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エンカンタリア  作者: 水島佳頼
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第五十話   シェイ

 夕暮れの町は活気付いていたが、これも一時間後には全て収まるに違いない。魔物を警戒し、人々は夜間の外出を避けるはずだ。あれだけの被害の後だから、たとえ魔道士であってもあまり出歩きたがらないだろう。夜に備えて買出しをする婦人たちや、腰に剣を下げた男たち(騎士団ではなく一般市民だ)がたくさん見受けられた。

 さまざまな魔力がひしめく空気の中に、ふとエストルの花の香りを感じた。ここからは大分遠いようだが、彼も屋外に出ているらしい。

「賑やかだな、なんか空気までもわっとしてる」

「そのもわっとした感じが魔力だ。人によっては音だったり光だったり、匂いだったりする。温度や波動だっていう人もいるな。魔力の感じ方は人それぞれだし、魔力の発し方も魔道士によって様々だ」

「すげえ! あれ、それじゃあもしかして、エストルからいつも花の匂いがするのも?」

「あいつもともと香水つけるからな、お前が魔力か香水かどっちのこと言ってるか判断がつかない。けど、魔力の匂いと香水の匂いじゃ感じ方が微妙に違うんだ。俺には、あいつの魔力が花の香りで感じられる」

「今日のエストルの香水は、ハーブ系のだったわよ」

 となりを歩くナタリアがさらりと言えば、ユキノは目を輝かせた。

「それじゃあ俺、エストルの魔力がわかったってことだな! へえ、すげえ。なあなあヴィヴィアン、俺って何? どんな感じ?」

「……鬱陶しい感じ」

「うわ、ひどいな!」

 ユキノが眉根を寄せて不機嫌そうにすると、ローザがそんな彼を見てくすくす笑った。今日のローザは色々と不調だが、それでもユキノと一緒にいると少しは和むらしい。なんとなく波長が合うのだろう。 

「ユキノさんは静かに強い感じだよ。上手くいえないけど」

「え?」

 驚いたのは、言い当てられたユキノだけではなかった。

「ローザって魔力わかるんだったか?」

 大問題だ、普通は魔道士でなければ魔力の波動なんてわかりっこない。ローザは微笑んで、軽く頷いた。その柔らかな表情に、野の花のように素朴な可愛らしさを感じる。

「最近気づいたの、もしかしてこれって魔力かなって。だって後ろに誰か立ったとき、ヴィヴィアンかユキノさんかエストルかすぐに解るの。足音や声が聞こえなくても」

「単に敏感なだけじゃなかったのね。すごいわ、ローザ」

「お前ら不思議だよな、魔道士でもないのに」

 ヴィヴィアンの魔法陣限定でなら魔力を動かせるナタリア。魔道士ではないのに何となく魔力がわかってしまうローザ。この姉妹は本当に特殊だ。

 これが多くの人に知れ渡ったら、多数の学者がこぞって研究テーマに取り上げるだろう。

「ヴィヴィアンは周りの人を魔法使いにする性質があるのかもしれないわね」

 ナタリアはそういって朗らかな笑い声を上げる。

「そんなもんあったらロジェも魔道士だろ」

 ロジェからは魔力めいたものを一切感じないし、本人も魔道士を敬遠している節がある。

 そんな彼とどうして長年つるんでいるのかは解らない。解らないが、ロジェはヴィヴィアンの狭い友好関係の中でも重要なポジションにいるほうだと思う。

「あの子はきっと、特殊装置で魔法を遠ざけているのよ」

「ありえるかも」

「あー」

 そんな会話をしていると、視界の端に色の飛んだぼさぼさの髪がちらっと映る。ぱっとそちらを見やると、懸命ににやけるのを堪える(が、堪えきれずににやにやしている)ロジェがいた。黒衣を脱いだタンクトップ姿で、野菜やパンの入った紙袋を抱えている。どうやら買い物の帰りらしい。

「立ち聞きしちゃった……! ローザが俺の話してる!!」

「おいどっから出てきた変態」

 半眼でからかってやれば、ロジェはすごい勢いでローザを振り返って彼女の反応を気にする。

「ローザの前で変態とか言うなよ、俺の可憐で純情なお姫様なんだからさ」

 その一言でローザが頬を染め、ユキノのゆったりした袖を軽く握る。そんな姿を見てロジェがショックを受けないはずもなく、彼は灰褐色の瞳で愕然とローザを見つめていた。

「あのさあ、ユキノ。ひとつ言ってもいいかな」

「何、ロジェ」

 ロジェはユキノをまるで睨むかのような目で見据えると、深呼吸をひとつしてから言い放った。

「お前も男なら正々堂々戦え。隠し事はナシだ、いいだろ」

 ヴィヴィアンは思わず吹き出しそうになった。ナタリアも同じように感じたらしく、彼女の場合は堪え切れずに背中を向けて笑っていた。

 本当にロジェは可愛いやつだと思う。今まで何度もこんな場面に遭遇してきたが、殆どがロジェの狭くなった視野によって起こる勘違いだった。彼は持ち前の賢さを、恋愛においては一切使用できないらしい。

「隠し事も何も、俺はロジェのこと応援してるよ」

 ユキノがそう言った瞬間、ローザが驚いたようにユキノを見上げた。彼女にとっては裏切られたような気分なのかもしれない。

「本当か? 本当かユキノっ」

 経験上ユキノのこの切り返しは今までで初のパターンだったが、ロジェは実に単純な反応を見せた。

「勿論。やってることちょっと激しいけど、ロジェはいい人だと思うから」

「よっしゃ! ローザと公認カップルになる日も近い! ユキノ、これからも応援よろしくな」

 はしゃぎだすロジェを前に、ローザは泣きそうな目で彼を見つめる。ユキノの背中に少し隠れるようにして、彼女は呟いた。

「……ロジェの馬鹿」

 とたんに凍りつくロジェだが、ナタリアはそんな彼に容赦のない言葉を浴びせる。

「あんたが公衆の面前で恥じらいもなくそういうこと言うからよ! 少しは考えなさいっ、ヴィヴィアンに文句言える立場じゃないわ」

「ローザごめん、ごめんな? 嫌がらせたくてこんなこと言ったんじゃないんだ、俺ほんと、ローザが…… っ!?」

 何やら言いかけた言葉を止めて目を見開いているロジェに対し、やれやれと思いながらヴィヴィアンはため息をついた。

 そして、視線をローザの方に移動する。

 心臓が止まるかと思うぐらい驚いた。

 ローザは可憐な顔をゆがませ、その赤らんだ頬に一粒の涙を伝わせていた。ユキノが心配そうにローザを見下ろし、ナタリアはヴィヴィアンと同じように固まっていて、肝心のロジェは意味を成さない声を上げながら口をぱくぱくさせている。

「あ、……ごめ、ごめんっ」

「本当は気軽に好きって言われるの、辛いの」

 決定的な一言だった。

 その呟くように紡がれたかすれた声に、場の空気が凍りついた。

「……へ」

 愕然と立ちすくむロジェにさっと背を向けて、ローザはユキノの袖を引く。

「ユキノさん、行こ」

「いいの?」

「もういいの」

 きっぱり言い切り、ローザはアイアランド家の方に向かって歩いていく。ユキノは困ったように何度もロジェやヴィヴィアンの方を振り返ったが、ローザがひどく傷ついているのを放っておけないのか、黙って彼女についていった。

 ヴィヴィアンは黙ってロジェを見下ろした。ロジェは息を荒くし、震えていた。

「辛い、って、俺、ずっとローザに……」

「あのね。解釈は二通りあるわ、ロジェ」

 ナタリアが重々しく口を開くと、ロジェは唇をきゅっと引き結んで俯いた。

「教えてよ。俺は原理を知らなくちゃならない」

「ひとつめ、あんたが無神経に調子乗るから傷ついちゃったっていう可能性」

 これはきつい一撃だ。ナタリアも大事な妹を目の前で泣かされ、気が立っているのかもしれない。

「もう一つは、あんたの気持ちが解らなくて混乱してるっていう可能性」

「やっぱり、俺に言われたくない言葉だからなんじゃないのかな、好きだなんてさ…… 俺、ずっとローザのこと傷つけ続けてきたのかな。どうしよう」

 ローザのあの一言はかなり深いところまで刺さっているらしく、ロジェは今にも泣きそうだった。彼のもともと小柄な体は、しょげて俯いているせいで余計に小さく見える。

「それは違うと思うぞ。いくらローザが我慢強い性格だからって、何年も言われ続けてきたことに今更爆発するってことはないだろ。嫌なら嫌って、最初から拒否反応するはずだ。俺やナタリアに相談するだろうし」

 そう言ってやれば、ロジェは力なく笑ってみせる。ナタリアは小さくため息をつくと、ロジェの背中をぽんぽんと叩いた。

「そうよ。ローザがあんたのこと嫌ってるようだったら、あたしがあんたをローザに近づけないもの。仲の良い人に嫌いって言われて嫌なら解るけど、好きだって言われて嫌ってことはないわ。あんたはずっとローザのこと守ってきてくれたし、あの子を笑顔にしようと必死だったじゃない」

 一生懸命なロジェをナタリアも解っていて、だからこそ妹に強烈な求愛をすることを今まで否定しなかったのかもしれない。今なら、ナタリアがロジェとローザを応援するつもりであることがきっぱりわかる。

「ナタリア……」

「でも、だからこそ、あの子は傷ついてしまうのよ。その場のノリみたいに好きって言われたら、冗談みたいに思えるでしょ。あんたに弄ばれてる気分になるわ」

「そっか、原理は全然わかんないけど、なんとなくわかった気がする」

 ロジェは大きくため息をつくと、目を伏せる。ここまで暗い表情のロジェは初めて見たと思うぐらい、ロジェは落ち込んでいる様子だ。ナタリアは仕方ないなという風に微笑んで、ロジェの頭をくしゃりと撫でた。

「ほら、うじうじしない。折角ここまで来たんだから。一緒にご飯食べましょう、ロジェ」

 ナタリアなりに気を配って、ロジェとローザを仲直りする機会を作ろうとしているのはヴィヴィアンにもわかった。ロジェを見下ろして視線で促してみると、彼は少しだけ明るい表情に戻って頷いた。

「ありがと」

「ちょっとは懲りなさい、愛してる攻撃! ちょっとくらい落ち着きのある男の方が、頼りがいがあっていいのよ」

「勉強になるな、ヴィヴィアン」

 明るい笑顔でロジェが話を振ってくるので、ヴィヴィアンはあからさまに眉をしかめて見せた。

「面倒くせえ」

 しかしロジェはヴィヴィアンをスルーし、ナタリアの方を振り返る。

「その原理でいくと、落ち着きなく女をとっかえひっかえしてるエストルはもてないっていう仮説に行き着くけどどうなんだ?」

「あの子は別格よ。落ち着きないのは女の子の定位置がないってことだけで、エストルは本当にじっくり余裕で恋を楽しんでるわ。どんな女の子も受け止められる包容力があるの」

「あれって恋なのかよ」

 思わず突っ込む。

「エストルにとってはみんな大切な可愛い子ちゃんだもの」

「理解できない、俺はローザしか愛せないもん」

「お前もお前で極端に視野が狭い、このままじゃストーカーだぞ」

 三人でそんな会話をしながら、アイアランド家の門をくぐる。玄関を開けて中に入ると、アイアランド夫人が迎えてくれた。

「いらっしゃい、よく来てくれたわね」

「お母さん、ローザは?」

「ユキノを連れて部屋に行っちゃったわ、何かあったのね?」

「けど、あいつが一緒ならすぐ連れてきてくれると思います」

 おそらくロジェが返答に詰まるだろうから、ヴィヴィアンが先回りしてそう答えた。ナタリアは心配そうに階段の方を見て、小さなため息をついている。

「深くは聞かないけど、時間がたつほど辛くなるわよ」

 ちらりとロジェを見やってそういうと、いたずらっぽく笑みを浮かべる夫人。彼女は何が起こったかを大体察しているらしい。女の勘というやつだろうか。

「さあ、ナタリア。あなたはディナーの用意を手伝ってちょうだい。ヴィヴィアンはテーブルを片付ける。ロジェ、あんたは上に行って二人を呼んできて! すぐにでもユキノの手を借りたいのよ」

 てきぱきと指示を飛ばすと、夫人はキッチンに向かう。ウィルフレッドはまだ塾で子供たちの相手をしているらしく、姿が見えなかった。

 ロジェは気まずそうにうろたえていたが、よろめいた足取りで階段の方へ向かっていく。そんなロジェを見送ると、ナタリアは夫人に続いてキッチンへ向かった。残されたヴィヴィアンは、指示されたとおりにテーブルを片付ける。

 もともと片付いているので拭くくらいで支度は済んだ。手持ち無沙汰でいると、ユキノが足音も立てずに駆け下りてきた。ヴィヴィアンと目が合うと、彼は意味深に笑った。どうやら仲直りは失敗せずにすんだようだ。

「ユキノ! 手伝ってちょうだいっ」

 軽やかにユキノに駆け寄りながら、ナタリアがその耳元で『どうだった?』とこっそり囁いたのをヴィヴィアンは聞き逃さなかった。ユキノはちらりとナタリアを見やり、見逃しそうなほど小さな動作で頷く。その動作でナタリアが、わかりやすくほっとした反応をした。

 夫人とユキノが自己紹介をしあっているのを聞きながら、ヴィヴィアンは椅子に腰掛ける。自分だけ何もしていない状況は少し気まずいが、自分がキッチンに行っても邪魔なだけだ。

「ちょっと塾の方行ってもいいですか」

「いいわよ、ウィルにももうすぐ晩御飯だって伝えておいてくれるかしら」

「わかりました」

 夕飯の支度をしてくれる三人を置いて、ヴィヴィアンは塾へ続くドアをそっと開けた。授業自体は終わっているようで、教室は少しにぎやかだ。一番前の教卓で、ウィルフレッドは生徒の質問に答えている。

 ヴィヴィアンの登場に気づいた子供たちが、数人駆け寄ってきた。

「ヴィヴィアンだ! 久しぶりだね、ヴィヴィアン」

 お下げの少女がにこにこ笑う。本当に機嫌がよさそうだ。隣にいる銀髪の少年は、その少女よりもひとつかふたつ年下だったと記憶している。

「お昼に一回来てくれたよ」

「えーっ、知らなかった」

「僕は魔法がわかるからね。ヴィヴィアンが近くにいるのなんて、すぐ解るのさ!」

 得意げになっている銀髪の少年は、特にヴィヴィアンを慕っている。時々コモディンにも現れるが、遊んでやるのが面倒で居留守を使ったこともある。この少年が得意げに大声で喋るので、帰り支度をしていた子供たちもヴィヴィアンに注目した。

「あ! ヴィヴィアンだ! 遊んでー!」

「ねえねえ、さっき花丸もらったんだよ!」

「僕も苦手な掛け算ができて、先生に褒められたんだ」

 すぐさま子供たちに飛びつかれたりテストを見せられたりする。本当は少しウィルフレッドと話したかったのだが、暇つぶしに子供と遊んでやることにしよう。

「ヴィヴィアンの服かっこいい! 模様が入ってる」

 子供の一人がそういうので、彼らの目線に近くなるようにかがんでやる。

「これはナタリア姉ちゃんがやってくれたんだぞ。お前らもその辺でずっこけてズボン破けたら姉ちゃんにやってもらえ」

「はーいっ」

 ちらりと視線をやると、ウィルフレッドの教卓がだいぶ空いて来ていた。ヴィヴィアンは立ち上がって彼に声をかける。

「ウィル先生、いまナタリアたちが食事を作り始めました」

「ああ、ありがとう。あと三十分をめどに仕事を切り上げるよ」

 片手をひらひら振ると、ウィルフレッドは再び赤インクの万年筆を手にして子供と向き合った。そんな彼を見ていると、子供が脚に抱きついてくる。

「ヴィヴィアン魔法見せてー」

「えー。面倒くさい」

 といいつつも、魔法を発動したときの子供たちの笑顔は、見ていてちょっと嬉しくなるものがある。魔法使いのお兄さんとして慕われるのも、くすぐったいが嫌ではないのだ。

「見せて見せて! 鳥さん出して」

「鳥さん出すのか? んー、どうしよっかなあ」

「俺、でっかくて強い鷲がいい!」

「そんなの怖いよ、ちっちゃな小鳥がいい」

 そうよそうよ、と小さい女の子たちが口々に自分たちよりも年上の少年をまくしたてる。喧嘩になってしまう前に、この場をおさめようか。

「動物を出すのってすんごい難しいんだぞ。ほら」

 言いながら、空中に青白く輝く手のひら大の円を描いた。小さく呪文を唱えると、淡く輝く小さな鳥たちが円からいっせいに飛び出す。

 子供たちは大喜びで、鳥を追いかけたり捕まえたりしようとした。

「それ、取れないぞ。本物じゃなくて、魔法で作ったにせものだから。鷲はまた今度、男の子だけのときに見せてやるよ。女の子が怖がっちゃうからな」

 魔力の形を鳥のようにしているだけであり、それは本物の生きた鳥ではない。しかし、さまざまな色の鳥が淡く輝きながら教室を舞っている光景は、我ながらわくわくするものであった。

「素敵ですねえ」

 聞き覚えのある声に振り返ると、ジーイェがいた。子供たちは怪訝そうに彼を見上げ、何人かは怯えてヴィヴィアンの足元にすがった。当然だろう。ジーイェは決して人相がいいとは言えない。根は穏やかな人だが、顔立ちで損をしているタイプだ。

「ああ、失敬。怖がらせてしまったようですね」

「うちの塾に何の用かな?」

 子供たちが怯えているのを感じ取ったのか、ウィルフレッドの口調は少しきつかった。

「表の張り紙を見ましたよ。私の弟たちが明日この街に引っ越してくるのですが、甥っ子に良い学習機関を探していたんです。おいで、シェイ」

 きい、と扉がきしみ、教室に小柄な少年が入ってきた。五歳ぐらいに見える、あからさまに人見知りが激しそうな少年だ。ジーイェの髪色に良く似ているが、やや青みがかった灰色の髪。俯き加減なので、顔はしっかり確認できない。

「この子を明日から、この塾で勉強させてやってください」

 少年の背後に立ち、その両肩に骨ばった手を乗せてジーイェは笑う。少年はぎこちなく顔を上げ、ウィルフレッドを見つめた。切れ長の目に引き結んだ口元。東国らしい顔立ちで、なんとなくその表情には憂いが感じ取れた。

 しばらく黙っていた子供たちは、ジーイェとウィルフレッドが教科や授業料の相談をしだすや否や、わっとシェイ少年を取り囲んだ。シェイは戸惑っていたが、拒否することはしなかった。

「シェイ、っていうんだろ。不思議な名前」

「明日からここに来るの? よろしくね!」

「君どこからきたの? 見慣れない服だね」

 子供たちは思い思いにシェイを仲間に引き入れようとし、シェイの硬かった表情もなんとなく柔らかくなった。

「シェイ、だけ。苗字はないんだ」

「へえ、変なの。けど苗字がなくたって困らないよ」

「そうだよね、シェイって呼べるもんね」

 すっかり打ち解けた様子の子供たちを見ていると、不意にシェイと目が合った。あの硬かった表情が嘘のように、シェイはこちらを向いて笑った。ちらりと覗く八重歯がとても子供らしい。

「シェイ、帰りますよ」

 やがて、ウィルフレッドとの話を終えたジーイェが子供たちの輪の中に入ってきた。はしゃいでいた子供たちは、またおとなしくなった。シェイは戸惑いがちに、澄んだ瞳で何か訴えかけるようにジーイェを見上げた。

「僕、まだみんなと遊んでいたいんだ」

「いけません。暗くならないうちに、家に帰らなくては。食事をしなければなりませんからね」

 心持ち強い調子でジーイェは言った。シェイは黙って唇を引き結んだ。そして、小さくうなだれておとなしくジーイェの手を握った。

「皆さん、さようなら。明日からシェイをよろしくお願いしますね」

 ジーイェはシェイの頭をくしゃくしゃ撫でながらそういった。子供たちは元気よく「はーい」と返事し、思い思いにシェイに別れの言葉をかけた。

「ばいばい、また明日」

 少し元気のない様子だが、シェイは新しい友達に笑顔で手を振っていた。素直でおとなしい子供だが、何となく子供らしくないというか、もう少し駄々をこねるなり嫌だといってみるなりすればいいのにとヴィヴィアンは思う。

 大人の言いなりになっているように見えるのだ。

「さよなら、リリエンソールさん」

「お気をつけて」

 ジーイェは微笑むと、シェイの手を引いてドアから出て行った。子供たちはしばらくそれを見送っていたが、数人は鞄を手に元気良く手を振って帰っていった。どの家庭でも夕飯の時間だ。

「お前らもそろそろ帰れ。魔物が出る前に家に帰らないと大変なことになる」

 そう言うと、更に数人が鞄を手にして帰って行った。家がそんなに近くない子供たちにとっては、この帰り道が不安だろう。

 ヴィヴィアンを慕う銀髪の少年は、最後まで一人で残った。

「家は遠いんじゃなかったのか」

「だって僕、ヴィヴィアンとまだ遊びたい」

 そんなことを言われても、送っていくような時間はない(し、面倒くさい)。けれどヴィヴィアンが来たことでこの少年の帰りが遅くなったのだ。もうあの配管工のような死者は絶対に出したくない。

 ヴィヴィアンは少年の目線までかがんだ。少年は淡いグリーンの瞳でヴィヴィアンを寂しそうに見ている。

「お前は魔法が使えるんだったな。ほら、手を出せ」

 おずおずと手を差し出す少年の頭を撫でてやると、彼の手の上に自分の手のひらをかぶせた。こうしてみると自分の手が案外大きいような気がする。神経を集中させ、空いている左手で四角い魔法陣を描く。細かな呪文や図形を描き入れ、少し長い呪文を唱えてから左手の人差し指で魔法陣に触れた。そのまま力を込めると魔法陣がするりと宙を滑るのが確認できたので、少年の手にかぶせたままの自分の右手に貼り付けた。

 そこまでの一連の動作を、少年は息を止めたように見入っていた。

「これはお前を守るためのものだ。強すぎる魔物には太刀打ち出来ない。だけど、弱い魔物ならこいつがやっつけてくれる。まっすぐに帰れ、寄り道をするとそこで消えちまう。わかったか?」

 少年は緊迫した面持ちで頷いた。すでに手の中に、『何か』がいることを感じ取っているのだ。ヴィヴィアンはゆっくりと手を外す。少年の手のひらの上に、程よく収まる大きさの羊がいた。

「……すげえ」

 少年は手に羊を乗せたまま固まっている。

 見た目はただの羊だが、そのふかふかした体毛がほんのわずかに光を発している。小さな目は燃えるような赤で、ヴィヴィアンを見上げて羊は小さく欠伸をしてみせる。

「魔物を食らって大きさを増す。大きさを増すと魔物はビビる。そいつはお前の魔力をほんの少しだけ借りて形を保つようになっているから、お前から離れたりお前を危険にさらすようなことはしない」

 魔力に形を与えるのはとても高度な技術だが、ほんの少しだけ召還も交えた。生物の元となる『要素』と呼ばれる精霊を召還し、それに魔力で形を与えると、簡単な動物の『ようなもの』が出来上がる。高度な召還術になると、『要素』以外のちゃんと形がある精霊も呼び出せる。

 召還術はある種の契約で、精霊たちを使う代わりに対価を与え、契約期間も明確にしなければならないという多少面倒な魔法でもあるが、楽しいのでたまに使う。大概は面倒くさいという意識が先行して実行に至らないが、やる気があるときには精霊に家事を手伝わせたりもする。

「す、すごいよ。ちゃんと動いてる。もこもこしてる」

「地面におろしてやれ。ちゃんとお前の後を追っかけるから」

 少年はおずおずと羊を床におろした。羊は少年の足元をぐるぐる駆け回り、半ズボンから伸びる細い足に頬を摺り寄せる。少年の目が輝いた。

「ありがとうヴィヴィアン! ちゃんとまっすぐ帰るよ」

「お前の両親も魔法使いだろう。似たような魔法の使い方、教えてもらえ」

「うん! じゃあね!」

 少年は鞄を手に駆け出す。羊が飛ぶように軽やかな足取りでそんな少年の足元に寄り添う。教室のドアを開けるときに一度だけ振り返って大きく手を振ると、少年は足元の羊を気にしながら暗くなりかけた街に飛び出していった。

「相変わらず見事だよ」

 背後から声をかけられる。すでに塾を閉める準備は整ったようで、本や書類の束を抱えて彼はこちらを見ていた。言外にそろそろ家に戻ろうといいたいらしい。ヴィヴィアンは教壇の方へ向かった。

「さっきの東国の男性だが、あれは知り合いかね」

 彼が抱える書類の一番上には、見たことのある不思議な文字のサインが見えた。どうやら塾の契約書らしい。

「依頼人です。二回ほどうちの店に来ました。割と最近の客ですが」

「いや、大したことはないんだがね。変わった匂いがする人だと思ってな」

 ウィルフレッドはネクタイを緩めながらそう言って、ぼんやりと窓の方を眺めた。夕暮れの色合いはますます強まり、沈みかけの夕陽は街をオレンジ色に照らしていた。先ほど見送った子供たちは、無事に帰ることができただろうか。

「匂い、ですか?」

「薬草に近いな。あの服を染めるための染料に問題があったのかもしれないが、一瞬妙な感じがした」

 そんな匂いがしただろうか。今日は自分の肩の薬草の臭いや昼食の匂い、エストルの花の香り以外に特徴的な香りを嗅いでいない気がする。

「気がつきませんでした。茶の香りかもしれませんね、今日差し入れしてくれましたから」

「ああ、緑茶か。それかもしれないな」

 少し表情を和らげたウィルフレッドは、いったん塾を見回してから家への入り口に手をかけた。

「さあ、食事にしようか」

 ドアを開ければ、漂ってくるのは食欲をそそる肉の匂い。これはもしかすると、菜摘孔雀だろうか?

 ヴィヴィアンはすこし空腹を感じつつ、ドアをくぐって食卓へ向かった。

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