第四十一話 芽吹く厄介の種
食事が出来る前にすっかり目が覚めたのは肩の痛みのせいだけではなく、何やらはしゃぐ声が煩かったからだ。
「ってえ…… 何だよ」
肩を押さえながら起き上がると、ナタリアがこちらを振り返って口許に手を当てる様子がぼんやりとわかった。
「あら、起こしちゃったわね。ごめんなさい」
「ほんと、安眠妨害」
「ごめんヴィヴィアン、たぶん俺のせい」
しばらく聞いていなかったユキノの声がしたので、声がする台所の方を見た。しかし、眼鏡がないのでそう遠くまでは見渡せず、彼の姿はぼんやりと風景に同化していた。
「久々に眼鏡はずしたヴィヴィアンをまともに見たわ。あんたどっちもいけるわね」
「とって」
ナタリアがいるであろう方向に手を伸ばすと、微妙にずれた位置から眼鏡を渡された。かけてみれば、ユキノが台所で水仕事をしているのが見える。
「あれ。服買った?」
ひだのついたロングスカートのような、真っ黒な衣類。こんな奇抜な衣類をユキノは持参していなかったと思う。
「そう。これね、袴っていうんだよ。絶対この方が動きやすいと思って。股引でも問題ないんだけど、道場ではいつもこれだったし。でも自分が持ってたのはみんな丈が間に合わなくなってたから、弟にあげちゃって」
半分くらい話がわからなかったが、とりあえず頷いておく。
「で、何? ロングスカートに見えるけど」
「スカートじゃないし! ちゃんと別れてるよ。ほら」
右の腿の外側から布地を引っ張り、ちゃんと両脚が別れていることを見せてからユキノは再び台所のほうへ体を向ける。
「刀もしっかり手に入ったし、ローザには本当に感謝してる!」
「ううん、私もありがとう。これすごく可愛い」
見れば、ローザの手には小さな巾着袋が握られている。若草色の布は表面に縮れたような加工がしてあり(もともとそういう布地なのかもしれない)、イリナギらしい画風で鳥や花が描かれていた。
「それ、ユキノがプレゼントしたのか?」
先ほど自分がナタリアに与えたものとは随分と格差があるように感じる。明らかに女の子が喜びそうなものをユキノは選んでいるのだ。ユキノが気配り上手な男であることは知っていたが、女の子の扱いまで上手いとは思っていなかったのでなんだか微妙に負けた気がした。負けたからどうこうという問題ではないが。
「そうよ! それでね、あたしはこれなの」
そういえばなんだかナタリアの髪型が違うと思ってはいたが、まさかかんざしで留めているとは思わなかった。楽しげに頭の後ろを見せるナタリアは、かんざしでその長い金髪を結い上げていたのだった。ユキノのものと違い、赤いガラス玉や布製の造花のついた黒いかんざしは、ナタリアの金髪によく映えている。
「へえ。なんか斬新」
「それってどっちにも取れるわよ、意味」
「褒めてるよ。ね、ヴィヴィアン」
当然だとでも言いたげにローザが反論し、ヴィヴィアンをちらりと見た。ヴィヴィアンは頷いて、ナタリアを見上げて微笑む。
「良いよ、それ。似合ってる」
たまには良いだろうと思い、素直に褒めてやった。ナタリアがやれば大体どんなファッションでも似合うのだ。たぶんこの髪型は、ダンスパーティー以降のメルチスの街で流行する。ひょっとしたら街を飛び出し、城下の方まで伝染していくかもしれない。身内贔屓などではなく、一般論で彼女は可愛いと思うのだ。
「嬉しいわ!」
満面の笑みを浮かべたナタリアはヴィヴィアンにぎゅっと抱きついてくる。八割くらい予想できていた行為だったから、傷に触れないようにそっと左肩を上げた。
「はいはい、解ったから離れろ。薬草臭いの移るぞ」
ヴィヴィアンの胸板に頬を寄せ、嬉しそうに笑っているナタリアを引き剥がす。彼女は薬草の臭いを気にしていないのだろうか。おまけにヴィヴィアンはまだ上を着ていないのだ。
「パーティーの日、楽しみにしていて! 絶対いつもより可愛いから、あんた惚れちゃうわよ。とりこにしちゃうんだから」
「はいはい。とかいって、どうせ礼装で集まったカッコいい男たち多数にお前は惚れるんだろ。俺そっちのけでアタック始めたり」
そんなことだからストーカーに絡まれるのだ。後始末をするのはヴィヴィアンなのだし、少しは軽率な言動や行動を控えて欲しい。
「しないわよ馬鹿! そのためにあたしが当日にあんたをスタイリングして、世界一カッコよくするんじゃない。楽しみで仕方ないの」
「そっか。なら良…… くねえよ! 編み込みだけは絶対嫌だからな」
「ううん、もうちょっと考えるわ。あんた一昨年より髪伸びたもの。どうしようかしら。できたら燕尾を着て欲しいのよね、サイズ合わせようかしら」
「折角礼装買ったのに」
「あら、それならあんたの私物をベースにあたしが手を加えるわ。コサージュは白い百合でどうかしら? 清楚だし夏らしくて良いじゃない」
あれこれと思案をめぐらせ、楽しそうに同意を求めてくるナタリア。また着せ替え人形にされるのかと思うと、なんだか想像するだけで疲れる。
しかしナタリアにセットしてもらうと、髪も衣装も確かに様になっているので嬉しいのも事実だ。彼女にスタイリングしてもらって一緒に踊っていれば、曲と曲の合間に可愛い女の子たちに誘われる。満更でもない状況だ。
「ヴィヴィアン、ちょっとテーブルの上使っていい?」
声を掛けられて、食卓を振り返った。ユキノがテーブルの上に風呂敷の包みを置いて、こちらを見ている。
「何するんだ?」
「新しい前掛けにも刺繍するんだ、『comodin』って」
笑みを浮かべて紺色の前掛けを広げて見せるユキノを見て、ナタリアが大声をあげる。
「あーっ!」
「うるせえな何だよ」
「そうだわ、ユキノの礼装を仕立てなおさなきゃいけないんだった!」
「いいじゃねえか明日で」
「今暇じゃない! 何か服作りたいのよ」
確かにそうだ。仕事が無いし、昼時は未だなので寝ることくらいしかやることはない。そこまで考えて、早急に対処しなければならないはずの問題を二つくらい思い出した。
「あー…… ユキノ、留守番頼んだ。俺、こいつんち行ってくる。外套とか回収してすぐ帰ってくるよ。リビングの血の跡消してこないと」
アイアランド夫人が失神しかねない程の、夥しい血の跡はまだ消していないのだ。早くなんとかしなければ絶対にアイアランド一家にとって不快だろうし、ヴィヴィアンだって不快だ。
「俺も行くよ」
ユキノは風呂敷を解きかけていた手を止め、壁際に立てかけてあった新しい刀を手にする。しかし、ヴィヴィアンは彼を止めた。
「今はうかつに店の外に出ないほうがいい、相手は魔道士だから。まだ貧血だって完全に治ってないだろ?」
「わかった、それじゃローザと仕事してる」
「頼んだ。行くぞ、ナタリア」
ソファの隅の方に丸めてあった服を羽織り、ヴィヴィアンは適当に前のボタンをはめながら玄関のドアを開けた。ナタリアが後ろからついてくる気配がする。
店の脇の路地や正面の酒場のテーブルなど、怪しいところは全てチェックしながらナタリアの手を引いた。そして自分のすぐ右隣の、必ず目が届く場所にいるように釘を刺す。
「左側にいると俺、咄嗟に腕動かないかもしれない」
「わかったわ、ちゃんと右側にいる」
お守りをつくってやったとはいえ心配だった。相手は魔道士なのだ。ヴィヴィアンが護符を作ることなど先読みしていて、魔道士でない相方を探してきて誘拐を担当させたりするかもしれない。今のところ嫌な魔力は感じないが、気は抜けない。
日差しはじりじりと肌を刺す。外套の温度調節がない今は、非常に暑くて苛立ちの度合いも増した。ナタリアも暑そうに手で首筋を扇いでいる。
「塾は再開したかしら」
「するって言ってたか?」
「午後から開くって言ってたわ、掃除をしてから」
「そっか」
そんな会話をしながら歩く。心なしか早足になっていたが、ナタリアも早足でついてきた。いつもそうだ。ナタリアと一緒に歩いていると、彼女が必ずヴィヴィアンに歩調をあわせてくれる。
「お母さんも午後に帰ってくるのよ」
嬉しそうにナタリアは言った。街の魔道士たちがたくさんいる場所で守られていたとはいえ、ナタリアの母は魔力もなければ武術の腕もない。安否が心配だったに違いない。
「それじゃ急がないとな」
「あら、あんたもお母さんに会いたいの?」
「ちげえよ、掃除。あんな光景見せるわけにいかない」
人通りの多い道に出る。書店やカフェがある通りだ。路上で髪の長い女が敷物を広げ、そこで何かを売っている。この街ではよくある光景だ。
たくさんの人がいる場所に来ると、たくさんの魔力の気配も感じる。強すぎるエストルの魔力は彼の自宅方面から感じたし、知り合いの魔道士たちの魔力が混ざり合って空気に満ちている。
これが昼時のピークになると、もっとたくさんの人が街に出てくるから大変なことになる。たくさんの人がいすぎて、魔力も混雑状態になる。人は避ければいいが、魔力は意識して自分で締め出さない限り色々な方向から感じるのだ。あまり外に出たくないと思う理由のひとつがこれだった。
ヴィヴィアンはふと、ひしめきあう魔力の波の中に混ざった馴染み深い魔力の気配に気づいた。極めて至近距離にいるのは、いきつけのカフェのマスターだろう。こうやって魔力を拾い出す感覚は、ちょうど人ごみの中にちらりと知り合いの顔を見つけたような感じに似ている。
「あ。マスター」
ナタリアが呟いた。
復旧の道具や用途不明な石材などを担いであるく男達がたくさんいたが、彼らの間から真っ白い長い髪が時々見える。向こうもヴィヴィアンがいることに空気に伝わる魔力で気づいたようで、ちらりと振り返る。
「おはよう」
マスターは足を止め、ヴィヴィアンとナタリアが来るのを待っていた。
たくさんの人がいる通りだが、その中でも腰まである長い白髪はひときわ目立つ。身長はロジェと同じかそれより低そうなほど小さく、加えて白髪なのでマスターは老人に見えがちだ。しかし、近寄ってみれば青年と中年の間ぐらいの年齢がわかる容姿だし、張りのある凛とした声を聞けばすぐに彼が老人で無いとわかる。
もともとは茶髪だったらしいのだが、ある重大な呪文を唱え間違えたことによって全身が燃え、もちろん頭皮もやけどし、それをどうにか治癒呪文で治したら白髪しか生えてこなくなったと聞いた。失敗したのが闇の精霊との契約だとか、死人の蘇生秘術、他人への呪いなど、色々な噂が飛び交っているが本人は固く口を閉ざしている。ヴィヴィアンも深く訊ねるつもりはない。
「久しぶりね、マスター!」
「おはよう、ナタリア」
並んでみるとナタリアのほうが身長が高い。あまりこの二人が一緒にいるところを見ないので、余計に珍しい光景だった。
「買出しですか」
訊ねると、マスターはにこりと笑った。銀のフレームの眼鏡が昼の日差しを跳ね返して輝く。マスターは常に長袖で丈が足首まであるような黒い外套を愛用していて、足元はいつだってふくらはぎまでの皮のブーツだ。絶対に暑そうだが、やはりヴィヴィアンと同じように衣類には温度調節の魔法をかけているらしい。だから一年中同じような格好をしているのに、非常に涼やかなのだ。
「まあそんなところだよ。……怪我をしているようだね」
「解りますか」
「カフェのマスターの鼻を馬鹿にしちゃいけないよ。薬草の匂いで解る。まだ痛むんだろう」
「ええ」
「少し止まりなさい」
マスターはヴィヴィアンの前に立ち、身長が足りないので右手をうんと伸ばしてヴィヴィアンの肩のあたりにかざす。そして彼は、何か小さく呪文を唱えた。系統は治癒の呪文だとわかったが、聞いたことのない呪文だった。疼く痛みがだんだん痺れたようになり、驚いて肩を動かしてみれば痛みはすっかり消えていた。
「あ、ありがとうございます」
「君の治癒力や魔力には手を出さずに、痛みを消し去った。効いてるかい?」
その言葉にナタリアが反応し、ヴィヴィアンをちらりと見上げる。
「即効でした」
「凄いわマスター!」
「ジュリオスの古語だよ。ここらの魔道士はあまり使わない手段だ」
一瞬だけそれはどこだろうかと首をかしげそうになったが、遠く離れた大陸の小国の存在を思い出す。ヴィヴィアンはその土地の気候や風土がどうなっているのかを少しだけ授業で習った事があるが、ほぼ名前しかしらない。
「マスターは平気ですか」
何しろ今の呪文で痛みがすっかり消えたのだ。ヴィヴィアンは鎖骨あたりをこつこつ叩いてみて、骨への振動が傷に何も害を与えていないことを確かめながらマスターを見下ろした。
「私は動かない魔法が得意なんだ。地味に凄いタイプだよ」
おどけた仕草でそう言って、マスターは笑顔を浮かべた。ヴィヴィアンは微笑を返し、彼に軽く頭を下げた。
「地味じゃなくて普通に凄いです。今度お礼させてください」
「気にしないでくれ。君は大事な常連さんだからね」
「それはお互い様じゃないですか」
マスターが次に向かう店とアイアランド家の方向が同じらしいので、ヴィヴィアンはマスターも一緒にいてもらうことにした。マスターは街一番とは言われないが、本人も言うように動かない魔法が得意なのだ。一緒にいてもらえれば、もしもの時にも安心である。
彼には燃え盛る炎を操ったり巨大な水の壁を作ったりするような強さはないが、治癒や音などの魔法にかけてなら自分より凄いとヴィヴィアンは思っている。
「ほう、それでナタリアは変な男につけられているのだね」
ナタリアは早速、今朝起きた事件についてかいつまんでマスターに話していた。言いづらそうな部分はヴィヴィアンが助け舟を出した。マスターは親身に聞きながら、時々何か考え込むような表情で辺りを見回している。
「怖いのよ、文面で脅されたでしょう? あたしも魔法が使えたら、こんな奴すぐ暴き出して氷の檻に閉じ込めるのに」
「私も力になるよ。パーティーでは音楽担当だから、ホールの一番高いところからダンスを見ていられるんだ。異変があったらすぐヴィヴィアンに伝える」
「心強いわ、マスター」
二人がそんな会話をしているのを聞きながら、ふと足を止める。今、一瞬何か違和感を感じた。
「マスター」
「ああ。ちらりと尻尾を出したね」
違和感の正体は、明らかにこちらに意識を向けている魔力だ。ヴィヴィアンはいつでもナタリアをかばえる体勢で辺りを見回す。視界の端にくすんだ金髪の男が引っかかる。彼は路地からひょっこり顔だけ出していたが、ヴィヴィアンと目が合うと慌てて引っ込めた。
直感で彼だと判断し、マスターに視線を送る。マスターは無言で軽く頷いてくれた。全速力で彼がいると思われる路地に飛び込む。