第四十六話 放浪癖の来訪
花の香りのする魔力が近づいてきたと思ったら、ノックもなしにドアが開く。基本的に中にいる人間が招き入れない限りは入ってこられない仕組みになっているが、友人ならば話は別だ。立ち上がって振り返る。
アイボリーの外套の薄い裾を軽やかになびかせ、颯爽と歩くエストルの姿が目に入った。嬉しそうなその青い瞳を見て、この男は本当に暇だったに違いないと確信する。
「いらっしゃい、エストル。何か飲む?」
ユキノがキッチンの方からエストルに声をかける。水の音がするということは、洗い物でもしているのだろう。エストルは楽しげな表情のまま、頭の後ろで両手を組んでちらりとヴィヴィアンを見やる。
「あんの? この家に飲み物とか」
からかうように言い、エストルはそのままヴィヴィアンの正面のソファに適当に座った。直後、ほどよく筋肉質だが重量感があまり感じられないその体躯が、行儀悪くソファに投げ出される。
「失礼な。水くらいある」
「お茶もあるよ、さっきジーイェさんがくれたから」
反論すればユキノからもそう声がかかり、エストルは意外そうな表情をしたあと口の端に薄く笑みを浮かべた。
「へー。ちょっと景気が上向いた感じか」
「おかげさまでな」
「主にユキノのおかげだろ、見た感じ」
「主にユキノのせいで俺は魔力の鍛えなおしを余儀なくされている訳なんだが」
エストルは軽く声を上げて笑う。本当に楽しそうだ。彼は今座っているソファをすっかり私物だと思っているらしく、飛び出た糸を引っ張ったり縫い目をさりげなくいじって遊んだりしている。
じっと視線で咎めると、彼は白い歯を除かせて悪気のない笑みを浮かべた。
別にソファの糸をちぎられたところで生活に支障はないが、見栄えが悪くなると接客の時に問題が出てくる。
「ナタリアは?」
「いるよ、上。あいつ今ストーカーに狙われてるから、とりあえず俺の目の届くところに置いてる」
からかわれることも覚悟していた。しかしエストルは笑みを消し、目の上にかかる亜麻色の髪を払いのけながら虚空を見つめている。
「……ストーカー、ねえ」
「何だよ」
「いや、何でもない。直接関係ないだろうから」
この放浪癖が真剣に何か考えているとき、事態は必ず厄介な方向に向かうのだ。へらへらしているようで勘が鋭いエストルのことなのだ、何か悪い噂や情報を知っているに違いない。
「知りえる情報は全部知っときたい。言ってくれ」
口をつぐんだエストルはしばらく黙っていたが、やがて空色の眼をやや伏せるようにして話し出す。
「何となく気になってるんだよ、姉貴たちが何で急に忙しくなったのか。塩樽を持って徘徊して誰かを探し出そうとしていたり、街の詰め所に姉貴も含めて十人以上の騎士が配備されてたり、最近の騎士団は様子がおかしい」
「それは知らなかった。あっち方面は避けて通るようにしてるから」
通常一人か二人程度の騎士団が、まさか五倍以上に膨れ上がっているとは。それは流石に知らなかった。というか、外からの情報があまり入ってこない状態だったのだから無理もない。
「市場の監視が厳しくなった。ちょっとでもヤバイものを取り扱っている店主は拘留。あとは、浮浪者を次々に捕らえて街の地下牢に閉じ込めてるだとか、住民名簿にない人間を片っ端から探し出してるとか…… そんなところか。ストーカーって聞いて、それじゃあそいつも騎士団の回収対象になるのかなって思った。なんでもここ数日、この街じゃ軽犯罪でも地下牢行きらしいからな」
名簿。そうだ、自分の成人手続きのかたわら、ユキノの住民登録をなんとかしなければ、彼も回収対象だ。そんなことを考えながら、軽く頷く。
明日あたり役所に向かおう。このエンカンタリアでは異邦人への待遇が周囲の諸国に比べて若干ゆるいため、『留学生』などとしておけば何とかなるだろう。
「目的が不明瞭だな」
今の時点では、まったく見当がつかない。ただひとついえるのは、国家ぐるみの大事に成り得る勢いの厄介ごとが、その辺に転がっているということだ。ヴィヴィアンは視線を斜め下に下ろす。
「全くだ。触れ書きが出たわけでもない」
「絶対何か良くないもんが近づいてるぞ」
「そうだろうな。何もなきゃいいけど、とばっちり受けそうな気配だと思わねえ?」
頷いて顔を上げると、エストルの顔にいつもの気楽な笑みは浮かんでいなかった。ヴィヴィアンは右ひざの上で組んだ指に視線を落とす。
「まったくだ…… 魔道士は一番に厄介がられる」
「そして魔道士も騎士団が一番厄介な連中だと思ってる。そうだ」
「なんだ?」
思い出したように手を打つエストルに、視線を送ってみる。彼は膝の上にひじを立て、優雅な曲線を描く細いあごをその長い指の上に乗せながら話し出す。
「王宮騎士団に魔導部隊を作る計画があるらしい。魔導大臣や国王軍の魔導部隊とは別に、地方にも配備する大部隊を作りたいという要望だ。国家のお偉いさんがそう言ったんだろうな」
「ふうん。国王軍の魔導部隊って、あの少数精鋭の」
要はボディガードのようなものだ。強い魔導師は選りすぐられ、国王軍に入れられる。地方出身でもこの魔道部隊に入ることができるが、圧倒的に首都出身のものが多いと聞く。
「軍っていうか、国王警護のための連中な」
エストルから訂正が入る。そのとおりだ。
主に国王のそばで働く人々だから、洗練された都会の人間にしか勤まらないというのが一般的な認識である。魔道部隊の入隊テストを受けてみないかという誘いが来たことは昔あったが、ヴィヴィアンは即答で断った。絶対面倒くさいに決まっているのだし。
「王のために結界張ったり魔よけしたり、四六時中そんなんばっかだろ。ご苦労だよな」
「けど待遇は大臣と一緒だからな、給料にしても社会的地位にしても」
安定した楽な暮らしができることは間違いないのだ。けれど、昼夜ずっと王のそばで結界を張り続け、王のためだけに魔法を使う状況は考えられない。
「俺はそういうのパス。どうせなら楽しく魔法使いたいじゃん」
「面倒臭いのが嫌なんだろ。でも俺もパス。国家のために、とか王様がどうとか、俺には関係ないし」
「お前の場合は放浪できなくなったらアウトだしな」
「そ。誰にも縛られたくねえの。俺らむかないよな、公職」
エストルはにやりと笑った。ヴィヴィアンも軽く声を上げて笑う。
「公職どころかお前の場合は職についてねえし」
「さすらいながらちゃんと働いてるって。いつか永住できそうなところ見つけたら、そこで花屋でもやるよ。副業で美容室。いいんじゃね? 俺らしくて」
「へえ。永住する気あんのか」
それは本当に意外だった。彼のことだから一生どこにも根を張らず、お気に入りの種子だけ連れて放浪し続けるのだと思っていたのに。
「いつまでも旅ばっかりじゃ疲れるしな。帰ってくるところって大事だよ」
「けど、女はとっかえひっかえだろ」
「俺は女の子に優しいの。好きになってくれたんなら、答えないと失礼だろ?」
「おめでたい思考だな、まったく。そういうの優しいとは言わないぞ」
「なんで」
この男は本気でそう問い返してくるから困る。期限を決めて付き合ったり、同時期に数人彼女がいたりした。ちなみにこれは浮気ではなく、一夫多妻制状態なのだとエストルは豪語する。
しかし、『多妻』という表現をする割には、結婚しようという言葉にはきっぱり首を横に振る。挙句、いやだと即答したりもした。あまりしつこい女性がいると、魔法を使って別の男を好きになるように仕向けたりする。
エストルの女性の扱いは、優しいどころか時として冷酷だ。確かにエストルと付き合っている女性は皆楽しそうだし大切にされているが、別れたあとの様子は酷くて見ていられない。女性陣はエストルをたとえタイプだと思ったとしても、観賞用に留めておかなければ痛い目を見るとヴィヴィアンは思っている。
「何人泣かせてんだよ、それで」
あまりにもむごい扱いではないのか。ずっと一緒にいる気がないのなら、最初から優しくなんてしないほうが相手にとっては親切だ。細やかに女性の要求や考え方を理解することができるくせに、彼はなぜ誰か一人を大事にするということを考えないのだろう。
女性関連の問題がこじれるとものすごく厄介だし、ヴィヴィアンにはエストルの考え方が一生理解できないと思う。
「お前は常にナタリアを泣かせてるじゃんか」
「常に泣いてるほどあいつは弱くねえよ」
思わずすぐ返答したが、エストルは不服そうに腕組みして小さくためいきをつく。
「お前鈍感だからな。知らないとこで泣かせてんだよ」
ぐさっときた。
彼からの、女性の扱いに関する指摘は鋭い。常に的確なことを言われ、はっとさせられるのだ。彼はもしかしたら、女性以上に女心がわかる男なのかもしれない。
「……あー」
心配をかけまいとして強がりを言うナタリアの強張った表情が脳裏をよぎる。昔からそうだ。べったり甘えているように見えて、ナタリアは時々大事な本心をヴィヴィアンに言わない。
「思い当たる節ありまくりって顔だな」
エストルはにやりと笑みを浮かべ、優雅に足を組みかえる。
あたりまえだが、女性の扱いは格段にエストルの方が上手い。ヴィヴィアンは女の子の考え方が上手に理解できないし、いつも知らないうちに傷つけていて困ったことになる。
「ここ数日であいつの泣き顔何回見たかなって思ってさ」
「ぼやぼやしてると俺がさらっちゃうよ」
当然これも軽口だが、こういうからかい方をするのでエストルは面倒くさい。面倒くさすぎて思わずため息が出た。
ナタリアとエストルがくっつくことになろうが、自分には関係ない。しかし、大事な親友が大事な親友を悩ませ、泣かせ、傷つけるようなことにはなってほしくないのが本心だ。
だが、そう言ってみたらからかわれるのは目に見えている。
「勝手にどうぞ、と言いたいとこだが今はあいつに触れられないぞ」
「は?」
「魔よけ。俺が護符を作って持たせてる」
一瞬、虚を突かれたようにエストルは沈黙した。
「……それで、魔道士をはじくってことか?」
「そう」
やがてエストルが紡いだ慎重な言葉に、素っ気無く即答する。彼は一体何を考えているのやら。
横目で様子を窺うと、なにやらにやにや笑う彼の姿が目に入る。
「なんだよ。お前にも立派に所有欲というものが」
「ねえよ。ストーカーが変態魔道士だったからだ」
間髪いれずに否定してやった。こういう方面のからかいは苦手だし面倒くさい。
何だつまらない。そう言いたそうなエストルが、おそらくそんな言葉を口にしようとした瞬間。
「きゃー! エストルじゃなーいっ!」
不意に二階から声がした。次いで、ばたばたと階段を降りる足音。嫌な予感がする。
「げ! おいナタリア、エストルに」
背後を振り返って『近づくな』と言いかけたところで、ナタリアは華麗にエストルの胸に飛び込む。途端にばちばちっ、と火花の散る音がした。
「うあっ!」
呻くエストルはソファに座っていたので、背後に何もないナタリアの方が弾かれて床に座り込むはめになった。
この護符は魔力を持った者との間に強力な壁をつくる。相手が強力な魔道士であればあるほど、壁は強固なものになる。しかも、ナタリアの護符に押し返された魔力の暴走で火花がおきたり熱が生じたりするのだ。
「えっ、どうしたのよエストル」
起き上がりながらおろおろするナタリアだが、エストルは胸に手をやってむせながら『こっちへ来るな』とジェスチャーする。
おそらく強力な壁に押しつぶされたおかげで苦しいのだろう。ナタリアはわけが解らないといった顔で、助けを求めるようにヴィヴィアンを見上げた。
「お前には魔よけを渡してあるだろ。忘れたのか?」
「ああ、そうだったわ」
「同じことユキノにやろうとすんなよ、あいつまだ万全じゃないから」
「そうね、気をつけなくちゃ」
ちらりと目をやると、ソファの背もたれに腕をひっかけ、エストルが体を引き起こす。
「っ、ヴィヴィアン。きいたぜ」
「ごめんなさい、エストル」
にやりと口許に笑みを浮かべるエストルに、ヴィヴィアンも苦笑を返す。エストルはナタリアに手を借りようとしかけ、思い出したように手を引っ込めて自力で体勢を整えた。
「不本意だが、これで魔道士に触れない事が立証されたわけだ」
「すごいわヴィヴィアン!」
エストルは乱れた亜麻色の髪に適当に手櫛をかけると、すっと立ち上がった。相変わらず口許に不敵な笑みを浮かべたままだ。決していやらしい感じの笑みではなく、どこか少年を思わせるような笑みである。
「そんじゃ、そろそろ本題へ。庭かな、こういう時は」
「おう。それじゃユキノ、飯よろしく」
ユキノは頷き、保冷魔法のかかった箱から食材を取り出し始める。
それを見届けたヴィヴィアンは、外套を羽織ろうとしてコート掛けを見て、そういえばまだ繕ってもらっている途中だということを思い出した。
仕方がないのでジャケットを肩に引っ掛けて庭へ出る。