い変化だ」
「では優しいのか?」
「強い。そして、怖いもの。向き合うために必要なのは、忍耐と…… ある種の優しさ」
「母性か」
「同時に父性でもある」
彼の想像を形にしていくために、ヴィヴィアンは抽象的な質問をゆったりとした口調で紡いだ。
冷気に煽られたユキノの前髪がほのかに揺れる。彼は姿勢正しく座ったまま、完全に想像の世界に没頭しているようだ。
「積み重なっていく…… そうすることで、何万年も大地のように残り続ける」
「大地だろうか。そこに樹木が根を張ることはない」
投げかけた声に反応し、ユキノの魔力は渦巻くようにユキノの周りを駆け巡る。どんどん冷たさを増す冷気に、ヴィヴィアンは耐える。
ここで自分が炎の魔法で暖かな空気を作ったら、ユキノの集中力が削がれる。そうしたらこのイメージトレーニングは無意味となってしまう。ヴィヴィアンは今、空気でなければならない。
「樹木も、生命も根付くことはない。けれど極限まで弱った者には自らを溶かして水を与える」
ユキノははっきりした意思の感じられる声で呟いた。テーブルがすっかり凍りつき、外気温との差で窓が曇る。
魔力の持ち主であるユキノは氷漬けになることなく、見ているこちらが緊張感を覚えるような怜悧な表情で目を閉じている。ヴィヴィアンの席にも霜が侵食してきて、すでにズボンの裾が凍り始めている。
「水にも地にもなる。限りなく澄み渡っている、よどみは許されない。何者にも揺るがされない厳浄なものでありながら、何にだってなれる」
「まるでお前そのものだ」
思わず言ってしまってから、それはユキノが出すべき答えだったことに思い至る。一瞬だけユキノの周りの魔力が戸惑ったように固まり、それから先ほどより活発に動き始める。
「終わりはどうなる。お前の世界は永遠に凍てついたままなのか」
「穏やかに忍び寄ってくる春にまたひそやかに融けていく。秋の終わり、ひそやかに変化が始まっていったように。当たり前に、誰も気づかないうちに。ああ、そうか……」
「答えが出たようだな」
努めて穏やかに声を紡ぐ。ユキノの活性化した魔力の影響で、すでにヴィヴィアンの足には感覚がなかった。腰の辺りまで凍りつき、体が動かない。それでも、今が一番耐えなければいけないときだ。ヴィヴィアンは目の前の弟子を見守り、彼の心のなかで決定的な変化が起こる瞬間を待った。
ユキノは小さく息を吸い込む。その瞬間だった。ピキピキと音を立てながら彼の足元に小さな氷柱が出来た。足元に出来上がった氷柱の上に新たな氷柱ができて、どんどん積み重なる。そうして次から次へと氷が生まれ、まるで水晶のようにきらめきながら彼の足元を埋め尽くす。
「氷は、護るものだ。すべてのものを雪解けの季節まで守りとおす」
凛とした声で言い放つと、ユキノはゆっくりと目を開ける。放っていた冷気は雪解けのように穏やかに引いていき、ヴィヴィアンの足にも感覚が戻る。ユキノが言葉を発するまでずっと増え続けていた氷の塊も、溶けて水になった。そしてその水は、静かにひっそりと消えていく。
ユキノは姿勢を正したままヴィヴィアンを見つめる。
「俺の力は、そういうものなんだな」
「そうだ」
「それを踏まえてこの呪文を使ったら、ちゃんと制御できるのかな」
「もう少し。今、お前は自分の魔力と初めて向き合った。はじめましての状態だ。これか仲良くやっていくには、もっと知る必要があるんだ。自分自身を、自分の力を」
「そっか、要練習だな!」
「使ってみろ。凍らせる物質はこれだ」
ヴィヴィアンはにやりと笑い、すっかり霜の消え去ったテーブルの上に手のひらサイズの火の玉を出して見せた。真ん丸い球体に見えるが、よく見ると細長い火がくるくると渦を描くように丸まっている。イタチなどの細長い小動物をイメージした火だ。
さっきまで怜悧な顔で真剣に自分の力と向き合っていたユキノは、火を見るなり目を丸くして首を横に振った。
「そ、そんなの絶対凍らないよ! 溶けるだろ! それに、炎はヴィヴィアンの主属性じゃんか。俺には無理だよ」
覚えたての用語を一瞬戸惑いながらも口にして、ユキノはヴィヴィアンを見上げる。
ヴィヴィアンは、師匠としてユキノに教えてやれる最大の言葉を思いついていた。何をやるにしても、どんな魔法を使うにしても、絶対に口に出してはいけない言葉がある。
「魔法で出来ないことなんかない。出来ない、無理って思う気持ちが自分にリミットをつけるんだ。それは自分に呪いをかけているに等しい」
上手く魔法が使えなくて落ち込んでいるときに、父がヴィヴィアンにくれた言葉だ。投げやりになって何もかも面倒くさくなったヴィヴィアンに、魔法だけは諦めるなと父は言った。
魔法は基本的に万能である。常識に囚われると忘れがちだが、本来は何だってできる力のはずなのだ。
ユキノは呆けたような顔で黙っていたが、やがて楽しそうな顔で頷いた。
「……わかった。やってみる」
テーブルの上にふわふわ漂う火の玉を見つめ、ユキノはすっと姿勢を正す。見ているこちらも姿勢を正さなければならないと思ってしまうような、真剣な面持ちで彼は火の玉に手をかざす。
「レン・シュヴェール・エクタ・ロウ」
炎の周りに白い冷気の渦が現れ、ゆっくりと流れながら炎を囲んでいく。そうして、ユキノが祈るような顔で目を閉じたとたんに、それはピキッと小さな音を立てて固まった。
テーブルの上に、氷の塊がごろんと落ちる。落ちたところから染みを広げるようにしてテーブルが少しだけ凍ったが、炎は完全に氷の中に取り込まれている。合格だ。
氷の中で炎は何事もなかったかのように燃えていたが、完全に氷で密封されているのでテーブルに燃え移ることもないし氷を溶かすこともない。透明な氷の中で炎が燃えている様子はとても幻想的だったし、ヴィヴィアンはこの不思議な氷の塊をずっとここに留めておきたくなった。複雑な魔法陣を描けば残しておけるだろうが、どうしようか。
ユキノが目を開けるのを見計らって、ヴィヴィアンは手を叩いた。
「見事。九十点だ、テーブルが少しだけ凍った」
「うわあ……」
言葉を失ったユキノは、自分が凍らせた炎をまじまじと見つめて感嘆のため息をついた。青い瞳で真剣に成果物を眺める姿は幼さを感じさせ、ヴィヴィアンはなんとなく子供の頃の自分を思い出していた。
どんなに簡単な魔法でも、自分の意志で動かすことができればそれはとても大きな喜びとなった。魔法が使えるというそれだけで楽しかった。あの頃は今のように守るべきものもなかったし、強くあらねばならない等とも思った事はなかった。
いつからだろう、魔法を使うことに純粋な喜び以外の感情が混ざるようになってきたのは。というか、魔法を使うために何かを深く考えること自体、昔はなかったように思う。
成長して失うものもあるのだとヴィヴィアンは思う。希薄になったクラスメイトたちとの関係や、薄れた好奇心は成長の代償なのだろうか。
「凄い、綺麗だ」
しばらく無言で手の中の氷の玉を眺めていたユキノだが、やがて小さな声でそう呟いた。ヴィヴィアンは我に返ってユキノを見下ろす。
「それ、そのまま保存する事も出来るぞ」
非常に面倒くさい魔法を使うことになるが、ヴィヴィアンは思わずそう言っていた。とたんに、ユキノの表情がぱっと輝く。
「やって! これ消しちまうの絶対勿体ないもん」
「よし、魔法かけてやる」
子供のように無邪気な反応を示すユキノの態度が、ヴィヴィアンは少し嬉しかった。ヴィヴィアンはポケットから万年筆を取り出し、テーブルの上に綺麗な線で魔法陣を描いていく。魔力で描いてもよかったが、安定させるのに集中力が倍かかる。魔法陣は物理的に安定させておいて、呪文に集中したいのだ。
テーブルの向こうから、ユキノは乗り出すようにしてヴィヴィアンの手元を眺めている。その真剣なしぐさを咎める気になれなくて、ヴィヴィアンは黙って正確に魔法陣を描き進める。
「魔法をかけたら溶けることもなくなる。割れないようにさえすればな」
「わかった! 気をつける」
傍目にわかるほどわくわくした様子で、彼は空の色をした目をこちらに向けた。彼に向かって手を差し出せば、慎重な手つきで氷の玉を渡してくる。早速落とさないように気をつけているのだろうか。
魔法陣の真ん中に氷の玉を置くと、ヴィヴィアンは小さく息を吸い込んで気分を落ち着かせた。集中して、丁寧に魔法をかけてやろう。最初に少し頭の中で呪文の順序を確認してから、ヴィヴィアンは神経を統一して目を閉じる。
「オル・キャプティエ・レル・ノイア……」
呪文を唱えながら、左手を氷の玉の上にかざす。自分の暖かな魔力とは違う、ひんやりした魔力を手のひらで感じ取る。慣れないその感覚が楽しくて、口元に笑みを浮かべながらヴィヴィアンは目を開ける。
テーブルに描いた魔法陣は淡い光を放ち、その上に載った氷の塊の上には幾重にも白いヴェール状の霧がかかっている。それは晴れた日の午後に、陽光に透けながら風にゆらめくカーテンの様子ににていた。
正確には、この霧のように見えるのは形の変わった魔力だ。二人の異なる力を組み合わせたことによって、魔法陣の上でもいつもの変化とは違うことが起きている。普段なら、ヴィヴィアンが魔法をかければ物質は光ったり熱を帯びたりすることが多いのだ。
ユキノと自分の魔力は属性も違えば形も違う。ヴィヴィアンの魔力は光や熱として認識されるが、ユキノの場合は先ほどのように氷という物質が現れることもある。二人の魔力の形が違えば違うほど、こういった魔法は難しくなる。
しかし、魔法をかければ光輝いて熱を放って働くヴィヴィアンの魔力と、静かに重たく落ち着いていくことで働くユキノの魔力は正反対のようでいて案外相性がいいらしい。でなければこんなに穏やかで神秘的な変化は起きずに、魔力が反発しあって折角の合作が壊れたかもしれないのだ。
少しほっとしたが、まだ呪文は終わっていない。ヴィヴィアンは慎重に、じっくりと氷の玉を見つめながら呪文を紡いでいく。
「……レ・ナイン・ジュスト・ヴィリエー・シュヴェール」
呪文を終えてかざしていた手を薙ぐようにどけてみれば、氷の玉は先ほどまでと何も変わらない姿でそこにあった。ユキノが怪訝そうにヴィヴィアンを見上げるので、ヴィヴィアンは黙ってマグカップに水を入れて持ってきた。そして、その中に氷の玉を入れる。
「あっ!」
ユキノは非難するような目でヴィヴィアンを見るが、ヴィヴィアンは氷の塊を指で転がしながら微笑んだ。氷の中では橙色に輝く炎が燃えていて、マグカップの底に水面や氷の表面で屈折した不思議な光を映し出している。
「見てみろ、溶けてない」
ヴィヴィアンはマグカップをゆっくりとユキノに差し出した。ユキノはおずおずとマグカップを受け取り、そして見る間に口元に笑みを浮かべた。彼も炎を内包した氷の塊をマグカップに浮かべたところなんて見るのは初めてなのだ。ゆらめく水面を色々な角度から覗き込みながら、やがて彼は感心したように呟く。
「本当だ、水に浮かべてるのに」
「これはこれで面白いな。貴族が高値で買いにきそうだ」
作るのが面倒なので絶対に量産はできないだろうから、これを手放すことになるのだろうか。それはなんとなく惜しい気がして、ヴィヴィアンは自分が言ったことを否定するつもりで口を開く。
しかし、それよりも早くユキノが勢い込んでヴィヴィアンの目をまっすぐ見据えて声を上げた。
「駄目だよ、誰にも売らないから! これ、故郷に持って帰る。いいよな、ヴィヴィアン?」
いつも思うが、彼の満面の笑みは本当に希望に満ち溢れている。そんな表情を見ていれば、師匠をやるのも満更ではない気がしてくるのだ。自分が魔法を使って見せることでこんなに喜ばれるのなら、面倒臭がって何もせずに寝ているよりも格段に気分がいい。そしてそんなことを思ってしまうなんて、自分もだいぶ変わったような気がする。
「気に入ったのか?」
「そりゃそうだよ! 炎が凍ってるんだぞ! しかも、まだ中で燃えてる。めちゃくちゃ綺麗」
ユキノはマグカップを覗き込んで、新しいおもちゃを与えられた子供のように一心に氷の玉に見入っている。いつも姿勢のいい彼が背中を丸め、華奢だが立派に青年らしい両手でマグカップを抱えている姿はなんだかちょっと面白い。
「大事にとっておけよ。壊れたら修復呪文であらかた元に戻るだろうが…… さて、ここで問題。修復呪文を複数の物質にかける場合、どうやったら出来る?」
子供のようにはしゃぐユキノに、そう問いかけてみた。
依頼のときのユキノはよく頑張っていたが、あれをちゃんと覚えているか確認してみたかった。
「えっと…… ジェム・リステア・ジュスタ・レクタ・物質名、だよね。あの時はいっぺんに複数のものを直せなかったから、一回ずつ呪文を唱えなおしてた」
ちゃんと覚えているじゃないか、随分記憶力がいい。そう思いながら、ヴィヴィアンはユキノがテーブルの端に避けていた魔道書を開いて彼の方を向ける。そうしながら、まだ魔法陣を消していなかったことを思い出して左手で拭って消す。
インクで汚れた手に顔をしかめつつ、ヴィヴィアンは汚れていない右手で魔道書のページを指差した。
「ヒント、接続詞。こっちのページに書いてある」
「ああ! これを使えば複数の物質を指定できるのか。じゃあ、とりあえずこれが割れてしまったとして、元に戻したければ氷と炎の物質名を接続詞で連ねた修復呪文で直せる! ……どう? 正解?」
「正解。その調子で、出来るようになったことを更に広げていけば上達が早い」
「はい、師匠。頑張ります」
かしこまったように言うユキノだが、まだ頬が緩んでいる。炎を凍らせてみたのがよほど嬉しい体験だったようだ。そんな顔を見ていると、こちらも満たされた気分になる。