第五十一話 ひとやすみ
アイアランド母娘が作った夕食は相変わらずおいしかった。おいしい食事を作ることができるのは才能だと思うし、アイアランド姉妹は本当にどこに嫁に出しても恥ずかしくない女の子たちだとヴィヴィアンはつくづく思う。(いやいや。父親か俺は!)
「何かあったらつなげろよ、魔法陣。一応描きっぱなしにしとくから」
すっかり日の落ちた街を見渡しながら、ヴィヴィアンはアイアランド家の門の前にたたずんでいた。
「ええ、頼もしいわ。お守りがあるから平気だと思うけど、あんたと話せるの嬉しいから是非そうしてちょうだい!」
ナタリアとそんな会話をしている傍ら、ロジェがローザをもの言いたげにじっと見ていた。
この二人は夕食の間に仲直りしたというか、いつものように戻っていた。しかしそれが嬉しいのか、ロジェは再びラブコールを浴びせようとしてナタリアに怒られていた。心配事が消滅した今のロジェは、とにかくダンスパーティーが楽しみで仕方ないようだ。
「ずっとつけてろよ、それ。風呂入る時も寝る時も」
護符を指して言うと、ナタリアは嬉しそうに笑んだ。
「言われなくたってそのつもりだわ。ありがと、ヴィヴィアン」
「じゃあ、帰るから。ローザ、ゆっくり寝とけよ」
軽く手を振ると、ローザは頷いて微笑んだ。そんなローザに微笑み返し、ユキノが踵を返す。ロジェは名残惜しげにしていたが、ナタリアに挨拶してローザに手を振った。工具屋に用があるというので、ロジェとはそのまま門の前で別れた。
手のひらに林檎ほどの大きさの火の玉を出し、そのあたりを浮遊させてランタン代わりにしながら、ヴィヴィアンは何でも屋への帰路へついた。
結局あまり休んでいなかった。なんだか今頃疲れてきた。ヴィヴィアンは欠伸をしながらユキノの方を向き、その端正な横顔を見ながら呟いた。
「お前さ、疲れてないのか?」
「本調子じゃないよ。けど、寝たら治るから」
無邪気な笑みを浮かべてユキノは言う。日が落ちてもまだ蒸し暑いらしく、彼は着物の袖をたくし上げる。そういえばヴィヴィアンは外套を羽織っているので適温だ。
「そっか。安静にしとけ」
この魔法のかけ方をユキノにも教えようか。そんなことを思いながら、なんとなく上の空で声をかける。ユキノはくすくす笑いながら頷いた。
「ヴィヴィアンもだよ。いきなりあんな魔法対決とか始めるし、俺びっくりしたよ」
「あー。まあ、それはな。師匠という立場上。明日は一日休むよ、ナタリアたちが来たらダンスの練習だな」
面倒くさい。そう続けようとして、目の前に疲れた弟子がいることを思い出してやめた。ユキノは少し不安げな顔をして、軽く空を仰いだ。
空には低い月がおぼろげに見えている。雲に隠れそうで隠れない微妙な月は大して明るさをもっていないので、こんな夜は魔物が出やすそうだと思う。無意識に火の玉の火力を強化した。
「あと一週間ぐらいだっけ。俺、踊れるかな」
静寂を破ってユキノが言う。声色は明るく、振り返れば相変わらず無邪気な笑みを浮かべている。
「お前、なんとなくダンス上手そう」
「動きがかたいって言われるんじゃないかって心配なんだよ」
「いや、むしろ動きが俊敏すぎてダンスっぽくないかもしれないぞ。シュタッ! シュタッ! って」
ワルツをわざとキレのある動きでワンフレーズ踊って見せると、ユキノは腹を抱えて笑った。
「あはは! いくらなんでも、さすがにそこまで……!」
「安心しろ、ナタリアの手ほどきとお前の理解力があれば一日で基本はマスターできるだろうから」
そんな会話をしながら家にたどりついた。やはり酒場も花屋も閉まっていたし、人の気配も一切ない。静まり返った路地に立ち、施錠を解いて家に入る。特に異常な気配はないし、いつもどおりだ。外套を脱いだら蒸し暑いのが気になったので、窓を開けた。
「シャワー浴びて寝る」
「わかった。俺は洗濯物畳んでいようかな」
その家庭的な発言に思わず笑いが漏れるが、ユキノは気にした様子もなく着物の袖をたすきでまとめ、てきぱきと準備を始めている。
シャワーを終えて出てきてもユキノはまだせっせと働いていた。今度は本棚の本を分類していたらしい。
ヴィヴィアンは風呂場が空いたことだけ告げると、自室に入ってさっさとベッドに飛び込んだ。相変わらずシャワーの後はバスローブ一枚だが、湯上りだとそれすら暑く感じられる。肩まで脱いだ状態でばたばた風を送り込んだりし、湿気がとれてきたので引き出しからパンツを出してきて履いた。
ユキノの魔力の気配が、部屋の前を横切ってシャワールームに入っていくのを壁越しに感じ取る。眠い。
遠くで魔物の吠え声が聞こえた。またこの街の人間が犠牲にならなければいい、などと考えつつも目蓋が下がってくる。眼鏡を外して枕に顎を乗っけると、ヴィヴィアンはうつぶせのまま意識を手放した。
翌朝、人の気配がして目を覚ましたときには、うつ伏せだったはずの身体は横向きになっていた。寝違えたようで首が痛かったが、ごろりと仰向けになって半目を開けて天井を見上げる。
眼鏡のない視界にもわかるほどの長く美しい金髪が、窓から差し込む朝日にきらめいていた。ああ、なんだ金髪かと思い再び目を閉じると、何やらため息が聞こえた。
「ほら、ヴィヴィアン! 起きなさい!」
「えー……」
起きろといわれても。まだ意識がはっきりしない。寝違えた首も痛いし、膝を動かしたら間接が軋む。昨日何かしたっけ、と思いながら穏やかに呼吸をしていると、石鹸のいい香りのする手がヴィヴィアンの頭を撫でた。なんだか心地良い。
「あれだけ疲れていたもの、無理もないわね」
何か疲れるようなことなどしただろうか。ユキノが美味しい昼食を作ってくれて、エストルがやってきて、ロジェが拗ねて、ナタリアとローザが怯えていて、ジーイェが話をしに来て…… いや、何か違う。
なんだか記憶が混濁しているようだ。考えなおすたびに昨日という一日がどんな様子だったかが微妙に入れ替わる。
ジーイェが依頼にきて、ユキノが時計を直して…… いや、それはもっと前の話だ。
「でも起きなさい、ヴィヴィアン。上から乗って圧死させるわよ」
「させてくれ、俺はもう疲れた」
というか、ここにいる金髪が――ナタリアが、上から乗ってきたとしても圧死はたぶんありえないと思う。たぶん。
「もう、何言ってるのよ」
その金髪も、ちょっと笑いながら言う声も彼女そのものだ。何よりここにこうしてやってくるのなんてナタリアだけだというのに、その名前を呼ぼうと思い至るまでに随分かかった。(なんだ金髪か、って何だよ)
微妙に意識が覚醒したが、再び眠くなる。
ほぼ意識がない状態で、ヴィヴィアンはうわごとのように呟く。
「子供たちがさ、喜んでるんだよ鳥で」
「はあ?」
「シェイはもう来てるんだろうか」
「ヴィヴィアン、寝ぼけてるのね? シェイって誰のことかしら」
思い浮かぶことを次々言ってみると、ナタリアはくすくす笑いながら答えてくれる。彼女の反応が心地よくて、ヴィヴィアンは尚も続ける。
「言っといたぞ、ナタリア姉ちゃんに直してもらえって」
「何のことよ?」
「俺の外套とって」
「ここにはないわ。外套着たいならベッドから降りなさい! ここにいても蒸し暑いだけよ」
眠気はなかなか覚めない。冷却設備をつけていない部屋は蒸し暑いが、時々はこうして魔法に頼らない環境を作っておかないと、魔力が弱まって魔法が使えない時などに受けるダメージが大きくなる。
しかしひんやりした石でできた壁で緩和され、暑さはそこまで辛くない。まだ朝方だからだというのもあるだろう。
「ユキノのダンスの相手は俺か?」
「マルグリッタに頼んだわ、男同士で踊らせたりなんてしないわよ」
「なあ、もう一回寝る」
「そんなことしたらエストルに目覚まし植物を頼むわよ」
ナタリアを無視して目を閉じると、頬をぷにぷにつつかれた。顔を背けて身体を丸めると、ナタリアが腕を引っ張ってくる。
「こーらっ、起きなさい」
むにゃむにゃと返事をしようとすると、突然下の階からすさまじい音量でロジェの声が響いた。
「ナタリアー! とうとうコレの出番だー!!」
びくりとして上体を起こす。あれは初めてユキノとふたりでロジェを迎えに行ったときに、ロジェが発明した悪趣味な発明品に違いない。
おかげで一気に目が覚めた。
「ダメよ、ヴィヴィアンが聴覚をおかしくするわ!」
「うっせえナタリア、お前の声もデカい!」
ベッドから立ち上がると、派手な柄のパンツを履き、バスローブを雑に羽織っただけの姿だったことに気がついた。
「うわ。ナタリアのスケベ」
両腕で自分を抱きかかえるようにして言ってみれば、ナタリアの平手が背中に飛んできた。
「いってえ」
「パンツコレクターに言われたくないわよ! 早く着替えて降りてきなさいっ」
「はいはい」
足音も荒く出て行ったナタリアを見送り、少し笑いながら着替えをした。床に放置したバスローブを見られたらまた咎められるだろうが、面倒くさいのでそのまま部屋を出る。
朝食はまたユキノの郷土料理かと思いきや、いたって普通のエンカンタリアの朝食だった。
白い皿の上には、麦と雑穀を一緒に練って焼いたような安くて栄養価の高いパン。焼きたてのパンの上には、チーズと湖鶏(ごく一般的な水鳥)のベーコンが載っている。
「牧場主のおじさんがチーズをわけてくれたのよ。ありがたいわ」
「可愛い子にはサービスって言われたんだけど……」
嬉々としたナタリアのとなりで、ロジェがしょんぼりと肩を落としていた。ナタリアは本当に楽しそうに笑いながら、そんなロジェの背中をばしばし叩く。
ロジェがナタリアをよけようとローザの方に近寄るたび、彼女は頬を赤らめて身を反らしている。それでも、自然にロジェとローザの距離は縮まったように思う。
「何言ってるのよ、あんた可愛いじゃなーい! ……背が」
「ひっでえ! 気にしてんだぞ俺は、お前に負けていることにっ」
二人の漫才のようなやり取りを聞きながらユキノが笑い、温かなパンの上でとろけるチーズをしげしげと眺めながら二人をなだめる。
「まあまあ。牛の乳にはこんな使い方があるんだな。すげえ」
「お前んとこじゃ牛乳も飲まないのか?」
ヴィヴィアンも食欲が沸いてきて、質問しながらユキノの隣であり、ナタリアの正面である席に座った。
「基本、魚ばかり食べてるから。牛は食用というより、荷物を引かせたり田畑を耕させたりする。俺の村では牛飼いなんていなかったし、牛の乳は西の大陸に来るまで飲んだことがなかったな」
「へえ、食用っていうより道具なんだな」
「牛車はお偉いさんが移動に使ったりするよ。都にいけば馬車も人力車もあるし。でも馬はもっぱら軍馬だから、やっぱり人を乗せるのは牛がメインかも」
「何! ユキノの国では人が人を車に乗せて引っ張るのか!」
「ああ、そうだよ。人力車の陣夫は疲れ知らずで、街を風のように飛び回ってる」
「すっげえー、イリナギの男は力持ちなんだな」
興奮した様子でロジェの質問攻めタイムが始まる。彼はいつもそうだ。そんな彼の好奇心の爆発は見ていて楽しい。
ユキノも知りたがりの彼に大分慣れてきたようで、毎回律儀に答えているからすごい。ヴィヴィアンなら絶対に途中で面倒くさくなるというのに。
「でも、体格じゃエンカンタリアの人たちのほうがどう考えても勝ってるよ」
「なんでだ? なんでなんだ、原理が気になる! ユキノ、俺をイリナギにつれていってくれ! この目で確かめるまで気になって仕方ない!」
それまで普通に答えていたユキノだが、この言葉にだけは少しだけ困ったような色を含めてあいまいに頷いていた。
「いつかね。でも俺、故郷でそんなに気に入られてないから。俺が何か言われるならいいけど、ロジェやヴィヴィアンが悪く言われたら申し訳ないよ」
聞いた感じだと、イリナギの民はとても排他的だ。異邦人である自分たちはまず受け入れてもらえないだろう。
そしてユキノも村人の全てから慕われているのであったら、こんな過酷な長旅を強いられることもなかったはずだ。嫌な見方をすると、村の人々から厄介払いされたようにも受け取れる。
西洋人との混血で、姿が他人と違うからという至極どうでもいい理由で遠ざけられていた彼だが、そんな風に扱うにはもったいない男だと思う。
「そんな奴らのために頑張るってさあ、ユキノは偉いよ。俺だったら、俺のこと気に入らない奴のために一生懸命になれないかも」
「そうそう。気に入りすぎてる奴にのめりこんでる分、周りが見えてないからな」
「うっさいヴィヴィアン」
ロジェは横目でこちらを見ながら、大きく口を開けてパンにかぶりついた。ローザはどんな反応をしていいか解らないのか、ロジェと目を合わさないようにパンをちびちび齧っている。
「あんたって本当に優しいのね」
ナタリアはビンに入った牛乳をロジェのグラスに注ぎながら、ユキノを見て言った。ロジェがもごもごと礼を口にするので、彼女は呆れながら『飲み込んでから喋りなさい!』と一喝する。ユキノはくすくすと笑いながら、良い音を立ててパンをかじった。
「こう、俺に関わるなみたいな風潮は村全体にあるんだけど、それでも俺と話したそうにしてくれる人はいるんだ。ひっそり手合わせを願いにくる人とかさ」
ユキノは喋りながら、牛乳のグラスを手に取る。ヴィヴィアンはパンを齧り、そのさくさくした触感を楽しみながらユキノをちらりと見て話の続きを促した。
「考えたらそれって、俺の亡くなった父さんが最高の剣士であり師範だったからで、父さんを慕う人がいまだにたくさんいるからなんだよ。そんな父さんが大事に思っていた村だから、俺も全力で守りたいんだ。そこの人たちが俺をどう思っていようと、俺は村が好きだから」
朝の光で店の中のコントラストがだいぶはっきりしてきているのを感じながら、ヴィヴィアンは言葉を出しあぐねていた。無言でパンを咀嚼していると、ナタリアが穏やかに呟いた。
「まっすぐね」
「ユキノさん、凄い」
ローザがそう呟くと、ロジェは大きくひとつ頷いた。その灰褐色の瞳は、好奇心と希望に満ちた光に染まっていた。
「決めた。俺、絶対ユキノの村に行くよ。ユキノが胸張って友達ですって誇ってくれるように、たっくさん発明品持ってさ」
微笑を崩さないまま食事を続けていたユキノは、ふと手を止めて真顔でロジェを見つめ返していた。そうね、とナタリアが口火を切ると、ユキノはゆっくりと彼女の方を見る。
「そのときはあたしも、イリナギの女の子たちにたくさん服を作ってあげるわ。ローザと一緒に料理もするし、お菓子も作らなくちゃ。楽しみね、ヴィヴィアン」
ユキノはヴィヴィアンの方は見なかった。
弟子入りの日のように拒絶されると思ってるのだろうか? こころなしかその青い瞳が沈んでいるように受け取れる。
生憎とヴィヴィアンは、いちど引き受けた弟子を軽々と手放せるような器用な精神は持っていない。厄介者であることには変わりないが、その厄介さを彼はちゃんと家事をしたりヴィヴィアンを気にかけることで埋めている。
友達とも家族とも違う、弟子というおかしな存在。一人前になるまでは自分が責任持って面倒を見るが、一人立ちする頃にはどうなっているのだろう。
少なくとも、もう用は済んだからなどと言って冷たく放り出すことは二度とないと思う。自分は思った以上に仲間に対して甘いようだ。
「そうだな」
ユキノの横顔をじっと見て、ヴィヴィアンはゆったり、そしてはっきりと言葉を紡いだ。
「俺も師匠として、ユキノのきた旅路を軽々と移動できるように魔法を強化しておかないといけないな。八ヶ月もかかるんじゃ困る」
大きな目が二度ほど瞬きをしてから、驚いたようにこちらを見上げた。そうしてかわるがわるヴィヴィアンたちの顔を見やると、ユキノはようやく安心したように満面の笑みを浮かべた。本当に嬉しそうなその笑顔に、一同が和む。
「ご飯が終わったら踊るわよヴィヴィアン! ユキノ、あんたにはパートナーを紹介しなくちゃね」
パンを飲み込みながら頷くと、ユキノが軽く首をかしげながらナタリアにたずねた。
「その人もここに呼ぶのか?」
「ええ、朝食後に時計塔に呼び出してるわ。ヴィヴィアン、迎えにいってあげて」
ナタリアは当然のように笑って、ローザの空になったグラスに牛乳を注いだ。ヴィヴィアンは頬杖をつきながらあからさまに面倒臭さをアピールすることにする。
「えー面倒くさいー。俺が離れたら施錠の効果薄れちゃうかもしれないなーみんなが危険かもしれないぞー」
またローザから冷たい視線を受け取った。前にもこんなことがあった気がする。今度は萎縮せずに、ヴィヴィアンはわざと眉根を寄せて悲しげに俯いて瞬きを(上目遣いに高速で)してみた。すると、ローザは無邪気な笑みを浮かべて堪えきれずに小さく吹き出した。こんな彼女を見るのは久しぶりだ。そして、こんなふうにあからさまに人を笑わそうとしたのも。今日の自分はテンションがおかしいとヴィヴィアンは思う。
「少しなら平気なんでしょう? ユキノを一人で行かせてもマルグリッタの顔がわからないじゃない」
それもそうだ。ロジェに迎えに行かせるという選択肢も考えたが、彼女に猛反対されることは目に見えていた。
「だりい」
最後の反発をしてみるが、ナタリアに半眼で睨まれた。
「ヴィヴィアン」
「……わかった。行ってくる。ユキノ、留守中何もないと思うけどよろしくな」
「うん、任せといて」
ユキノはヴィヴィアンの分の皿まで片付けながら頷いた。ヴィヴィアンは手に持っていた最後のひとかけのパンを口に放り込むと、外套をさっと羽織って外に出た。