第五十三話 レッスンタイム
ナタリアはヴィヴィアンの腕を離さないままでユキノに話しかけた。マルグリッタは優雅に腕を組んでユキノとナタリアの挙動を伺っている。
「ねえユキノ、踊ったことがないのなら女の子をリードしてパーティに行ったこともないわよね」
「うん、そもそもパーティーなんてものはなかったよ。男が伴侶以外の女性に触れるなんてもってのほかだし、人目のあるところで寄り添うのも破廉恥だっていうのが常識だからね」
ヴィヴィアンは思わず渋い顔をしたと思う。なんてストイックな国なのだろう。
彼からしたら、ナタリアの過剰なスキンシップは確実に破廉恥の分類に入るに違いない。ヴィヴィアンだって恋人がいたら人並みにスキンシップを図るだろうが、それすら破廉恥だと思われるのなら何だか居たたまれない。好意を持った異性に触れたいのは自然な欲求だ。
「なるほど、女と腕組んで歩く習慣がないイリナギの人間にわかるようにってとこか?」
「そういうこと。それじゃ始めるわ。マリー、給仕役をおねがい」
「適当なタイミングで声をかけるわね」
音楽が切り替わる。弾むようなテンポの明るいワルツが流れる中、ヴィヴィアンはナタリアをエスコートしてゆったりと室内を歩いた。なるべく姿勢を正し、ナタリアに歩調を合わせ、彼女の表情を時々確認しながら進む。
「どうかしらユキノ。何か思うこと、挙げてみて」
歩きながらナタリアはそういってユキノを見た。その拍子に少し歩調が乱れ、彼女が転びそうになるのをとっさに支える。彼女は小さくありがとうと囁いて体勢を直した。ユキノが感動した様子で見つめてくるので、居心地が悪くなって思わず眉根を寄せて目をそらす。
「ヴィヴィアンの雰囲気が違う…… 全然面倒臭そうじゃないし、自然だ」
そうきたか。
「……はあ。ダンスの主役は女性だ。男はそれを引き立たせるのが役目。だから面倒くさい。面倒くさいって思ったのを態度に出したら、相手の立場が潰れるからな」
「もう! 本当は面倒臭いなんて今はナシ! 楽しみなさいよ」
普段なら面倒くさいと斬り捨てるところだが、今は一応講師としてナタリアと腕を組んでいる。ヴィヴィアンは熱心に聞いているユキノに向かって、少し柔らかい語調で続けた。
「ナタリアもいうように、お互いに楽しまなきゃエスコートする意味がない。半歩先を歩いて、階段では男が先に下りて後から上る。離れすぎてもくっつきすぎてもだめだ」
「さすが師匠」
ユキノは深く頷いた。そんな彼の背後で、マルグリッタは食器を運ぶトレーを探し当てていた。どうやらちゃんと給仕をしてくれるらしい。
「いや、こういう方面に関してはエストルを師匠にしたほうが確実だ」
「でもあんたもずいぶん良くなってるわよ、エスコート。今のところ満点だわ」
「これが、会場だと段取りが悪くて呆れられるんだ。ダンスの間は特定のペアと踊る規定はないから、一曲ごとに違う相手から声がかかる。それを切ってひたすら最初の相手と踊るもよし、毎回パートナーを変えてもよしっていう流れだ。それでダンスが終わったあと、俺は毎回ナタリアを見つけられない」
ユキノはくすりと笑った。きっとこれは、彼にも容易に想像できる事態に違いない。しかし、見つけられないとナタリアは本当にしょげるし、それからへそを曲げる。
「基本的に、ダンスの後も男の子が迎えに行くべきなのよ。続けるわ」
ナタリアが歩き出すので、ヴィヴィアンもそれを支えるようにして歩き出す。歩いていると、マルグリッタが優雅な足取りでトレーを片手にやってくる。ヴィヴィアンとナタリアの近くまでくると、トレーの上にポンと可愛らしい音を立てて二つのシャンパングラスが現れた。ユキノが感嘆の声を上げ、ナタリアが楽しそうに笑い声を立てる。
ヴィヴィアンは給仕にそうするように、目線で礼をしてグラスを取ってナタリアに渡す。自分の分も取ると、小さく礼を口にして再び歩き始めた。
グラスの中の淡い黄色の液体は本当にアルコール入りらしく、ふわりと優雅な香りが漂った。しかし、マルグリッタの良い演出で徐々にその中身は消えていく。
「グラスを取るのまでエスコートしなくていいっていう女の子もいるわね」
「私は飲みたいときに勝手に取るわ」
マルグリッタはそう言いながら、再び歩いてヴィヴィアン側にやってくる。ヴィヴィアンは空になったグラスを返し、ナタリアの分もそっと受け取って返した。彼女の分のグラスをトレーに載せたとたん、出現したときと同じようにポンと音を立ててグラスは消える。
「女の子の空いている手のほうに給仕がいないときに、一言ことわってからグラスを取ってあげるといいわ。飲み終わったグラスも、女の子がもてあましていたら返してあげて」
「うん、勉強になる」
ユキノは頷いて、それから背後の壁の方をちらりと見た。
「そろそろ入れてあげてもいいんじゃない? 二人」
困ったように笑いながらユキノが言った。つられてそちらを見ると、かなり離れたところからヴィヴィアンたちを見ているロジェとローザの姿があった。
「あら。いつからいたの?」
彼女の声が通常の三割り増しぐらいに楽しそうなのは気のせいではない。ロジェは覗かれていたことに気づいていないのか、いつもどおり彼女に接する。
「音楽が気になって降りてきんだけど…… ユキノが真剣に二人を見ているし、マルグリッタも手がふさがってるみたいで声がかけづらくて」
そう弁明しながら、彼はユキノの隣まで歩いてきた。その後ろを、ローザがちょこちょことついてくる。
「マルグリッタ、久しぶり」
「ローザ、あなた少し雰囲気がかわったわね。髪型かしら」
「最後にあったのって一月前だったかな」
「それぐらいね」
二人が和やかに会話を始め、ロジェも久しぶりに会うマルグリッタに微笑みかけた。
「マルグリッタもずいぶん雰囲気変わったよ。なんていうか、丸くなった」
とたんに、ナタリアとローザが閉口した。ロジェは自分の失言に気づいていないようで、きょとんとしながらその場にいる人物の顔を順に見渡す。こういうときにフォローを入れるのが上手いユキノだが、デリケートな問題だけに口を挟みかねている様子だ。
「はあ。あなた、失礼ね……」
マルグリッタはロジェに冷たい視線を向ける。ロジェはようやく自分が何を言ったのかに気がついたらしく、あわてて胸の前で手を振って見せる。
そしてそっぽを向くマルグリッタに縋るように、彼女の正面へと走る。目をそらされるとまた走る。まるで犬のようだ。
「いやいや、違う! 違うよ! ごめん、体型の話じゃなくて雰囲気が。前はもっととげとげしかったよ。何か心境の変化でもあった?」
「……ふう。ローザ、あなたの苦労が今ほんの少しだけわかったわ」
そう言って、マルグリッタはくすくすと笑い出した。
「あなたに最後に会ったの、卒業式じゃなかったかしら? 変わりもするわよ」
「まあ、確かに」
「でもあなたは相変わらずね」
「全く変わってないってことはないだろ?」
「ほら、身長……」
わざとらしく悲しげな表情をつくり、マルグリッタは目を伏せた。ヴィヴィアンの少し後ろではナタリアが笑いを堪えて震えている。振動が腕を通して伝わってくる。
ロジェはわなわなと震えながら、ばっと勢い良くこちらを振り返った。
「……ヴィヴィアン。マルグリッタがいじめる!」
「天誅」
即答で言い返してやれば、今度はまた勢い良くローザの方に向かう。
「ローザああ」
「ロジェ、ぜいたく言わないの。私よりは大きいでしょ」
駆け寄るロジェをひらりとかわし、ローザはそう言って微笑んだ。ロジェは呆けた顔で黙り込むと、次第に満面に笑みを浮かべた。
「……そう! 俺はそのままの、小さいローザが大好きだ! ああ、可愛い! なんって可愛いんだっ、俺の天使ぃいい!」
ヴィヴィアンは思わず溜息をついた。ローザの手にかかればロジェの憂鬱要因は一瞬にして蒸発するが、そこからが問題だ。どうしてこうも、恥ずかしい言葉を平気で言えるのだろう。彼はローザを追いかける前に、なぜローザが逃げ回らなくてはならないのかを考える必要がある。
案の定、今回もローザは頬を赤くしてユキノの後ろに隠れる。ロジェはユキノを睨みつけて無言でローザをよこせという目をしているが、ユキノは青い大きな目を細めておおらかに笑っている。
「ローザが困ってるよ?」
その一言ではっとして、ロジェは一瞬で真顔に戻る。
「……ごめん、ローザ」
しばらくローザからの返答はなかったが、やがて彼女はユキノの後ろから顔だけひょこっと出して呟いた。
「ロジェ、恥ずかしい人」
予想外。ヴィヴィアンは思わず吹き出したが、ナタリアは同じタイミングで盛大に笑い出した。
「あはははは!」
「は、恥ずかしい人っ!?」
ロジェはへたり込み、頬を染めて髪を掻き回した。
「うわあああ大ダメージ、生きていけない、恥ずかしい人! 人格否定!」
「天誅ね。人格否定なんて大げさな」
マルグリッタも笑いながら、そっとユキノの手を取った。強引に今日の予定を開始するようだ。
「え、わ」
「ナタリア、ローザ、あなたたちも始めたら?」
慌てて姿勢を正すユキノの背中に手をかけ、マルグリッタは彼の腕を自分の背中へと運んだ。ナタリアが腕を引いてきたので、ヴィヴィアンも少し離れたところでダンスの基本姿勢をとる。
「これが基本のポーズよ。あなたの手は肩甲骨の下あたりに持ってきてくれればいいわ。ロジェみたいなのはやりすぎ、あれじゃローザがかわいそうよ」
マルグリッタの声に釣られてロジェとローザのペアを見る。ロジェはローザをがっちりホールドし、頬が触れるかと思うような至近距離からローザを見つめていた。ローザは例によって頬を赤らめて俯いている。
「ちぇ。なんだよ、マルグリッタの指摘がなかったらもう少しこうしていられたのに」
残念そうに少し距離をとり、ロジェはすっと姿勢を正した。さすが上流階級だ、立ち姿がずいぶんと様になっている。彼らを見ていると、ナタリアがぐいっと引っ張ってきた。どうやら彼女をおざなりにしすぎていたようだ。
「ステップは覚えてるかしら。やってみて」
ナタリアに言われて、ワルツの踊れそうなフレーズを待ってヴィヴィアンは足を踏み出してみた。……ほとんど覚えていないことに気がついた。
「あれ。どうだっけ、右から?」
「あんたは左からよ。もう! エスコートは上手だったからちょっと安心してたのに。初心者のユキノと一緒じゃない」
「じきに初心者の域を脱するだろうがな」
「口じゃなくて足を動かしなさい、また間違って! 痛っ」
ステップを間違えて彼女の足を踏んづけてしまった。慌てて足をどかして彼女を覗き込む。
「悪い、平気か」
「本番で失敗したら泣くわよ」
そういうナタリアの目の端にはうっすら涙が滲んでいる。
「そりゃ、気合入れないとな」
それからは暫く、彼女と無言で踊っていた。本来は和やかに会話するものだが、何せヴィヴィアンは真剣なのでステップのことしか頭にない。そのうちナタリアがしびれを切らし、声をかけてきたが返事を適当にしていたら怒られた。
「会話しながらゆったり踊るの! ヴィヴィアン、さっきから姿勢悪いわ」
「気がつかなかった」
「それに、下ばっかりみないでちょうだい。上から覗き込まれるの恥ずかしいわ」
「あ」
今はいいとして、本番は胸元の開いたドレスなのだ。こうして下ばかりみながら踊っていては、彼女に不快感を与えるだろう。それに、自分も落ち着かない。
「でも、その調子よ。感覚は戻ってきたようね」
「なんとか。この調子だったら本番でもいけるな」
「本番までに忘れないかしら?」
「忘れてたら思い出させてくれ」
そんな会話をしながら、だんだん慣れてきて余裕が出てきたのでユキノの方をちらりと見る。彼はマルグリッタに小声で助言をもらいながら、相変わらずきりっとした良い姿勢で踊り続けていた。かなり様になっている。
「やっぱりヴィヴィアンの言った通りね。つい昨日までワルツなんて聞いたこともなかったような子よ。信じられないわ」
ナタリアが驚いたようにそう言った。勿論ワルツは踊ったまま、手を取り合って揺れながらの会話だ。
「あいつ色々筋がよすぎる」
「追い越されちゃうのもすぐかもしれないわよ!」
冗談交じりに言われた言葉を受け流せなかった。まったくその通りだ。競争するのが面倒くさくて、魔道士仲間とも疎遠になったのである。彼らに会えば魔法対決や術の見せ合いなどで無駄にたくさん魔法を使わざるを得ない。
それで磨かれることは磨かれるのだが、ヴィヴィアンは今の地位に甘んじて強さを求めなかった結果なぜか弟子を取らされる羽目になった。ちょっと待ってほしい。
何故そこで、向上心を持って日々魔法の上達に励むほかの魔道士のところにユキノが行かなかったのだろう。それはやはり街で一番強いという地位があるからに違いないのだが、こんなにやる気のない魔道士を見てどうして彼は弟子入りを志願したのだろう。
「あー面倒くせえ!」
思考回路が絡まってきた。突然大声を上げたヴィヴィアンにナタリアが驚き、開きかけた口を止めて固まっている。
「悪い。考え事」
「……時々思うけど、あんたって面倒くさいが口癖の割には面倒ごとを断らないわよね」
「大分前から気づいてただろ。俺はお人よしらしい」
「いいのよそれで。だから面倒臭がって連絡を取らなくても、ちゃんと協力してくれる人脈があるんじゃない」
ちらりとマルグリッタを見る。マルグリッタとユキノはぴったりと息のあった動きでワルツを踊っていた。早くも完璧なスタイルだ。ユキノの飲み込みが早いのも勿論だが、マルグリッタの教え方も上手い。
彼女の方が師匠に向いているのではないかと思ったが、その考えを振り払った。一度受けた依頼や面倒ごとからは、逃げないのがヴィヴィアンのスタンスだ。
「ナタリア、俺うまく踊れてる?」
「今のところ問題ないわ。この調子でリードしてちょうだいね」
「了解」
ヴィヴィアンは微笑を浮かべると、姿勢を正した。終わったら昼食にしよう。